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ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

制作のための勉強会 第1回

 第一回は、原がレジュメを準備して発表し、話の流れでその都度話し合いをしました。この文章を書きながら、発表したかったことを考え直してまとめ直したり、後からの補足をしたりしています。

 『ルネサンス経験の条件』には、実作者の書きものらしさがあると思います。筆者の、絵画や建築の体験に基づく作品論から書きおこされ、書くことによって作品経験に還ろうとするものだと思います。例えば、どこをどう見ているのか、あるいは、見るということは何をしていることなのか、について示唆深いものがあると思います。本書を読んでいくプロセスは、その人の作品経験を変えていくと思います。そのように読みたいものです。

 今回の発表では、おもに、フェルメール『信仰のアレゴリー』(付論)、マティス『十字架の道行き(ロザリオ礼拝堂)』(Ⅰ章)、イコン(Ⅶ章)、について語られた議論を順に取り上げました。これらにはいずれも、こちらを見ている顔の絵があります。問題の共通性もありますが、論点は移動しています。

 付論「信仰のアレゴリー」は、まず、ヴィトゲンシュタインの引用、宗教改革マニエリスムについての考察があります。自分の経験の確実性、自分の確信と自分が内心にいう言葉との同一性を観察すること、自分の経験のリアリティについてのマニエリスム的懐疑(不安)、というようなことが、論のはじめにあります。

 宗教改革マニエリスムから、様式についての意識はあるが様式自体はないこと、不確実性、無根拠、といった問題、間接性や暗示といった手段が考えられています。その手段は、不自然さ、わざとらしさ、わざとわざとらしくすること、でもあります。そう思うと現在に通じるものでもあります。

 フェルメール『信仰のアレゴリー』は、いくつか解説書や研究書をみましたが、低い評価が定着しています。本書の議論は、一般的な見方をくつがえそうとするもので、何か書いて世に出すということは、それくらいのことをするということなのだと思ったりもしました。

 フェルメール作品については、間接性ということがありました。一般にフェルメール作品の美点とされている光や迫真性は、暗箱カメラに映った映像を絵に写したもので、メディアが介在していたという見方です。

 一方『信仰のアレゴリー』は、信仰という言葉を絵にしたものですが、『イコノロギア』という辞書みたいな本があって、そこに信仰という言葉を言い換えた記述があって、その記述が絵のイメージのリソースにされています。対象の実在性をもたない、言葉をいいかえた絵にすぎないような絵、そういう絵によって宗教改革以降の信仰を絵にすること、そのやり方が、この絵の特長でした。この絵は、室内に座っている女性が主役で、後ろにある絵は背景であるように描かれています。しかしこの絵を見て、背景の画中画に描かれた女性(聖母マリア)がこちらを見つめているのに目がひかれると、見え方が変わります。画に描いた餅は実在的価値が低いというような、通常の現実性のレベルが反転して、室内の女性はそらぞらしく、画中画の女性がいきいきと見えます。そこには、絵を見る人が見られていることを見る、という視線の交換があることが指摘されています。それだけでなく、そのまなざしは別の次元からきているように感じられます(絵の中の女性が絵の中で見ているのは絵を見ている私たちではなく絵の場面にいる人)。画中画の女性には超現実的といいたくなるようなリアリティがありますが、それが間接的に生じているリアリティで、本書でいう表象の使われ方(現実性の反転を表象の交換といえるのかもしれません)によって、信仰を本当に絵にするということが間接的になされているということなのだろうと思いました。

 付論を読んでからⅠ章を読むと、マティスと信仰の関係という書き出しに思考がつながるような感じがします。

 『十字架の道行き』は、14の場面が並べて詰め込まれており、素描のようともいえるような黒一色の線描だけなので、全体に混じり合って一つの絵にまとまっているようにも見えます。しかしその中で、ヴェロニカのハンカチーフだけがういて見えています。ハンカチーフ上の顔は一種の奇跡として絵ではないとされていますが、ここでも、画中画のようなものの方がはっきりした実在感をもっています。

