ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

かぼちゃの気持ち 「POST/UMUM = OCT/OPUS」

1.あらまし

 先月末、宮城にある風の沢ミュージアムというところに行ってきた。おかざき乾じろさんの展示を見て、ワークショップに参加するためだ。概要については原さんが詳しく書いてくれているPOST/UMUM=OCT/OPUS 展 - ポリ画報通信ので、私はもうちょっと勝手なことを書こうと思う。

  出品作の性質は大きく分けて二つ。屋内にあるロボットを使ったドローイングと、屋外の「支柱」の作品。「支柱」の足元には珍しい実をつけるつる植物がいろいろと混植されていて、七月末のこの日には、まだ薄緑のスイカやふわふわの産毛に覆われた迷彩柄のヒョウタン、特撮怪獣みたいにいかつい質感のカボチャの子供たちが、風に揺られて飄々とぶら下がっているさまを目撃することができた。

 加えてワークショップは来場者が何か作業をするというよりも、おかざきさんのアーティストトークというか、レクチャーみたいな感じだったと思う。作品の前で語るのって難しい。あまりにも直接的な物言いをすれば制作意図を短絡的に解釈される可能性があるし、そうなってしまえば今だけじゃなく、これから先もずっと読解の間口を狭めてしまうことになるかもしれない。アーティストである限り、いかなる語りの名手にしても、こうした危険と無関係ではいられない。

 

2.語りの手法

 そこでおかざきさんは、世界の神話から原爆記念公園、憲法解釈へと、すごく広い範囲の事柄について、自身がどうインスパイアされたかという点を明示することなしに次々語っていくという手法をとった。ここ数年講義を聞いてきた者にとっては、数年間の総ざらいというか、改めて記憶を掘り起こして強化するような働きがあったけれど、初めて聞く人にはいくぶん難解だったかもしれない。

  中でも興味深かったのが、外の支柱の作品について「現代美術作品と呼ばない」とか「自分の作品だということにしたくない」とか「カボチャの作品なんだ」とコメントしていたことだ。こうして書きおこしてみると、おかざきさんが自作についておそろしくネガティブな評定を下しているように見えなくもないけれど、たぶんそういう意図ではないだろう。

 と言うのも、今年の春先からだったか、おかざきさんが「動植物(のみならず非生物までも!)を〈人間〉としてカウントする」という奇抜なアイディアを案出していたからだ。「〈人間〉としてカウントする」というのは、この場合、その存在に知性を認めること、と言い換えてもいいかもしれない。カボチャに知性を認めるのなら、それが作品を作ることだって認められるはずなのだ。

 

3.カボチャの気持ち

 カボチャは人の思うようになるとは限らない。どうして支柱を無視して地べたを這いつくばってしまうのか? せっかくロープを張ったのに、いちいち雑草に絡みついて行くのはなぜなのか? 人からすれば、都合の悪いことばかりかもしれない。こんなとき、腕のいい園芸家ならどうするだろう。一週間水抜きの刑? それとも巻きひげ全切除の刑? いっその事新しいのに植え替える? ……そういう判断もありうる。だけど園芸を続ける限り、いくら気に食わない苗を処分してみたところで、遅かれ早かれいつかは何かの判断を、植物自身に委ねざるをえなくなるわけだ。 

 カボチャは今、支柱に掴まるのには少しばかり、自身の蔓のレンジが足りないと考えたのかもしれないし、暴風を避け、より多くの光を集めるために、違う方を向いていたほうが都合がいいと考えたのかもしれない。突き詰めて言えば、カボチャのことは結局、カボチャにしかわからない。人はカボチャの置かれた場所の影響と、カボチャ自身の身体の状態とを、カボチャ自身ほど詳細に知ることはできないからだ。だからこそひとまずカボチャの行動に、カボチャなりの合理性があるものだと想定し、様子をみる。同じ畑の同じ作物でも、条件は毎年異なっているし、同じ一本の植物にしたって、幹と梢では役割が違う。自他の状態を合わせ見て、つる植物はことさら鋭敏に環境をトレースしていく。

