ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

『神様メール』

あらすじ

 神は−−−−地球上のいかなる教義とも異なって−−−−ブリュッセルに住んでいる。大小さまざまな法則を生み出して人々に災厄を与えるばかりか、自宅アパートに家族を軟禁し、言動を制限して暴力を振るう最低のクソ親父だ。家出したきり戻らない兄のキリストに倣い、今度は妹のエアが人間世界への秘密の脱出口、ドラム式洗濯機に飛び込んだ。『新・新約聖書町山智浩氏によると『最新約聖書』:町山智浩 映画『神様メール』を語る)』を作れば何かが変わる。そう語った兄の言葉を胸に、エアは新しい使徒たちに会いに行くことにする。

 

神話1:知の巨人

 こと神の子らにとって、家出とは壮大なクーデターに他ならない。エアが神の機密情報をリークする際、どさくさに紛れて召命した使徒が、隻腕の美女オーレリー、小鳥大好きジャン=クロード、妄想癖のマルク、保険屋改めスナイパーのフランソワ、恋に恋する主婦マルティーヌ、女の子になった少年ウィリーの6名だ。

 彼らにはしばしばモデルの存在が見え隠れする。浮浪者ヴィクトールの丸い鼻はユーゴーそのものだし、ゴリラと恋に落ちるマルティーヌのエピソードは大島渚の『マックス、モン・アムール』(1986)と重なる。となればフランソワは『アメリカン・スナイパー』(2014)のクリス・カイルか。

 加えてマルクの半生が語られるエピソードではポール・ヴァレリーを思い出してしまって仕方がなかった(参考:清水徹『ヴァレリー』 - Living, Loving, Thinking)。顔が似ていないのはファンに遠慮しているというより、恋愛のパッションで大事を成した偉人が他にいくらでもいるせいなのかもしれない。真相は誰であれ、このマルクがカリカチュアライズされた喪男インテリゲンチャなのだとすると、性風俗に全財産を投資する彼のやんごとなき情けなさによって遂行されているのは、「知の巨人」神話の解体とでも呼べそうな、全き偶像破壊ということになるわけだ。

 

神話2:女神の知恵

 一行が破壊するのはインテリ神話にとどまらない。例えばこの映画のチラシ。男女どちらにも媚びない神の娘は仏頂面をキープするので、チラシの笑顔などはほとんど「奇跡の一枚」と呼んでも差し支えないほどであり、それだけで日本の配給会社が苦し紛れに落とし込んだ“愛くるしい少女が巻き起こす奇跡のファンタジー”という紋切り型の設定を見事に裏切ってくれる。大女優カトリーヌ・ドヌーヴはゴリラの子(?)を出産して種族の壁を突破するし、「女の子になった」ウィリーと神の「娘」エアはあっさりカップルになって、すべてのLGBTが陥りかねない言葉の罠を華麗にスルーして行った。

 謀反には母も加わる。神の妻は夫の言いつけに従って、全くと言っていいほど発語しないし、していることと言ったらほぼ掃除だから、家政婦というよりもルンバに近いくらいの存在だ。監督は女神を「知恵」と呼ぶのにはあまりにも頼りないキャラクターに仕立てることで、グノーシス派に与する異端映画とのレッテルを退ける切り札としたのだろうか。もちろん地母神と見るにもインドア派すぎるし、愛嬌あるルックスを活かして魔女になれるほど自立してもいない。確かに全然かっこいい女じゃないんだけど、だからと言って女性蔑視とつかみ掛かることなかれ。この誰でもない女神は、ただ自身が一切のロールモデルたりえないことによってのみ、女性に押し付けられるあらゆる理想像を拒否しうることを知っているのかもしれないのだから。

 

神話3:消えた銃撃

 さて、モーセ的スペクタクルシーンを担当する冒険家、ジャン=クロードを除くと、残る使徒は隻腕の美女オーレリーということになるだろう。オーレリーは凄腕スナイパー・フランソワに狙撃されるものの、義手が盾となって、撃たれたことにすら気付かない。フランソワはこの奇跡を前にして恋に落ち、彼女のためにスナイパーを廃業する。