 本書に自己引用されている文章(「助動詞的空間」1993年)では、ハンカチーフを見ることを通し、イエス受難の様々な場面が同時に回想されている《いま、ここ》という瞬間、という見方が考えられていました。特定の時に属さない、ハンカチーフを介した、間接的な想起といえると思います。そしてⅠ章の本文では、ゴンブリッチのいう感情移入(描かれた場面を見て、特定の時と場所の出来事が、いまここでリアルに再現されているように感じる)という概念を検討し、以前の考えを見直しています。感情移入の同一化の原理、いまここの経験はいまここの経験である、ということに対して、分裂している、ということについて考察が進められています。ハンカチーフはそれ以外の場面とは位相が分裂していますが、ただ分裂しているだけではなく、ハンカチーフが(を)画面全体を(が)写像している、自己言及的と思えるような写像(反復ともいわれている)として見られていると思います。そして、ハンカチーフの方に実在感があることが、《いま、ここ》に対して《現前する反復》といわれているのだと思います。

 そもそも「十字架の道行き」とは、イエス受難の苦しみを霊的に想起する信心の一形式のことでした。場面ひとつずつに黙想と祈りの場(石製の標示や小聖堂)が設けられていて、イエスが耐えた苦しみを歩いて辿り直す、という信心の行為があるようです。

14の場面とは、1、死刑を宣告されるイエス、2、十字架を負うイエス、3、イエスの最初の転倒(歩きながらよろめき倒れる)(3C以降の伝承)、4、イエスが母マリアと(道端で)出会う、5、キレネのシモンに助けられる(シモンは途中からイエスの代わりに十字架を担わされる)、6、ヴェロニカが布でイエスの顔を拭うとそこに顔が写る(15C以降の伝承)、7、イエスの2度目の転倒(伝承)、8、イエスが(嘆き悲しみながらイエスについていく)エルサレムの女性たちに語りかけ慰める、9、イエスの3度目の転倒(伝承)、10、イエス、衣を剥がされる、11、イエスの磔刑、12、イエスの死、13、十字架から降ろされるイエス、14、イエスの埋葬、です。(『キリストの受難 十字架の道行き|心的巡礼による信仰の展開』、アメデ・テータールト・ドゥ・ゼデルヘム、関根浩子訳、勉誠出版、2016)

 マティスはこうした信心のあり方を絵にしたと考えると、この壁画を見る(向かい合う)ということに近付ける気がします。

 ヴェロニカのハンカチーフはイコンと関係あるといえます。イコンのことはⅦ章で扱われています。イコンを知ると、東方教会(正教)をそれなりに知ることにもなります。正教を意識すると、カトリックプロテスタントという二項図式だけではない、その内部対立で考えられていることとはだいぶ異なる発想がある、と思わされます。イコンは神の絵(イメージ)ではなく、キリストのからだが刻印されたもの、直接的なものだという解決の仕方、その根拠に神が人間になったという考え(教え)があることなど、とても正教的と思われます。

 イコンを通して神が見ている、イコンを見ることは、そのことを見る(観照する)こと、とされています。イコンはそういう宗教的生活のための用具のようなものなのだと思います。私のようにキリスト教の信者でない人がイコン(の図版)を見て感じるものを、圧迫感といえるかもしれません。私たちの方がイコンに見られている、そういうものと知らなくても、無意識的に圧迫してくる視線のようなものがあるのかもしれないという気もしました。

 ‟人間は自分が手本にすることのできる神聖なものを見なければならない。罪によってゆがんだ人間の顔を鏡のようにイコンに映すことで、人間の顔は本来の「像(イコン)」をとりもどす。”(イコンという語は、聖像をさすだけでなく、かたちという意味をもつ。)(『ロシア正教のイコン』、オルガ・メドヴェドコヴァ、監修黒川知文、訳遠藤ゆかり、創元社、2011)

