ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

2月(受け手の経験をつくるとは)

マクドナルド放送大学 (MISA SHIN GALLERY)

高山明(PortB)

 

 高山さん・PortBは、みる側の経験として演劇をとらえたことによって、やる側とみる側という一方向のパタンから転回したと思える。演者が演じることをつくるより、観客の経験(行動や認識など)をつくる、組織する、演出する、ことになっている。いわゆる観客参加をこえて、直接行動に近付く。ブレヒトの教育劇(教材劇)の可能性をひろったといえるかもしれない。こちら側とあちら側という境界、自分という境界をもつれさせるような経験。広い意味での教育に近付いているのだろうか。自分が変化して世界との関係が変化するというような。ソーシャル・エンゲージド・アートみたいな文脈にはまりすぎない方がいいのだろうと思えた。

 

目撃者たち (blanClass)

地主麻衣子+カニエ・ナハ

 

 地主さんは言葉に対する問題意識があるようで、今回は詩人のカニエ・ナハさんと交互に朗読するという試みをされた。言葉は自分を自由にするが不自由にするともいえる。アフタートークでは、政治的な意見、指向(あるいは嗜好?)は議論では変わりにくい、むしろ逆効果、という例など話されていた。交互の朗読は、ダイアローグではないがモノローグでもない、やり取り性のあるかたちになっていた。ゆるい対話のような関係性のある言葉を聴く場だったのかもしれない。会場には椅子のほかマットや座布団が置かれ、観客は座ったり寝そべったり歩き回ったりできる。照明は暗めで、リラックスできるようになっている。そういう演出は、やろうとする内容に合っていたと思う。

 

山と群衆(大観とレニ)/四つの検討 (blanClass)

眞島竜男

 

 近代国家・権力(者)との関係、ポピュラリティ・世俗的力…そういうものがある芸術(家)、という問題意識。歴史の見直しでもあり、今日のアクチュアリティへのとらえ返しでもある。二人をキャラクターにした会話のテキストが台本のようにあって、会話の内容に批評性が入っている。ストレートには分かりにくい。グーグル翻訳で文体が変換されているだけでなく、シチュエーション・コメディということで、もともと文脈の変換を交えたテキストだったのだろう。テーマの物語化を分裂させていくような、実践的なやり方だったと思う。文字テキスト、物と身体の動き、(タッカーで描く)絵画、映像(映画)など要素が多い。文字テキストはゲーム画面のイメージでもある。観客にとっては、読むということの比重が割と大きいかもしれない。翻訳が、割り切れないものを生じさせていく。日本語と英語と読むことも翻訳だが、パフォーマンスを見ることもテキストの翻訳であるように思えてくる。

 

イサム・ノグチと長谷川三郎-変わるものと変わらざるもの (横浜美術館

 

 イサム・ノグチと長谷川三郎が1950年代に出会い、それから日本の伝統を見出して意識した抽象芸術の創造へ向かった、というストーリーの展示。50年代のモダニズムの見直し。伝統的なものと日本的なもの、歴史的な同一性と地理的な同一性、これらはそれぞれ別々なものなのだろう。それらが組み合わされてストーリーになっていくのかもしれない。

 

既存の展示等を改変 : RECALLS (TALION  GALLERY)

X、成相肇、橋本聡

 

 開催中の五つの展覧会を、五つのオリンピック大会と、キャッチフレーズの言葉の類似性で結び付け、解釈した見方を提示。イケアの製品と企業理念への注釈を提示。二つの改変が展示されていた。東京オリンピックという具体的なイベントを前に、展覧会がオリンピックに巻き込まれることに対して、架空の共犯関係をパロディとして見せている。イケアの方は、パロディやアイロニーというより、比較的肯定的に扱っている感じがした。説明文中心の展示ともいえるが、問題が分かりやすいアクションなので生々しいとも思う。

 

(原牧生)

1月(言葉とパフォーマンス)

私の頭の中のメディウム・スペシフィティ (blanClass)

原卓也(パフォーマンス)

 

 藤枝静男の小説『田紳有楽』をテキストとして用い、一部朗読もしている。物が物を演じるという意味として絵具を塗って、川原さんの肉体がメディウムになっている感じがした。パフォーマンスというのはそういうものかもしれないとも思った。