 オーレリーの特徴を挙げてみよう。眉根を寄せた悲しげな表情と、東洋の血を匂わせるどこか異国的な顔立ち。左腕の損傷を含めて同じ特徴を持つ人物を一人見つけた。ロシア系ユダヤ人、Joseph Trumpeldor(1880-1920)だ。Trumpeldorは、日露戦争に従軍し、捕虜として大阪に抑留される中でユダヤ人としてのアイデンティティを確立。後にイスラエル国防軍の設立に関わることとなった「英雄」である。日本兵から学んだ「祖国のために死ぬ」という態度を理想としたらしい。でも「彼女」は死ななかった。

 本当にこの読み替えが可能であるとすれば、“「アメリカン・スナイパー」との恋愛物語”が持つ射程は存外大きい。あるいはこれ自体は私の荒唐無稽な思い付きに過ぎなくても、この軍人二人に職業以外の共通点があった、と記すことはできるはずだ。タナハとキリスト教経典という違いを無視することはできないけれど、両者ともにアブラハムの宗教が培ってきた書物に接していただろう、と。

 

ハッピーエンドへの想像力

 ちなみにここに書いたことを全然考えなかったとしても、『神様メール』は通常通りのルートで無事鑑賞することができる。というか、ここに書いた迂回路は全部私の妄想かもしれない。それでも心優しい誰かが引き続き私の寄り道に付き合ってくれるとして−−−−監督がこれらの取り扱い注意な案件をただ引っ掻き回すだけじゃなく、すべてに暖かい眼差しを注いでハッピーエンドを目指している、ということには同意していただけるのではないだろうか。神様のこっぴどい扱いについてはロン・カリー・ジュニアの小説『神は死んだ』を思い出したが、表現の自由って、誰かが大切にしている何かをなじり倒す自由である以上に、それを愛し、守り通す方法の自由であるはずだ。

 宗教感情に配慮するあまり、奇妙な言い控えをしてしまうことがあるが、こうした勇気ある作品が元に存在していること、そしてそれ以上にこうした作品を受け入れるだけの土壌があるという事実に驚き、かつ励まされる。誤解はできるだけされないようにしたい。けれどもそれを恐れるばかりでは、誰かのためにできることでさえ、とてつもなく少なくなってしまう。

 

神話4:神様の正体

 『神様メール』ではあらゆる想像力がハッピーエンドに向かって賑々しく進行していくわけだけれども、そんな中、常に例外として締め出され続けていたあの最低な神様は一体誰だったのか。すべての信仰心を小馬鹿にし、そのくせ“唯一のメタ視点を持つ”自分を崇拝して、実質人間以上のどんな能力も持ち合わせてはいない、そんな神様。…一読してわかる通り、これは神ではない。粗暴な無神論者だ。

 彼は強制送還された国で工場労働者となり、大型家電の組み立てに従事することになる。窮屈なルーチンワークによって量産されるこのマシンこそ、もはや自分がくぐることのできない異次元の扉であり、神の子らを地上に送り込んだ、あの洗濯機だったのではないだろうか。

 

 

(佐々木つばさ)

 

セルフリファレンス・リフレクソロジー

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

Self-Reference Reflexology セルフリファレンス・リフレクソロジー

2016.5.13-6.5(金・土・日のみ)  milkyeast

梶原あずみ、坂川弘太、篠崎英介、高嶋晋一+中川周、瀧口博昭、西浜琢磨、松本直樹、宮崎直孝、吉田和司

 

 自己責任や自己管理など自己を主体化させる力(あるいは制度、システム)が社会には働いていると思いますが、それらに対して自己が自由であるということは考えられるのか、というようなことに関心がありましたので、「セルフリファレンス・リフレクソロジー」というタイトルに興味がひかれました。自分が自分のツボであるような…。いやしという語はいやしいという語に通じているようですが、いやしいというのは社会からさげすまれています。自己管理ができないとだめとみなされるように。セルフケアという語を深読みすると、自己が自己である条件を扱う、社会にとっては両義的な、諸実践があらわれてきます。そこに興味深いものがあるのではないかという気がします。本展の作品は物として自律・自立している態度がみられますが、モデルのようにみることもできるのではと思いました。

 

 松本さんの作品と瀧口さんの作品は、出力が入力にループしてフィードバックでスイッチングしている回路になっています。無限に続く繰り返しが、自己言及的な仕掛けであるように思いました。

 坂川さんの作品と吉田さんの作品は、どちらも電球が使われています。電球と発光はダンサーとダンスのような関係ですが、これらの作品は、(電球が)光っていること、あるいは、光っている電球の、同一性とそのずれを示しているように思いました。