 ここではイコンが鏡にたとえられています。鏡を自分の前にかざせば、鏡を見ることによって鏡から見られることになります(自分が自分の鏡像から見られる)。しかし、鏡においては、鏡を見る視線と鏡から見られる視線は同じ次元にあるのに対し、イコンにおいては、イコンから見られる視線(神)はイコンを見る視線(人間)とは次元が異なります。イコンを絵として見ると、内からの視点と外からの視点が重なり合っているということになります。ただし次元の違うものが重ね合わされていることになります。先の引用で、顔をイコンに映す、といわれていたのは、この、次元の異なる重ね合わせをいっているのだろうと思いました。

 以上三つのトピックを取り上げましたが、それぞれから、異なる次元どうしで起こっている、交換、写像、重ね合わせ、ということを見出しました。そこから逆に、例えば想起と記述(メディア化)の、交換、写像、重ね合わせ、によって、異なる次元を経験する(させる)ことができるだろうか、ということも考えられるかもしれません。

 ただ、取り上げたトピックはいずれも宗教に関わる芸術についての議論であり、異なる次元というのは宗教(信仰)としてリアルである次元だといえると思います。宗教文化というベースの上で成り立っているような。ですから、今の自分にとっては、そこを補って見ていたといえますし、翻訳を介した経験みたいな感じではありました。

 今日でも信仰をもつ人たちはいますし、宗教芸術もあるかもしれません。例えば現代音楽としての宗教音楽とか。しかし、本書を読むことによる可能性のひとつには、宗教芸術的なもの(経験)から、その限界(境界)みたいなものを取り出す、ということがあるのだろうと思います。そう考えてみると、異なる次元というのは、いわば限界宗教とでもいえるような、既存の宗教的文脈に拠らない分裂的な経験、それこそ何らかの作品経験にあるのかもしれないようなもの、それを語り直すことによってあらわれるようなものなのかもしれないという気もしてきます。

 

(原牧生)

勉強会について(変更のお知らせ)

 ポリ画報「制作のための勉強会」ですが、当初の、参加者の枠を広げるという考えを、変更することにしました。

 新規参加者はもとめず、現在勉強会の準備をしているメンバーでやることにしたいと思います。すでに制作のモチベーションを共有している人どうしで、そのうえで制作実践を進展させられるような、ポリ画報vol.5の制作につながるような勉強会にしたいと考えています。

 勉強会での内容はブログに出したいと思います。ご覧いただけたらありがたいです。

 

(原牧生)

勉強会のお知らせ

 3月から、ポリ画報「制作のための勉強会」 を始めることにしました。

 

 ポリ画報では、これまでも冊子や展示のためミーティングでテーマのことやそれぞれ関心があることなど話し合ってきました。それをもっとていねいに、少しだけ参加者の枠を広げて、やりたいと思っています。

 

 月一回のペースで、14時から17時、場所はTABULAE(タブラエ)

( TABULAE → 5484tabulae.tumblr.com )、

参加者は、ポリ画報メンバー(原、外島、辻、佐々木)とTABULAEの川原さんと

ほか希望者(若干名)の予定です。

 

 制作のために(自分たちとしてはポリ画報vol.5の制作)それぞれ関心あることを考えて話せる場をつくり継続する、そのまますぐに作品化につながらなくてもよい、参加者それぞれ制作の前提になるようなあるいは準備になるようなものを出し合う、ということをしたいと思います。

 

 会のやり方は、まず、毎回持ち回りで発表者を決めておき(とりあえず5人が1回ずつ発表する)、発表者はレジュメを用意、『ルネサンス経験の条件』(岡﨑乾二郎、文春学藝ライブラリー、2014)を基本文献(共通のレファレンス)として、この本の内容と関連付けて、各々の関心に応じたことを発表する、それから、それを受けて参加者それぞれ思ったことなどを話し合う、ということにしました。

 

 第1回は3月25日(土)14時~17時、発表者は原です。

ルネサンス経験の条件』が参照されている『ドストエフスキー』(山城むつみ講談社、2010)を参考にしました。信仰のアレゴリー、イコン、逆遠近法、グラッソ物語、想起、等々をめぐって、そこから何か考えてみたいと思います。