 テキストのもとの小説は、物(陶器)が話したり感じたり経験をしていくという書き方。例えば昔話「さるかに合戦」は、ハチと栗の実と臼が仲間となってカニを助けサルとたたかう。そういうものたち。また、仏教的でもあり、例えば宮沢賢治のいろいろな生き物の童話のような、宗教的な宇宙を語るための寓話のようなお話し。日本の近代文学自然主義的な私小説の私とは別のやり方。

 それはそれとしてパフォーマンスは、物に物を演じさせる私 と 物 との関係から、私と物との関係 と その関係を記述する私 との関係へすすませることを、倫理的問題として扱っていた。それは少し観念的なので表現としては儀式のような感じにみえるかもしれない。

 それから、もとの小説に依存していることと自立していること(パフォーマンスは小説に触発されているが、テキストは台本ではない)、その両面性が未解決な感じもした。

 

Fu  shi  gi  N°5 の居留守 (仲町の家)

向坂くじら、橘上、永澤康太

 

 ちらしのプログラムには、①baby talk ②body to words  etc.とある。①や②は、言葉の手前のようなものだろうか。あるいは言葉にとっての他者性。そういうものを想定し(仮説)、その場でパフォーマンスしてみる(実験)、という趣旨だったのかもしれない。

 実際にやったことは以下のようなこと(だったと思う)。

・二人がディベートのようなことをして、もう一人は離れてそれをみていて時々指示を出して介入する。

・一人が自分のネタのようなことをして、他の二人はそれをみてダメ出しして注文をつけて違うことをやらせていく。

・一人は、テキストをPCで打っていきプロジェクターで見せる。一人は、うたう(歌詞はあってもなくてもよい)。一人は、体を動かして何かする。それらは相互関係があったのかもしれない。よく分からなかったが。

・三人でフリートーク。好きな色を話したりしていたが、急に橘さんが幼児みたいに声を出してふるまい他の二人が応答するという場面もあった。

etc.

 即興の言葉のセッション。わけのわからない主張にわけのわからない主張で対抗する、ナンセンスな議論。言葉と現実のずれを無理やりこえさせる、いわゆる無茶ぶり。等々。言葉がつかわれているということはどういうことなのかが、あぶり出されている気がした。

 

パリドライビングスクール (ユーロライブ)

テニスコート神谷圭介、小出圭祐、吉田正幸)、山口ともこ(ゲスト)

 

 ナンセンスコメディという感じで、演劇として台本と演出があり練習している。即興より出来不出来の評価がはっきりしやすい一方、枠を共有しやすいからより多くの人がみにきやすいとも思う。

 最初の場面はパリドライビングスクールだが、パリという言葉から連想の逸脱を重ねたようなナンセンスな設定になっている。それでも設定というのは意味をもちやすい。途中、そこから逃げ出せない狂気の館みたいになってきて、ほんわかコメディがホラーものになりかけると、パリドライビングスクールは何か寓意のようなものになりかねない。しかし、そうしないように、物語からずれていく。物語に対する非同一性に言葉の技があると思う。

 言葉をつかうことには規則のようなものがある。言葉をつかうこと、つまり規則をつかうことは、規則に導かれるということでもあるだろう。進行と同時に先取りがある。それが文脈の先端だ。先取りを同時に回収することが意味の感覚なのだろう。導かれた先取りを外すと、分からなくなる。だが、そこでおかしくて笑ってしまう場合もある。それが問題だ。とはいえ実際は、コントという文脈でギャグだと思って笑いで反応しているのかもしれない。しかし、演劇という枠の中であっても、いかに予期外にナンセンスできるかは、時間を忘れて笑っていられるかの実験なのだと思う。

 

邦楽番外地vol.7  (シアターX)

土取利行(歌・演奏・トーク)、いとうせいこう(ゲスト)

 

 土取さんの三味線弾き唄い、いとうせいこうさんのポエトリーリーディング、さらに土取さんのパーカッションといとうさんのラップとのセッション… トークの時間も長く、唖蝉坊の時代の芸や文化を担った人間関係など、土取さんの歴史の造詣が深い。そして、(関東大震災前の)社会主義者アナーキストに言及することが多かった。舞台での演奏も、政治的メッセージ性があるものが多い。デモの現場でやるようなラップを舞台で成り立たせられた、そういう場を土取さんがつくれていたといえるのだろう。インプロビゼーションアナーキズムの関係について考えさせられる。