 宮崎さんの作品と瀧口さんの作品は、風船とか袋とかぐにゃっとしたものがふくらんだりして、バイオキネティックに動く柔らかな機械(ソフトマシーン)を思わせます。生物/無生物のような二分構造をスルーする感覚にリアリティがあると感じさせると思います。

 篠崎さんの作品は、力のつり合いを組み合わせて、空中都市のように、地面から自立し重力から自律しているようにみえます。物たちは固定されていないので、そこにありますがそこでなくてもいいというような潜在力が感じられます。止まっているようにみえても上演中のライブ感のような。

 高嶋さんと中川さんの映像作品は、物を扱っているらしいだけでなく、公園の緑地の周りを回りながら撮っているような緑地がメリーゴーランドのように回ってみえるところが入っていて、これは何だろうと思い、映像どうしの関係や全体の構成、時系列的な見方があるのだろうかなど考えさせられました。自分が回ること、見ることの相対運動のようなことが印象的でした。

 西浜さんの作品(ビデオ)では、複数の人でひもを持って、大きなあやとりのような形をつくり、また戻すことを繰り返しています。それらの形がマケットとして展示されていて、何となくですが、組ひものトポロジーみたいな感じもします。そう思ってみると、この反復はトートロジーともいえます。しかしそれでも、パフォーマンスとしては、同一性の反復というより、偶然性の一回性を繰り返しているのだと思います。

 梶原さんの作品は環境をつくるものだと思いますが、植えられたアイラトビカズラとLEDの色光が系を成しています。これらの色の光があるとよく育つらしいです。この植物にとって、この光は何なのでしょうか。まず、植物は、光をエネルギーとして取り入れて反応を起こしていると思います。しかしこの場合、光と光の違いによって生育反応に違いがある、ということは、植物は光の差異を区別している、環境としての光を情報として知覚している、ともいえそうです。そう思うと、植物は環境を意識している、というところまであと一歩です。この植物にすれば、自分の潜在的なものが目覚めて成長しているような気持ちかもしれません。

 一階から二階床へ突き抜けている瀧口さんの作品のように、建物自体を使った独特な展示をできるのがミルクイーストの特長でしたが、現在の建物の展示は本展で最後ということです。この木造の家屋が名残り惜しく感じられます。

 

(原牧生)

外島貴幸「背中を盗むおなか」

コント、パフォーマンス、ジェンダーチェイシング

外島貴幸「背中を盗むおなか」

2016年5月14日(土) blanClass

http://blanclass.com/japanese/archives/20160514/

 1. 

 外島さんの携わる作品は常にそういう性質を持っていますが、「背中を盗むおなか」も、事物を構成する要素がほどけ、もつれ、絡み合い、引っ張り合ったり千切れたりしながら展開していく作品でした。こうした「絡まり」の量は、これまでに見た外島作品の中では今作が最大で、おそらく彼の経歴の中で最も複雑な作品の一つになったんじゃないかと考えています。

 ソロパフォーマンスの今回は、ある程度の尺を持った時間の中で問題を収束させる/回収しないでおくというストーリーテリングの手法として観ることができ、その点でも参考になりました。

 

2.

 本人演じる作中の外島さんは、作品の発表に向けて案を練りますが、気がついたら本番当日。パニックに陥った外島さんはものとものとを取り違え、ものと人物とを取り違え、さらにはそれと自己とを取り違えていきます。舞台上の相関関係は否応なく入り乱れ、常時観客に状況整理を迫りますが、実体験を元にしたという作中のこの外島さんは、本当に混乱してしまっているのでしょうか。

  blanClassに駆けつけた外島さんは黒板の前に立ち、レクチャーを始めます。…ここにレールに括り付けられた人が三人います。今まさに列車が走って来るこのレールの途中には分岐点があり、もう一方の道筋の先に括り付けられているのは一人です。分岐点を操作し、列車の進路を変更することができるとしたら、あなたはどうしますか。

 ものは答えます。助かるなら三人の方がいいです。外島さんは書き足しながら答えます。

 今しがた列車の進路として設定したレーンにいるその一人が外島貴幸である可能性。そしてその外島貴幸が実は「外島」と「貴幸」の二者である可能性。さらに「外島」と「架空のミドルネームを持った一者」と「貴幸」の三名である可能性。極め付けには、「先に登場した三人」も「これと同じ三名」である可能性。

  どちらにせよ轢かれてしまう! 外島さんはチョークをほっぽり投げます。

 

3. 