 

 もし、興味をもち会にきてみたい方がおられましたら(参加は無料)、ポリ画報

polygaho@gmail.com に連絡いただけたらうれしいです。

 よろしくおねがいします☆

 

(原牧生)

筑波大学〈総合造形〉展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

筑波大学〈総合造形〉展

2016.11.3 – 2017.1.29  茨城県近代美術館

 

 「総合造形」は、筑波大芸術系の専攻領域がいくつもあるなかの一つです。どうしてそこだけの展覧会が企画されたのか分かりませんが、本展は、作品だけでなく、解説と資料(カリキュラムや授業のスナップ写真や課題や提出物などいろいろ)が展示されていて、芸術教育としての「総合造形」をふりかえるものとなっています。

 展示は、時代を追って変遷をたどるようなかたちになっています。個人的には、二階展示室前半の、立ち上げから発展期までの四人の教官(三田村畯右、山口勝弘、篠田守男、河口龍夫)の時期を興味深くみました。「総合造形」って何なのか何もないところから始まったみたいでした。もともと筑波大の芸専は、バウハウスをモデルにしたらしいですから、絵画・彫刻の比重が歴史的に大きい美大とは少し違う感じがあると思います。「構成」という領域のとらえ方など、多分割と独特のものがあると思います。そういう文脈のうえでの「総合造形」で、造形、環境、メディアというキーワードが考えられていたようですが、結局「総合造形」の実態は四人の教官の作家(アーティスト)としての個性の集まりだったのだと思いました。それがよかったんだなと思える展示でした。彼らも前例なき自己流という感じで授業をつくっていたように感じられました。そしてそれぞれ学生から愛称で呼ばれていたということも、今思うといい環境(時代?)だったのだなと思えます。

 工房があって、切削など金属加工とか、ガラスや溶接もしていたと思いますが、学生は町工場的な技術を学び、制作していたというのは特長だったと思います。ビデオ関係も早くからありました。装置的なもの(キネティックやオプティカルなど)を作るとか、工作寄りな発想で作るとか、そういう傾向が比較的あったのではと思います。本展を通してみると、そういうものとして(昔の)テクノロジーアート、近年のメディアアート(メディア芸術)があるのをみることができると思います。

 また一方、二階の前半の展示室から後半の展示室へ移ると、がらっと変わっているという感じがしました。作家が違うから違うのは当然ですが、それに大学制度が変わったり筑波大のなかで組織変えがあったりしましたからそういう影響もあると思いますが、この違いは何なのだろうと考えさせるものがありました。80年代までの現代美術と90年代以降いまどきの現代美術の違いみたいな(しかし展示作品の制作年はそのように分かれてはいません)。「総合造形」の変化というより大きな構造的なものの変化が反映しているように思いました。

 筑波大は当初から国策とか産学協同とかいわれていた面もあったと思いますが、一方少なくとも初期にはフロンティア精神、自由さともいえる面があったのだと思います。当時陸の孤島といってはいいすぎですが都心から離れたできかけの人工都市みたいな環境で、教官として集められたアーティストの人たちが「総合造形」をつくり授業の試みを続けた、ということに、いまではないようなアートのあり方があったのだと思えてきます。今日ではアートはカジュアルというかソフトにポリティクスというか拡散的に普及していて、社会的とも公共化ともいえそうでいいがたい、アートの福祉化とでもいうような感じになってきていると思います。本展は「総合造形」をふりかえるだけでなく、卒業生の仕事など現在の「総合造形」のひろがり(学外)も紹介していますが、何となく上記のようなものも感じられました。

 本展では、「総合造形」の教官だった方たちのアーティストとしての教育の仕事と作品の仕事との両立を見直しました。河口龍夫さんの出展作『関係―教育・エデュカティオ』(1992-97)は、オブジェの連作といえると思いますが、大学の教育制度に割と直接関わるものであるような、本展の要といっていいような作品だと思いました。

 

(原牧生)