  言うまでもなくこうした観点は、知性があるのなら相手は絶対に自分の思い通りになるはずだと考え、思うようにならければ直ちに切り捨ててしまうような態度とは異なる。それはそれでカボチャに期待をかける気持ちの表れ方なのかもしれない。だけど、植物であれ人であれ、誰かに知性を認めるということは、自分には理解できない相手の判断にも、何らかの根拠なり有効性なりがあるのだろうと想像する余地を確保しておくということであって、気に入らなければ即一刀両断という、極端なやり方の反対側にこそ位置するものだ。

  カボチャの蔓は思考の軌跡だ。制作が思考そのものに近い、と考える限りにおいて、これはやっぱりカボチャの作品と呼んで差し支えないのだろう。

 

4.作ることと、書くことと

 支柱の作品はおかざきさんの作品じゃないと言った。現代美術でもないと、まず本人が言っていた。それじゃあおかざきさんは作ることを諦めてしまったのかというと、それももちろん違う。特に支柱の作品は、現代美術史に名を刻まんと強く主張してくるようなものではなかったわけだけど、それだけに実は重要で、おかざきさんの思索のマイルストーンというか、膨大なキャリアの中でも後々広く参照される可能性が高いものだと考えている。理由は−−−−書く必要があるんだろうか?

  おかざきさんは以前、「美しい芸術は答えを出す」と書いていた。うろ覚えなので正確じゃないかもしれないけれども、本当に、実際に、そうだと思う。このところ以前にいや増して、厳密な作品は正確に解かれうる、いや、解かれるんだという確信を強くした。それは私に自信を与えると同時に、作品評を書く必要性をほとんど感じなくさせる出来事でもあった。おかざきさんのトークがそうだったように、直接的言及だけが語りの最良の手段ではないし、平明な話法だけが万人に公平であるわけでもない。平明さと明晰性は必ずしもイコールではなく、仮に平易な表現の優越性をのみ主張するのなら、それは底抜けに無邪気で乱暴なまでに杜撰な強者の論理であると言わざるをえないだろう。そうした事柄は常にその言葉に耳を傾けられる可能性を持ってきた者だけが語りうる妄言だ。繰り返すが、いつだって正しい、つまり状況に対して適切な手段が一定であるとは限らない。

  だから作品を作るんじゃないだろうか? 

 

5.供犠と作物

 レクチャーのスライドにもあった通り、中空にあるカボチャのボリュームはひとがたを想起させるもので、それがぶらぶら揺れるさまはただかわいくて楽しいだけじゃなくて、供犠とか吊るされた犠牲者といった、えげつないほど陰惨なイメージをつきまとわせてもいる。ある者が生き、そして死ぬ[殺される]。亡骸は播種の効果を持ち、地上に豊かな実りをもたらすが、このオオゲツヒメならびにハイヌウェレは、その後一切顧みられることがなく、ひっそりと忘れ去られていくのだろうか? ……農家はどうだろう? 彼らは仕事の間じゅう、畝の合間で聞き取りにくいその声を、耳にし続けているのではないだろうか?

  話は飛んで、私にも作物から連想した物語が一つあった。『大きなかぶ』である。キプロスピグマリオンよろしく、おじいさんが丹精したかぶが彼の希望通りに大きくなり、というか大きくなりすぎて抜けなくなり、おばあさん、孫娘、加えて犬、猫、果てはネズミなどという、戦力としてどれほどの実効力を持ったものかすこぶる怪しい人物(!)たちを総動員して、やっとの思いで引っこ抜く。いいなあと思うのは、ここでは犬と猫、猫とネズミといった天敵同士が、相争うこともなく目的を共有していることだ。

  豊かな実りが平和と楽しみをもたらすように。それがハイヌウェレのねがいだった、と信じたい。そしてそれは彼女が亡くなり、ばら撒かれ、拡張されることによってはじめて完遂されるものであったと考えたい。そうでなければ彼女は永遠に、浮かばれることがないままだから。

 

(佐々木つばさ)