 

(原牧生)

12月メモ

ポエトリー・イン・ダンジョンvol.1 (アートスタジオDungeon)

 

 永澤康太さんの自作詩のやり方は独特なものだ。書くことより、うたうこと、語ること。いちいち覚えながらつくっているのだろう。私的なことが詩にされている。感情、気持ち、思いが強い。この頃はラップにはまっているそうだ。言葉をあふれさせる方がいいようだ。くどきという言葉を思い出す(伝統的な意味で)。感情的な訴えかけ、情念的負荷のこもった言葉、くどくどいうこと。上演は、声になることなのだ。音程が何ともいえない感覚だ。

 

Reflection 辻可愛 佐々木智子 二人展 (Art×Jazz M’s)

 

 辻さんは近年は植物を描くことに関心があるそうだ。植物が生成している空間を描くことによって絵画空間を構造化することを探っているようだ。モンドリアンの木の連作のような抽象化も考えているらしい。佐々木さんは風景を描いている。特定の場所というより、いくつかのイメージが合成されているようだ。そのもとになるメモを普段つけているとのこと。形よりも色で、色斑で描いている。

 

ポスト・インプロヴィゼーションの地平vol.7  (Art×Jazz M’s)

 

 前半の松本一哉さんのライブは、金属製のオブジェや銅鑼を用いて響きを扱うものだった。銅鑼を円くこすっていると、低域から高域まで含んでいるような音圧が強まっていき、物理的に迫力あった。電気を使う音響機材を使っていない。

 後半は細田成嗣さんとのトーク(インタビュー)。松本さんは、フィールドレコーディング的なこともしている。だが、機材という技術の操作だけでなく、演奏のような技術、身体的関わりも使う。聴くだけでなく、聴きたい音をどうしたら作れるかをいつも考えている。音楽というより音フェチ。また、他の人がやっていることはやりたくない、等々。

 

Vacant Lot 散策研究会Cadavre K (TABULAE)

 

 この展示は、北川裕二さんによる散策研究会の活動記録であり、また、きれいに額装された写真作品でもあった。散策研究会は、長い道のりを長い時間歩くことを晴でも雨でも継続的にしている。さらにそれは散策というより徘徊ととらえられ始めている。

 ところで、赤瀬川原平さんは70年代に美學校で「トマソン」ということを始めた。それは83年から雑誌「写真時代」で読者参加型の企画として展開された。それから、路上観察というふうになっていく。「トマソン」は、トマソンという野球選手の豪快な空振りからインスピレーションをえてそう名付けられた。いわば、非有用性を超有用性へ転化すること(写真と語りによって)。

 「トマソン」を参照してみると、散策=徘徊の過激さの可能性を考えられるかもしれないと思えてきた。

 

(原牧生)

11月メモ

ポスト・インプロヴィゼーションの地平Vol.6 (Art×Jazz M’s)
細田成嗣(企画、対談)、大城真(ゲストアーティスト)

 ミニアンプの出力と入力をつないで発振器にして音を出させているものを複数置いていく。それらは影響を与え合いかつ影響を受け合う。大城さんはそれを聴きながら置く位置を変えたりピッチやボリュームをいじったりしている。聴き手が動いても聴こえ方は変わる。発振や干渉は不確定だが、ある程度管理された不確定性だと思えた。
 ところで大城さんは夏の大△(さんかく)というユニットで活動している。手ぶらで会場へ行き、そこにある物を使って何か即興する、ということもしていたそうだ。アンプ発振器は、そういう会場にあったギターアンプでやり始めたものだそうだ。何も持たずに行ってそこにある物で即興する、という話がよかった。もたずに、所有せずに、やる(できる)という実践、と考えると。機材は、音楽をつくるための元手、私有財産だが、そこにある物を共有物として扱う、あるいは無主物のように。そして、そのアンプを演奏者に従属させて使うのでなく、ひとりでに音を出させておく。所有(私有)の原理にとらわれない、対立すらできる実践、そう思うと即興を見直せそうな気もする。

 

シアターX晩秋のカバレット2018『ジョン刑事の実験録』 (シアターX)
多和田葉子(自作朗読)、高瀬アキ(ピアノ)