講演会「ことばと出会う」   MATTERS OF ACT 創刊イベント

 講演会やトークイベントをきっかけに自分で思ったことなど書きたいと思います。

 

ことばと出会う ぱくきょんみ講演会

2016.12.17  國學院大學

 

 これは國學院大學文学部の講演会で、《多言語・多文化の交流と共生》プロジェクトだそうです。お話しは、ぱくさんが出会ってきたものごと、人、本や映画など、朝鮮の民族芸術など、を語るもので、あいだに自作詩の朗読がありました。在日二世であること、女性であること、そういう自分として出会ってきたものごとたちが、ぱくさんにおいて多文化のネットワークとなっているようでした。

 お話しのなかで、詩は生きていくリズム、表現者は与える人、といった言葉があり、印象的でした。

 詩は生きていくリズム、というのは、詩を大きくとらえています。文学の一部門というのでなく、言葉の芸術とも限っていません。生きていく、という言い回しに、行動的・能動的なものであることが感じられます。いわゆる詩のリズムは、律動、韻律であり、あるいは、ふし(分節)としてあると思います。それらは、生きていくリズムから出てくるのだと思いました。例えば、赤ちゃんは大声で泣いていると、息を沢山吸ったり吐いたりして呼吸のリズムができて、自分が安定してくるらしいです。成長していくと、リズムがもっと複雑になるのだろうと思います。また、リズムの系がリズムを成していくリズムの階層構造、人生の季節のようなものもあると思います。生きていくリズムというのは、生きていく意志(意識)以前ですが、意志のもとみたいな感じがします。詩は生きていくことに内在しているということになります。

 しかし、それを詩として表現することは全く別のことです。表現者は与える人という言葉がそれをいっています。表現とは与えることだ、ということにもなります。これは、そういわれてみると当然のことでしょうか。しかし、自分のこととして考えてみるとなかなかたいへんなことだと思えます。この言葉は、ぱくさんの伽倻琴(カヤグム)の先生、池成子(チ・ソンジャ)さんについていわれたことで、池先生は120%180%与える人だということでした。与えるということは、深いところで供犠と関係あるような気がします。また、与えられた人は与え返すというあり方の経済と関係あるような気もします。与える人でありえているかというのは、欠かせない観点になりました。

 

MATTERS OF ACT : A Journal of Ideas 創刊イベント

石川卓磨、高嶋晋一、中井悠、橋本聡、松井勝正

2016.12.23  milkyeast

 

 アメリカで活動する中井悠さんが、No Collective というグループ、Not Already Yet という名義で雑誌をつくり、そこに出られた日本のアーティストとトークイベントを行ないました。雑誌名はMATTERS OF ACT で、今回のイベントでは、内容の紹介、ねらいに関することなど、話し合われました。何の雑誌か分からないようなものをつくる、逆に雑誌の編集によっておもてになかったものをあらしめる、というようなことだったかと思いましたが、そういう発想に共感しました。編集のセンスやキャパシティに基準となるものがないものをつくるという感じです。また、昨年日本にきてこちらの友達と会ったときの感触から、状況を活性化させる編集方針へシフトされたみたいで、意欲的な感じでした。

 今号は、フィクションということに関心をもって編集されたそうです。ポスト真実といわれる状況において、フィクションということをどう扱うかということを扱うことの戦略性は感じられる気がしました。言語行為論でいうパフォーマティブということも話しに出ていました。話し合いの途中で話し合いの仕方について話していく進め方にもそういう意識が感じられました。話している時間の長さの割合とかしゃべりあうテンポとか。そこで自分の話し方を意識的に変えてみるという試みもあって面白いと思いました。

 また、PC(政治的正しさ)という社会的な約束事みたいなものが実際どう機能しているのか、それをどう評価しどういう態度を取るのがいいのか、といったことについての議論は、中井さんのアメリカでの経験に基づいていて説得力があると思いました。また例えば、発言者が男性ばかりだということもいわれていました。そのことから何を考えられるか、ということは、あらためて考えるに値することであるように思います。