 それではここに外付けハードディスクが二台あるとしたらどうでしょう。一台がハンマーで叩き壊され、もう一台は残されることがわかっていますが、それがどちらであるかということまではわかりません。確実にデータを保管するにはどうすれば良いでしょうか。

 すぐにもわかる通り、どちらのハードディスクにも同じようにデータを書き込んでおけば良いのです。これを先のレールの話に当てはめると、同時にどちらのレーンでもあるという「外島貴幸」は交換不可能な個別のハードディスク本体というよりも、むしろ保護されたデータの側であったとみなすのが適切ではないでしょうか。つまり、追い詰められた外島さんが《「先に登場した三名」と「分岐の先に発生した三名」が同じである》という奇妙な論理を持ち出してみせたことによってはじめて−−−状況は変化していないにもかかわらず−−−「彼(ら)」を絶対に損なわずに助け出す道が捻出されていたのです。

  したがって、外島さんは絶望する必要はありません。チョークを投げなくても良かったのです。

 

4. 

 不条理な苦難の連続を、ひとは現実と呼びますが、不条理を笑いとして克服するには、「もし」や「つもり」といった置換を積極的に発動させる必要があるのでしょう。そして「現実」の困難に向けて運用したそれはもはや「取り違え」ではなく、「例え話」と称されるようになります。そうすると例えば性差のように、ともすると絶対視されかねない観念の恣意性に敏感な人は、対応する二項の互換性という発見を通じて世界の見え方を改変する、貴重な機会に恵まれているのかもしれません。黒板の図も「例え話」のままでは終わらずに、「自己」の定義を転倒する手段として描出されているのです。

 

 

Miss Li –“Transformer”

https://www.youtube.com/watch?v=6lADQRaN4W8

 

 

(佐々木つばさ)

共にいることの可能性、その試み

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

共にいることの可能性、その試み

2016.2.20-5.15  水戸芸術館現代美術ギャラリー

田中功起

 

 このプロジェクトは、一般性がある大きなテーマをストレートに考えてやってみたものという感じがします。しかし、そのやり方はストレートではないです。美術館での展示は、たんに宿泊の実践を報告したものではなく、再構成ですし、別のプロジェクトの映像も別の場にあるのでなくそこにはいり込んでいます。会場あちこちに説明文があって、反省的なコメントや問題となりそうなことを自分で指摘しているようなコメントもみられます。このプロジェクトには自意識みたいなものが組み込まれていて、入り組んでいるのではないかと思います。

 参加者(とスタッフ)がしたことは、共にいることや協働することといったこと自体を問題(または目的)意識としてもった合宿のようなことでした。そのことはミクロなレベルの実践です。が、その中にワークショップやディスカッションの時間が設けられ、ここだけでない一般的な共同体や社会を問題にして考えたり話したりして、マクロなレベルにも関わろうとしています。

 1 共同の行為や作業などをしている場でのふるまい・発話、2 共同で話し合うという場でのふるまい・発話、という二つの位相があるともいえます。2は、1について話すということも含みます。参加者の感想みたいな話とか。さらにそのうえに、個々人のインタビューがあります。インタビューは、プロジェクトの中のことでありながら、個人として話していると、個人としての意識があらわれ、プロジェクトの外をみているような感じもしました。それもまた異なる位相だと思います。展示はこれら異なる位相で撮られた映像が相互参照されるようになっていて、それらのずれやつながりが示されていることによって、記録された出来事・現実の多元性というか多次元性がみえるようになっていたと思います。

 このプロジェクトをみると、現代アートのあり方とかアーティストがやることとは何なのかとか、あらためて考える参考になりそうです。私は、これとは逆に、やり方はストレートで考えは入り組んでるというのがいいのではと思ったりします。例えば、自分で(も)やってみるというような。そうするとあまり大規模なプロジェクトにはできないかもしれませんが、例えばコンセプチュアルなパフォーマンスのアートみたいなものはそういうものではないでしょうか。

 ファシリテーターという役も何なのかあいまいな感じもしますけど、粟田さんや狩野さんが用意されたワークショップは、ミクロな実践とマクロな視野を両立させようとするような考えが感じられました。音声詩を取り上げたり、声を使うことや、ある種の演劇のようにみえることなど、興味をひかれました。