 ジョン刑事とはジョン・ケージのことだった。ケージの本の引用が朗読に取り入れられたりもしている。このシリーズは、社会的政治的なことを言葉あそびで風刺し批判するという面がある。今回も、ジョン・ケージと社会的政治的なことが近付けられている。ジョン・ケージは、大まかに思うと、1940・50年代は前衛芸術家で、60・70年代はカウンターカルチャーの人だったような気がする。80年代以降は、そういうものが成り立たなくなっている。そうなるとケージがいっていた聴くことや沈黙といったこともコンテクストが変わってくる。今回の舞台は、社会や政治に対して、黙って聞いてるだけじゃやっぱりだめよというメッセージ性も感じられ、多和田さんの朗読も気合が入っていて、刺激を受けるものだった。ケージは、先生だったシェーンベルクからハーモニーのセンスがないねといわれた、というエピソードが出ていたが、それはポジティブな言葉だったのだろう。

 

即興的最前線 「アポリア」の跳躍 (EFAG East Factory Art Gallery)
池田若菜、岡田拓郎、加藤綾子、時里充、野川菜つみ、山田光(以上出演)、
細田成嗣(企画)

 演奏はあれこれ4時間くらい続き、その後にトークが2時間近くあった。時間をかけてやっていることによって出てくるものもある。一口に即興といっても、やっていることは人それぞれだいぶ違う。トークの話を通じて、それをあらためて考えることができた。(1)特定の歴史性をもったジャンルとしての即興、インプロヴィゼーション。もともとは音楽の自己解体のような前衛性をもっていたと思う。(2)前衛性というよりコミュニケーション型。音楽のボキャブラリーが使われている感じもする。(3)音あそび、といういい方もある。演奏というより音を扱う作業(機材の操作)といえたりする。ポスト音楽的なのかもしれない。トークのなかで、記譜して演奏(上演)するというやり方では複雑すぎて実現困難なことが(集団)即興では起こっている、という考え方もあって、なるほどと思った。サウンド・アートやフィールド・レコーディングとの関係などいろいろ気付かされた。

(原牧生)

10月メモ

ユーラシアンオペラ東京2018 (座・高円寺

サーデット・テュルキョズ(vo.)、アーニャ・チャイコフスカヤ(vo.)、マリーヤ・コールニヴァ(vo.)、サインホ・ナムチラク(vo.)、三木聖香(歌)、坪井聡志(歌)、津田健太郎(歌)、吉松章(歌)、伊地知一子(歌)、亜弥(ダンス)、三浦宏予(ダンス)、八木美知依(箏)、大塚淳平(笙)、チェ・ジェチョル(韓国打楽器)、ヤン・グレムボツキー(ヴァイオリン)、小森慶子(クラリネット)、小沢あき(ギター)、河崎純(コントラバス

 

 音楽詩劇研究所(河崎純作曲・演出)の「ユーラシアンオペラプロジェクト」は、2016年から、アルメニア、ロシア、ブリヤート、トルコ、ウクライナ、で展開されてきた。その集大成であるような公演。トルコ、ウクライナ、ロシア、トゥバ、から四人のアーチストが参加して実現した「ユーラシアンオペラ」。その成り立ちは、実在の民族-音楽、現実の歴史、と架空の民族-音楽、想像の物語、との相互作用にある。登場人物に架空民族の役柄があり、全体として架空民族の物語という設定がある。はっきりしたストーリーというより、物語性のある場面のつらなり。情念的というかパトス的なものが強く感じられる。各場面のすばらしい歌・声・パフォーマンスは、舞台上では、現実のユーラシアのものではない。ユーラシアの夢のようなものなのだ。

 サインホ・ナムチラクの舞台美術は、夢のようなヴィジョンを可視化していたかもしれない。例えば、見た目は似てないが、アボリジニの絵画のように。墨絵のようにも見えるが、書(カリグラフィー?)として書かれてある。文字ではないけれど文字的な形象。彼女のボイスパフォーマンスが、言葉ではないけれど音声詩といえるように。視覚詩。

 いわゆるワールドミュージックのようなものではないものがもとめられている。ロマン的あるいはロマン主義的な感じがあるかもしれない。アイデンティティのふたしかさ。どこでもなくいつでもない想像と記憶の限界あるいは境界をこえようとする反復。モデルのないものを模倣しようとする即興。記憶にないものが想起されるように。