 本誌は年一回出すそうで、次号は未来をキーワードとして考えているそうです。このテーマの扱いもそう単純ではなく、時制をどう扱うかということを扱ったりするのかもしれません。中井さんは、本誌のみならず日本でまた別の雑誌が作られることも望んでいて、その積極性に立ち会えたことが、この会に行っていちばんよかったことでした。メディアをつくるという熱意や行動力に刺激をうけました。

 

(原牧生)

晩秋のカバレット2016 心にビート2016秋

 声・言葉・音楽のパフォーマンスについて、最近みたものの感想など書きたいと思います。

 

晩秋のカバレット2016  絵師 葛飾北斎

多和田葉子高瀬アキ

2016.11.16  シアターX (カイ)

 

 多和田さんが自作の詩のような散文のようなテクストをよみ、高瀬さんがピアノ(時に口も出す)を弾き、それぞれ自律的でありながら関係しあっています。そのセンスが何気なく絶妙です。全部で12のピースといいますかパフォーマンスから成っています。多和田さんのテクストは言葉あそび的な面があり、また風刺的でもあります。今回北斎を取り上げたのは劇場側からの提案のようでした。

 例えば、2番目の『傘をさす/雨のブルース』では、文末がいちいち「~カサ。」という言い方になっています。昔話などで、~とさ、という伝聞の語り口がありますが、それを言い変えたような、語りの紋切り型を異化する語りのように感じられました。内容は、子どもの頃に、自分では雨にぬれても平気だったのに大人から傘をさしなさいと言われていたことと、原爆投下後「黒い雨」から被爆した人たちのことを知ったことと、それらが混じり合った空想的な、黒い雨にぬれないために傘をさすというようなイメージ、だと思います。子どもの頃の思い出にさかのぼった、子どもの不安の記憶、がきこえてきます。それが、~カサ、というパタンの繰り返しで語られると、個人的なエピソードではなく、何かマンガチックでもあるキャラクターが架空の言い伝えを語っているみたいになってきます。カサの繰り返しは不安に対する反復強迫かもしれないと思うこともできますが、実際のパフォーマンスでは、こっけいというか笑えないギャグみたいな、あまりにもナンセンスな感じです。それが面白いと思いました。

 もし、閉じた言説空間(情報環境)が自分にとっての現実になってしまったら、不毛なことだと思います。何を信じて生きているのかということにもなります。意味は一つではないという言葉の面白さは、現実は一つだけではないということに通じ、狂気とも結びつけられますが、それがまた正気sanityのためによいのだと思います。

 

心にビート2016秋 ビートジェネレーション、ビート文学

ヤリタミサコPainter kuro、後藤吉彦

2016.11.25  Café ★ Lavanderia

 

 ヤリタさんは今年『Ginsberg Speaks』という本を出されています。この本のタイトルは、『ギンズバーグが教えてくれたこと 詩で政治を考える』と続きます。それに関連したヤリタさんの朗読とトーク、kuroさんの自作詩劇(ギンズバーグと関連したもの)朗読、後藤さんのサックス演奏(ヤリタさんとのセッションなど)、がありました。

 今回は、ギンズバーグ(1926-97)とボブ・ディラン(1941-)との交流の逸話や共演の音源が紹介されたりもしました。なぜか般若心経を朗唱?していたり(1964年)、ギンズバーグの『Vomit Express』 (ゲロ急行)という詩をうたっていたり(1971年)。ギンズバーグは、『Masters Of War』(戦争の親玉)を聴いて、ディランが気に入ったらしいです。その訳詞の朗読もありました。

 また、YouTubeから、ギンズバーグが『Put Down Your Cigarette Rag (Don’t Smoke)』という詩を早口でまくしたてているライブをみたのですが、don’t smokeという早口の繰り返しが途中で別の語の繰り返しにスリップしていきます。dope、nope、hoax、choke、cloak、suck、cock、等々、繰り返しが入り混じり言葉が紛れ込み(それは私は英詩のプリントとヤリタさんのお話しから分かったのですが)、観客は盛り上がり、それを映像でみているだけでも伝わるものがありました。このような声と言葉の活動状態が生そのものなのだと思えてしまいます。宗教的たかまりに近いものがあるような気もしました。ヤリタさんは音声詩としてきくこともできることを示唆されましたがそれも自分にとって発見になりました。