POST/UMUM=OCT/OPUS 展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

POST/UMUM = OCT/OPUS 展

おかざき乾じろ

2016.4.24-10.23  風の沢ミュージアム

 

 風の沢ミュージアムは、岩手県北西部の栗原市にあります。7月23日・24日に、おかざき乾じろさんのワークショップ(実際にはレクチャーのようなもの)があり、それに合わせて行ってきました。東京を離れて旅行という感じです。旅行していてその土地や人にふれていくと、別な生き方の可能性があるということに気付かされ、別な生き方を空想したり考えたりします。この展覧会も、そういう可能性を考えさせるものですが、それが、ラディカルというか、もはや、私の(あるいは人間の)生き方とはいえないかもしれないようなものになっています。

 本展は、大まかには、屋外にあるカボチャなどの空中栽培(支柱や枠組を立てて上にからませ、へちま棚などのように実がぶら下がるようにする)と、屋内展示のドローイングから成ります。ドローイングは、哲学者や芸術家の顔、猫や小鳥や松の木などが描かれています。例えば民画のような愛嬌というか(古典の)漫画にあるような感じ、とか、あるいは、文人画のような感じというか文人画の精神といいますか、そういった複雑なものが感じられます。

 おかざきさんのこれまでの灰塚などでの経験がふまえられた、地元の人が付き合える・親しめる、かつ、前衛的というかパイオニア性があるものだと思います。空中栽培は、アートという文脈なしでも実験的園芸みたいな面白さがあり、近くの人たちも協力的なようでした。ドローイングも、芸術ぶらない近付きやすさがあると思います。

 パイオニア性というのは、作家(私)が作った作品というあり方を変え(やめ)、作品を作家(私)のアイデンティティにしない、作家(私)の存在を変える(なくす)、というところにあると思います。

 作家が作ったのは支持体で、それは、空中栽培の支柱・枠組であったり、以前から共同研究・製作されていた、ドローイングの動きを保存・再生できる、いわば動く支持体であったりします。

 支持体の上に、植物(野菜)たちは、それぞれ自分の判断で行動(伸びていくとか)しています。水やりとか普段の世話も作家の手を離れているでしょうし、作家は初期設定だけして、あとは生成させるというようなものです。ただしかし、この、大きな実がいくつもぶら下がっているイメージには、コンセプトがあるようでした。風の沢のカフェに展示されている一連のドローイングは、それと関係あると思いますが、神話的といいたくなるようなイメージが描かれています。その下に英語の言葉(の文字)が描かれてあって、その文字の線も絵のように描かれていますが、その言葉の意味は空中栽培を含めた展示全体に関わることのように思われました。WSでも、図像的な出どころとか、それに関わることが話されました。そう思って見るとカボチャの見方も変わってきます。

 また、ドローイングに関しては、描画行為の個性・作者性を作家(私)の所有でなくする(その人でなくともその人の絵を描ける)ということなのだろうと思います。もしもそうすれば、それを不死にしたといえるのかもしれません。

 WSのお話しについては、主観的に思い出せることだけ書いておこうと思いますが、自分が受けとめた自分なりに片寄ったものです。

 一日目のお話しは、自然と文化を二分化するようなとらえ方を批判・修整しつつ、最後に、そこからつながって、憲法改定案(前文)から可能性というかツボになるところを読み取る、というようなものだったと思います。

 二日目のお話しは、カルダーの針金彫刻(デッサン)や小川芋銭の絵など印象的でしたが、生物/非生物、人間/非人間といった二分法を書き変える、自分が自分に統合されない、ネットワークを形成させる仕掛けに、(まず政治的な)自律領域の確保(ディスコミュニケーションでもある)が賭けられているということなのだろうと思えました。

 風の沢ミュージアムの向かい側には、大きなくず屋さんのようなところがあって、産業廃棄物を扱っているようです。パンフレットの写真がその眺めをとらえています。現代社会のゴミがさらに解体され、環境汚染的なものやリサイクルできるものなど再編され、あらたな回路がつくられている、と思うと、死と再生の現場のようでもあり、この、不思議なタイトルが付いた、別なネットワークをつくろうとする本展の環境としてふさわしいように思えてきます。

 

(原牧生)

第20回 TOKYO ポエケットに出展します

ポリ画報は「第20回 TOKYO ポエケット」に出展します。
「TOKYO ポエケット」は詩誌や詩集の販売、朗読、交流のイベントです。

 

日時:2016年7月10日 10:00〜16:30
場所:江戸東京博物館 1階会議室
JR総武線両国駅下車西口徒歩3分、大江戸線両国駅3分)

http://www.poeket.com/

 

ポリ画報vol.2、vol.3をメインにその他販売します。
入場は無料です。
ぜひお越しください!