 私にとっていちばん発見的だったのは、インタビューというものの可能性でした。本展で、共にいることの可能性に最も踏み込んだのは、インタビューという接近法によるインタビュー(している・されている)という状況だったのではないかと思えてきます。インタビューには、受ける人を傷付けるおそれもあります。しかしそれゆえに、インタビューがうまくいくとカタルシスがあるのではないかという気もします。それは何なのか、ということは、(二者の)共同性(なぜ共にいるのか)の核心に関係あるように思えます。

 

(原牧生)

「描かれた夢解釈」展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

描かれた夢解釈 ― 醒めて見るゆめ / 眠って見るうつつ

2016.3.19-6.12  国立西洋美術館版画素描展示室

 

 ポリ画報vol.3は「transdreaming」というタイトルですが、dream(夢)でなくdreaming(夢みること)が問題であるのがポイントだと思っています。夢みることは、一種の思考、何か想っていること、夢(イメージ)に定着されていない、記憶にのこりにくい、不確定性だと思います。その思考は意識されない記憶の運動で、それが睡眠中はイメージとして体験されているのだと思います。ポリ画報vol.3は、描かれたdreamingであろうとするものでした。そのために、メンバー間で、夢の記述の交換や話し合い、つまり夢を語り合うという過程を設け、夢みることを実験化しました。それを描くやり方も、本当はイメージの再現が目的ではなく、不確定性をトレースするようなつもりで、一本の鉛筆を二人で持って描いたりしてみました。夢みることは繰り返されるので、自分がみた夢を思い出すことも他人がみた夢を想像することも記憶のなかに取り入れられて、記憶イメージとしてのリアリティをもつようになります。

 本展は「描かれた夢解釈」というタイトルですが、作品をみていくと、夢解釈という語の使われ方はそれほど厳密ではないようでした。夢解釈は、夢みたということの意味をもとめようとする、夢みた人に言葉をもたらすことだと思います。本展は、いわば、夢というお題で描かれた作品が多いです。そこに、夢についての画家のイメージや考えが反映され、シュルレアリスム以前、フロイト以前といってもいいのでしょうか、の夢解釈のようなものがあるといえるのかもしれません。

 たんに夢を描いた作品の展示とは違います。画家自身がみた夢から描かれた作品はあまりなかったです。例えば、夢みる人とその夢とが同一画面に描かれた、デューラーやブレイク、クリンガーらの作品があります。そこには、みられている夢のイメージと夢みている人との関係が描かれてあると思います。また、魔法陣のように文字が浮かんでいる幻視のような、レンブラントの作品もあり、それをみている人も描かれてありますが、その空間の描き方によって、それはその人だけがみていることになっているものなのか、他の人にもみえるものなのか、分からないという絵になっています。

 寓意的な図像や物語説明的な絵のような、夢を外側からとらえた作品が多いなかで、ルドンの作品は、夢のようなイメージを内在的にとらえられていたように思いました。聖アントニウスの誘惑というキリスト教の主題をもとに、フロ-ベールが『聖アントワーヌの誘惑』という小説を書いていて、ルドンは人に勧められてそれを読み、そこから連作をつくったそうです。それぞれのタイトルが、小説から引用された言葉なのか、詩行のような感じです。その言葉とリトグラフのイメージとが照応しているようです。他の作家の作品は、夢みるということを観察して描く距離感のようなものがありますが、ルドンの作品は、画家が夢みている、ということが描かれてある、というような感じがします。作品のような夢をルドンがみたのでもフローベールがみたのでもないのですが、フローベールの想像を読んでルドンが想像してつくった作品が、ルドン自身のdreamingであるかのように感じられます。これまでルドンの作品はいわゆる幻想的という感じであまり興味なかったのですが、今回はじめて、詩的であることによって作品が直接的な媒体となり、内的リアリティを感じさせる、ということを思いました。

 

(原牧生)

石川卓磨個展「教えと伝わり」 MOTアニュアル2016 キセイノセイキ

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

教えと伝わり

2016.4.2-5.1  TALION GALLERY

石川卓磨

 

 教えと伝わりという問題設定、とりわけ伝わりということのひき出し方が興味深く思えました。「伝わり」という名詞形のいい方は、非人称的で、送り手と受け手の主体性や意志・能動性があいまいである場合もありえて、潜在的あるいは無意識的である場合もある感じがします。例えば、意識していない影響のようなものは「伝わり」であるように思えます。この展示は、「伝わり」というそれ自体は目に見えないものを外面的にとらえる実験であるように思えてきます。