 

(原牧生)

岡﨑乾二郎個展

 最近みた展覧会の感想など書きたいと思います。

 

岡﨑乾二郎個展

2016.11.10 -12.11  Takuro Someya Contemporary Art

 

 岡﨑さんの作品は作品名(タイトル)と作品の関係に特徴があると思います。タイトルの言葉は作品の名ですが、その言葉自体もその作品であるような存在感があります。タイトルと作品は構造が同じなのだろうと思います。

 今回のタイトルを読むと、サイズが大きい作品のタイトルは、言葉が多くて長く、神話というか民話のようなメルヒェンのような、喩え話のような、寓意的な物語性が感じられました。詩と絵の関係というようなことを考えさせます。長歌反歌のように大小二点一組のもあります。タイトルは作品をあらわすとしても、作品はタイトルをあらわさない、言葉とイメージは構造的な並行関係であるのだろうと思えます。

 サイズが大きい作品は、感覚的に強く、荒々しいといえるくらいです。筆触というよりたんに触であるような、人の手によるのでない外力の跡みたいにみえます。岡﨑さんの焼き物の立体作品でも、手でつくったようにみえない感じがあると思いますが、そういうのに近いような気がします。

 サイズが小さいペインティングが横並びになっている作品のタイトルは、火とか水とかの語が象徴的な感じで、宇宙論的というか錬金術を連想したりします。サイズは小さくても作品空間のスケール感は小さくないという展示の仕方は、初期のレリーフ作品から通じるものがある気がします。閉じていない額縁(?)によって空間が複雑になっていると思います。二次元かつ三次元というような。絵画と建築の関係を歴史的に思うと、額縁は建築と絵画のインターフェイスだったのではないかと思えてきますが、これは額縁の再発明という感じです。

 ギャラリーの一つの壁面には、岡﨑さんが以前から共同研究開発されているロボットを用いたドローイングが9種類2点ずつ展示されています。9種類(9枚)をまとめて並べたのが左右にあって、向かって左側は黒、右側は緑や青で描かれています。ドローイングは抽象的あるいは即興的みたいにみえます(もしかしたら何かと何かが重ね合わされているのかもしれないということもできますが…)。9種類の並び方は左右対称になっています。9枚(種)の並びを一つのまとまり(パタン)としてみることもできますし、それが左右対称になっている全体を一つのパタンとしてみることもできます。異なる階層を同時にみていると、何となく、人工生命ということを連想します。

 別の壁面には、ロボットのドローイングで人の顔を描いたのが展示されています。これらには『physiognomy』というタイトルが付いています。この語は、辞書をひくと、(性格を示す)顔(つき)、人相学、などの訳語がありました。内面的なものを外面的にあらわし、さらに、外面的なものをつくることによって内面的なものをつくるということまで考えさせます。これらのドローイングは、ピカソの顔とか描かれてありますが、人相学の実践なのだろうと思えてきます。岡﨑さんが以前書いたテクスト『メルヒエンクリティック』(artictoc vol.3, 2007)に、16世紀の自然科学者ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタと彼の人相学について言及がありました。性格というのは感情のくせみたいなものかもしれませんから、人相学は感情のようなこころの状態を扱うアートになるのだろうと思いました。人相学は現代では疑似科学といわれるかもしれません。しかしここでは本来の可能性が見出されていて、それはこの展示の全てと連関してあるのだろうと思います。この展示は、マイナーなものも含めた学知の再編成・再生がひそんでいて、ひとりルネサンスみたいなものなのかもしれないという気もしてきます。

 このギャラリーには隠し小部屋のような展示室もあります。そういう建築的つくりまで作品になっていると思いました。

 

(原牧生)