 

(辻可愛)

『ピンク・ジェリー・ビーンズ』

ピンク・ジェリー・ビーンズ

作・演出・出演:川原卓也、関真奈美

2016年6月11日(土)-19日(日) TABULAE

 

あらすじ

〈1〉

 死体である川原さんの周りをうろうろしながら、関さんが何かを解説しています。

 まず、自分の仕事について。インテリア・コーディネーターとは、部屋やその中にすでにあるもの、あるいは家主の好みやライフスタイルといった所与の条件に対して出来合いの品をあてがっていく職業であり、成功もあれば失敗もあるということ。

 次に、コアラの習性。コアラは一匹につき一本のユーカリを住まいとする動物であり、住居となる木を複数の個体でシェアしないこと。また家主のコアラが死んでしまったとしても、その匂いや爪痕が古い樹皮とともに剥がれ落ち、痕跡が消滅するまで、その木を別のコアラが住まいとして選択することはないということ。つまりコアラの肉体が失われたとしても、ユーカリの木がそれを記録し続けている限りにおいて、(少なくとも住まいの選定という面において)コアラは死んだコアラを生者同様に扱い続ける、ということです。

 

〈2〉

 今度は死体の川原さんが起き上がってしゃべります。

 自分は今、川原卓也の死体だけれど、だからと言ってネガティブな意味合いはない、ということ。そもそも人は常に環境に応じて引き出された何らかの演技をしているものであり、「この場に応じた自分」という演技をしている限りにおいて、自分ですらもないじゃないか、ということ。

 

〈3〉

 川原さんは今からロボットになる、と宣言します。ロボットとはあらかじめ動きをプログラムされているもので、自由意志のないものだと。ロールパン6つを床に並べながら、1922年にドイツで起こった「ヒンターカイフェック事件」を解説します。なんでもこの事件、一家6人がつるはしで惨殺され、霊能力捜査が実行されたものの、未だ犯人の特定には至っていない怪事件なんだとか。

 そして川原さんのテンションはちょっとおかしくなってきます。ほうきをギターのようにかき鳴らし、穴と見ては覗き込み、台車を乳母車のように揺らしては、自分の声に応答します。部屋中に散らかった道具に対して、ひっきりなしにベタな反応をし続けるのです。

 

〈4〉

 関さんが戻って来ると同時に、あたかも天の声であるかのように、関さんの声でアナウンスが入ります。

「◯◯のように〜する。」

「××の形を作って△△する。」

関さんはアナウンスに従って行動します。その場にないものには代用品をあてがい、できる限りの範囲で指示が実行されます。「藁」がなければスダレを用いていましたし、垂直にもたれかかっていても「寝ている」とみなすようでした。そういえば〈1〉の関さんがイヤホンをかけていたことが思い起こされます。〈1〉の台詞も行動も、みんなこの声に従っていたのかもしれません。

 関さんは言われるままに大きな釘抜きを持ち上げると、振りかぶって地面に振り下ろします。1、2、3、4、5、計6回。舞台が終わります。

 

 

環境から引き出される自己

 二人の登場人物はそれぞれの「自己」論を展開します。〈1〉の関さんがコアラを使って説明したのは、死者が生者と同じ待遇を受ける実例でした。樹皮への登記によって生が引き伸ばされているとか、死が遅延している状態、とでも言えそうです。他方、〈2〉の川原さんは自らの演技を土台として、純粋な自分自身とでも呼べそうなものの不在を告発しています。〈1〉〈2〉の発言は「個体」とみなされる対象や、「自分」によるものであると同定される言動の中にも、ある程度の環境要因が含まれているということに言及している点において一致します。