 

映画『あまねき旋律(しらべ)』 (ポレポレ東中野)

 

 本編の前に、予告編をいくつか見た。それらでは、高齢者、外国人、家族、被災地、ともに働きともに生きること、権力とメディア、等々が扱われる。現代社会の断面、いまのアクチュアリティだ。自分の生活との関係が近い。しかしこの映画の世界は、どう関係を取ればいいのか、歌声にひかれてみにいったものの、単純にはいかない。

 協働で行なう農作業のかけ声のようなものが、ポリフォニックな歌声になっている。機械化されてない山地の農作業はあまりにも重労働。それらをしている人たちの身体の丈夫さ体力がすごい。でも皆で歌いながらやっているからやれているのかもしれない。一方こちらは、そういう人たちを座ってみているだけだから…

 どのように棚田をつくるか、草を刈り、水を引き、掘り返してあぜを固める、そして苗を植え、それから収穫、脱穀、こういった農作業の様子が貴重に感じられる。自然環境と歴史条件の重なり、そこに、周縁的にあるいはすき間的に残っていたライフスタイル。この映画は、うたうということについて根底的に揺さぶられる。失われゆくものかもしれないが忘れられたくない。

 

(原牧生)

9月メモ

第11回JAZZ ARTせんがわ (調布市せんがわ劇場

 このイベントは今回で最後といわれている。詩、声の表現に関心をしぼって行ってみた。

 

9/15 「詩×音楽」

三角みづ紀(詩)、近藤達郎(ピアノなど)/巻上公一(詩)、ヴェルナー・プンティガム(トロンボーンなど)、有本羅人(トランペット)/白石かずこ(詩)、沖至(トランペット)、藤原清登(ベース)

 

 三角さんは何も持たずに立って、慎重に言葉を発している感じ。この詩は即興だろうか。途中で靴を脱いで立っている。外はしとしと雨で、そういう雨の午後に言葉のもの思いをしているムード。言葉の意味をたどろうとしてもはぐらかされるような、隣の席の人はねてしまっていたが、アンビエントな朗読。エコーみたいなエフェクトが必要だったのか疑問だったけど、アンビエント朗読というものの可能性を思った。

 

 巻上さんは声と身体表現の即興。例えば、抽象画がただのなぐり描きでなく抽象画と認められるためには、何か条件がある。それは客観的なものではない。かといって自分における確信だけでもないはず。

 声の即興詩はさらに困難だ。一口にボイスパフォーマンスといっても、音響である度合い、言語的分節に近い度合い、など違いがある。後者を使えば音声詩になるとも限らない。巻上さんの場合、それらを次々と組み替えるひらめきの回転力、スピード感、それらひとつひとつのユニークさの強度・完成度、などが感じられる。それは個人的な突破だ。他のやり方もありうるだろう。声の即興詩はマイナー芸術だ。

 

 白石かずこさんは、出てくるとまず英語であいさつしたのだが、この人がpoetryポエトリーというと、poetryポエトリーという言葉がリアルだ。長い紙に縦書きで詩を書いたのが巻物になっていて、それを広げながら朗読。呼びかけ、回想、台詞語りの挿入などが聞き取れる。高齢ということもあるが、浮世離れというか余計なことを気にせずに自分の詩をやっている感じ。でもそこにすごさがある。エゴイズムを超えた詩的自己感の強さ。JAZZ ARTというイベントにふさわしい、もはや歴史性のようなものを感じさせる、ポエトリーリーディング

 

9/16 坂本弘道ディレクション

ローレン・ニュートン(ボーカル)、ハイリ・ケンツィヒ(ベース)/山崎阿弥(声)、ヒグマ春夫(映像)、花柳輔礼乃(日本舞踊)、坂本弘道(チェロ)

 

 ローレン・ニュートンの声の使い方は割と音楽的に感じられた。だからボイスというよりボーカルなのだろう。音楽といってもいろいろあるけれど、西洋近代的音楽というようなもののなかにある。即興の基礎に声楽的トレーニングがある。