 ダンスを教える人と教わる人というお互いを意識しながらのやり取りをセットして、それと対比的に、その様子をひとりで見ている人をセットしています。その人は、学ぶように見てくださいというような意味の説明というか指示を始めに与えられるだけだそうです。「教え」は当事者どうしで成り立ちますが、「伝わり」が成り立つためには、その人が関与はしてないけれど関係がないわけではない何かが必要です。この作品の撮影のセッティングは実験デザインとしてうまくできているように思いました。特にその指示の与え方が。放置演出とでもいいたい気がします。それによって、その人は、素ではないけれど演技としてはゆるい状態で、自分でも同じようにやってみるというほど積極的ではないけれど少しそのように動きかけたりすることもある、等々、その人なりに学ぶように見るという内面的なタスクをひとりでこなしていることになります。その身体が撮影された映像をみていると、その潜在性がみえてくるような気がしてきます。ダンスの伝わりが身体にどうあらわれるか、他の人だったらどうか、複数のケースをみられたらそれもよかったかもしれないと思いました。

 

MOTアニュアル2016 キセイノセイキ

2016.3.5-5.29  東京都現代美術館

遠藤麻衣+増本泰斗、小泉明郎、齋藤はぢめ、アルトゥル・ジミフスキ、高田冬彦、橋本聡、藤井光、古谷誠一、ダン・ペルジョヴスキ

 

 キセイもセイキもいくつか同音異義語があります。規制は妥当に思えますが寄生も意外とあてはまりそうです。セイキはキセイのアナグラムのようですが、世紀と生起は同程度のもっともらしさに思えます。

 ARTISTS’ GUILDとの協働企画ということで、企画の立ち上げから美術館の外部の作家が関わっていた異例の企画ではと思いました。ARTISTS’ GUILDはそれなりにメンバーの人数がありますから、団体として関わるというのは実際にはどうだったのだろうとか、美術館とどういう条件で協働したのだろうとか、興味深い疑問がいろいろうかびます。

 横田さんの出展映像は年齢制限があって、それについて説明した紙が貼ってあります。それを読むと、現実の映像を現実として経験するとはどういうことなのだろうと思えてきます。自分に関係あると感じることなのか、他者の存在を実感することなのか。現実についての想像力を使えることが必要なのだろうと思えます。そして、規制というのはそういう想像力に対してかけられるものでもあるようです。

 近年、人を現実に直面させるために現実を提示する、その手法がアートになっている、という一つの傾向があると思います。取材や調査と不可分のあり方で、たいてい映像が使われます。アートは、想像力の使い方を示し、みる人の想像力を動かすものだろうと思います。本展もやはり映像が多いのですが、私にとっては、映像が主でない作品の方が想像力が動かされるというか印象がつよい体験になりました。例えば藤井さんのいわば空白がメインの展示とか。

 また、想像力を使って詩的論理をうみ出す、それをになう言葉の比重が割と大きいアートもあると思います。規制のような制度的な力に対して、人間は昔からポエティック・ライセンスのような可能性を確保してきたと思いますし、それは重要だと思います。橋本さんの作品は、ソフトなインストラクションによってある種のクリティカルな現実に直面させるだけでなく行動化するあるいは行動化を想像させるものだと思います。本展の作品は、ねらいが比較的通じやすそうに思えました。

 増本さんと二十二会(渡辺美帆子・遠藤麻衣)の「へんなうごきサイファー」をみて、この展覧会の中にこういうパフォーマンスがあるのが面白いと思いました。即興が特長だと思いますが、即興だけでなくルールというかタスクみたいなものを決めています。やっていることに自分で決めた合目的性があるともいえます。といってもそれは、へんなうごきをするためのきっかけのような感じです。そのルールは、他の人の動きに応じて自分が動くことになるような仕掛けになっているので、マイルール・マイタスクで動いていても相互作用的に動いているようにみえます。他の人と応酬しながら動きを解発していく自律的な系であることがサイファーなのかもしれません。また、衣装やメイクが演技的というか大まかにいえばおしゃれです。現代アートの拡散という見方もできるかもしれませんが、間接的な共同性、インディペンデントな表現、即興という遊び、などを考えさせるこのパフォーマンスは、キセイ問題に対して応答しているように思えました。

 

(原牧生)