 山崎さんは声をより音響的に使っている感じ。発声のテクニックが予想以上だった。

 坂本弘道さんによる舞台設定がよかったようだ。舞台背面いっぱいに映像、舞台中央後ろ寄りに山崎さんが立ち、坂本さんは上手端の方で、日本舞踊が舞台上を動く。特に日本舞踊がここに出てくるのは不思議な感覚で、ミスマッチなのか普通にマッチしているのか分からなくなってくる。山崎さんの声は自律的・自立的なものだ。それが活かされる舞台設定だった。さいごに設定が変わってセッションになったが、そこではセッションなのに一人でやってるような感じにきこえてしまう。

 

9/15 巻上公一ディレクション

SAICOBAB[YOSHIMIO(ボーカル)、ヨシダダイキチシタール)、濱元智行(ガムラン/パーカッション)、秋田ゴールドマン(ベース)] ヒカシュー巻上公一(ボーカル/コルネット/テルミン/尺八)、三田超人(ギター)、坂出雅海(ベース)、清水一登(ピアノ/シンセサイザー/バスクラリネット佐藤正治(ドラムス)]

 

 SAICOBABは、初めて聴いたが、一曲目からインパクトがあった。特にボーカルの声の使い方。センスとパワー。音楽も気合だなと思った。基本的にフレーズの反復なので、やや単調にきこえるときもあった。

 

 ヒカシュー一騎当千という感じ。かつてテクノポップという言い方があったが、テクノポップらしさは、サウンドもそうかもしれないが、歌詞にあった、とヒカシューを聴いて思う。例えば普通のラブソングみたいな生活感レベルで共感されるようなものとは違う、モダニスム詩のセンスみたいなもの。さいごにSAICOBABのメンバーと一緒にやったが、巻上さんはセッションを仕切るとか共演のステージをつくるみたいなことも上手い。

 

 今月末は、「ユーラシアンオペラプロジェクト2018」の公演も行なわれているが、次に書ければと思う。

 

(原牧生)

8月メモ

涯の詩聲 詩人吉増剛造展 (松涛美術館

  吉増さんだけでなく、つながりある人たちの作品や資料も展示されている。亡くなっている人がほとんどだが、この場によばれている感じ。また、これまで出版された吉増さんの本を、手に取って読むことができる。落ち着けるところになっている。回顧展のような展示形式ともいえる。この美術館の建築が作用しているのが感じられる。生者のためだけの建築でないような。想起の実在性がつよい。

 スライドショーにもなっていた『長篇詩 ごろごろ』が示唆的だ。奄美・沖縄の旅のなかで書かれたという。日本語といわれているものの遠い記憶が呼び起こされるような。複線的・重層的な表記。何というか音文一致又は声文一致みたいな物質性。日本語の限界ということを考えてみたくなる。

 

頭山ゆう紀写真展『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』 (スタジオ35分)

  中島岳志さんの『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』(2018、筑摩書房)は、過去の人物を扱っているけれど、超国家主義(的なもの)は過去のものではないという動機で書かれた。かつての現場だったところへ行って撮られた写真は、現在が写されているが、見えない過去が写されているようにも思えてくる。作品の写真から四点選ばれて小さな丸いシールにされている。『華厳ノ滝』『ダンスホール新世紀』『大磯の海辺』『青山霊園の一角に佇立する頭山満の墓石』。いずれも人はいない。ダンスホールの写真は内部空間で、光の幻のようだ。滝や海辺は自然の風景で、人間的な歴史と関係なくあるようにもみえる。頭山満は頭山さんのご先祖。この世界この現実を否定あるいは救済する、自然や霊性のようなもの、それらは意識や観念の内部的なものとして敗北し続けてきたが、それでも終わっていない、ということだろうか。

 

内藤礼 明るい地上には あなたの姿が見える (水戸芸術館現代美術ギャラリー)

  感じられるのは繊細な意識で、それはまた、純粋志向というか完全主義的でもあるようだ。会場内全て作品。キャプションもないし、椅子・ベンチ・台座のようにみえるものも作品としてつくられている。小さな窓は、このために壁に穴を開けたのだろうか。自然光だけなのでライトもない。それができる美術館建築をいかしている。全体として、空間にしるしだけがあるような、希薄さとか微かさの演出になっている。現像(develop)されているもののような、潜在的なもののための空間なのかもしれない。特に奥の展示室は、光が静かに行き渡っている感じがした。傾けて並べられたキャンバスが開かれた本のようにみえる。

 

(原牧生)