Post Studium シンポジウム - デウス・エクス・マキナ、あるいは2040年の夢落ち

 シンポジウムをきいて思ったことなど書きたいと思います。

 

Post Studium シンポジウム –デウス・エクス・マキナ、あるいは2040年の夢落ち

2015.3.27 本多公民館(国分寺市

宇川直宏藤幡正樹、岡﨑乾二郎

 

 このシンポジウムは一般観客に開かれた企画でしたが、話の文脈はポストステュディウム芸術理論ゼミから続いています。パネラーの岡﨑さんの考えは、それ以前の四谷アートステュディウムから一貫したものがあると思います。例えば、「美術手帖」2008年8月号の特集、現代アートの基礎演習(岡﨑乾二郎監修)などでみられるような、(メディアというより)メディウムという観点、人間という前提条件をこえる、といったポイントがあると思います。また近年、人工知能、脳、意識、ロボットなどの研究開発が進んで、それが社会にインパクトを与えていますので、そういうことも取り入れられています。予告では、いわゆるシンギュラリティ問題が目立っていましたが、当日は、それは直接にはあまり話されませんでした。パネラー三人とも何かつくっているアーティストなので、互いに話をしやすいように感じられました。

 藤幡さんは、これまでのご自分の仕事、展示資料などをバインダーにまとめた本のようなものを作っておられて、その資料それぞれにARが付いています。ARアプリが入ったものをかざすとAR動画などを見られるようになっています。展示会場を擬似体験できたりするようでした。後日ネットでみると、AR作成ツールの説明などあって、それなりにPCを使える人ならある程度のものはできるみたいで、私はARについてそれほど知らなかったのでちょっと驚きました。紙媒体とARの組み合わせはもっと普及していくのでしょうか。「ポリ画報」という紙媒体にとっても関係あることだと思いました。

 シンポジウムでは、宇川さんがジェネラルディレクター・キューレーターをされた「高松メディアアート祭The Medium of the Spiritメディアアート紀元前」(2015.12.18-27)の紹介がされたりもしました。

 宇川さんは、他の人のサインをその人になりきってそっくりに書く、ということを10年くらいされているそうで、そんなことをされているとは知りませんでしたが、これまで1000枚分くらいの人のサインを書いてきたそうです。職業的霊媒師のようになって書くのでしょうか。ネットを検索すると有名人のサインは画像があるのでそれを手本にしているそうです。自分をメディウムにするアートだと思いますが、そのさいに、自分を消しても消しきれないものがあるというようなことを言われていました。

 高松メディアアート祭では、大本教出口王仁三郎も取り上げられていました。お筆先(を書いたのは出口なおでしたが)は、自分から書き始めるので自発的(おのずから)ですが、意志的(みずから)ではない、ようにみえます。意識しているのに意志はしていないで、書くという能動的な行為を受動的にしているようです。宗教という文化的制度のもとで、自分が自分より高次のものに明け渡されているような状態で、かなり自分を消しているように思えます。

 高松メディアアート祭には岡﨑さんが共同研究されている一種のロボットも出展されていました。ドローイングする筆記具の先の運動(筆圧や速度や方向などの変化)をデータ化して記憶し、それを画板(紙など貼ってある)の運動として再生し、手に筆記具を持ってその先を画板の動きにあてていると、データ化されたドローイングが描かれていきます。このとき、筆記具を持ったまま手を動かさずにいればドローイングの再現度は高くなります。でも、線を見ながら無意識的(?)なフィードバックで手が動いてずれていることもあります。筆記具の先に注意を集中して見ていると、手がつられて動きやすくなるかもしれませんし、実験状況全体に気を配って気持ちの距離をもって見ていれば、意識的に手を止めていられるかもしれないです。しかしもしかしたら、無意識的に手が動いている方が、自分が描いているという主観的な感じがあるかもしれないという気もします。この実験作品は、自分が描いているのではないのに自分が描いているように感じさせる仕掛けです。誰のドローイングでも描けるし、そのドローイングを誰でも描ける、ともいえます。私を渡すメディウムとしてのロボットだと思います。

 メディウムへの転回は、自分は自分のものだという自己所有の原理、(近代的な)人間の条件を変えるものだと思われます。自己所有を前提としない経済や政治など考えられるのか、このシンポジウムは、革命という語も使われていましたが、ラディカルなもののありかにふれていたように思います。

 

(原牧生)