 そこで一つの仮説が導き出されます。「自己」とは、結局のところ周囲のモノ≒インテリアのアフォーダンスによって引き出される行動の集積に過ぎないのではないかと。けれどもこの説に即して示された見解は、それほど肯定的なものだったとは言えないでしょう。というのも、川原さん演じるロボット(〈3〉)やアナウンスに従う関さん(〈4〉)の“ちぐはぐな”行動を、空間のコーディネートという見地から問う限り、それらはともに周囲との調和を欠いた失敗例になってしまうからです。

 

伸長する室内空間

 舞台上の関さんと川原さんは互いにほとんど関わり合おうとしません。さらにパフォーマーとも観客ともつかない中間的な存在(速記者)が常時「意識の流れ」をテキスト化してプロジェクションしているのですが、二人はこれも無視します。

 最終的に関さんは1922年ドイツの事件に介入してしまいます。舞台のベースとして終始“同じ場所にいながら違う時間を経験している状態”が持続する中、ラストシーンの数十秒で急速に顕在化したのが“違う場所にいながら同じ状況を体験している状態”でした。とすると川原さんが頬張っていたパンは殺害の合図となったのかもしれず、川原さんの死体もまた、一連の演技全体を通じて(つまり自らの指示によって)あらかじめ作成されていたものだったのかもしれません。

 ここでは遠く隔たった時空間が、ただ事件という「所与の条件」を回収するためだけに押し曲げられ、あたかも「出来合いの品」であるかのようにあてがわれています。最後に明かされたのは事件の犯人ばかりではありません。コーディネートの対象とされる室内空間=周辺環境の領域が、話題として供給されていただけの時空間にまで及んでいた、というパフォーマンス全体を包括する大きなルールでした。何よりも先に部屋のほうが、物語の題材に合わせ、器用に伸長していたのです。

 

(佐々木つばさ)

『神様メール』

あらすじ

 神は−−−−地球上のいかなる教義とも異なって−−−−ブリュッセルに住んでいる。大小さまざまな法則を生み出して人々に災厄を与えるばかりか、自宅アパートに家族を軟禁し、言動を制限して暴力を振るう最低のクソ親父だ。家出したきり戻らない兄のキリストに倣い、今度は妹のエアが人間世界への秘密の脱出口、ドラム式洗濯機に飛び込んだ。『新・新約聖書町山智浩氏によると『最新約聖書』:町山智浩 映画『神様メール』を語る)』を作れば何かが変わる。そう語った兄の言葉を胸に、エアは新しい使徒たちに会いに行くことにする。

 

神話1:知の巨人

 こと神の子らにとって、家出とは壮大なクーデターに他ならない。エアが神の機密情報をリークする際、どさくさに紛れて召命した使徒が、隻腕の美女オーレリー、小鳥大好きジャン=クロード、妄想癖のマルク、保険屋改めスナイパーのフランソワ、恋に恋する主婦マルティーヌ、女の子になった少年ウィリーの6名だ。

 彼らにはしばしばモデルの存在が見え隠れする。浮浪者ヴィクトールの丸い鼻はユーゴーそのものだし、ゴリラと恋に落ちるマルティーヌのエピソードは大島渚の『マックス、モン・アムール』(1986)と重なる。となればフランソワは『アメリカン・スナイパー』(2014)のクリス・カイルか。

 加えてマルクの半生が語られるエピソードではポール・ヴァレリーを思い出してしまって仕方がなかった(参考:清水徹『ヴァレリー』 - Living, Loving, Thinking)。顔が似ていないのはファンに遠慮しているというより、恋愛のパッションで大事を成した偉人が他にいくらでもいるせいなのかもしれない。真相は誰であれ、このマルクがカリカチュアライズされた喪男インテリゲンチャなのだとすると、性風俗に全財産を投資する彼のやんごとなき情けなさによって遂行されているのは、「知の巨人」神話の解体とでも呼べそうな、全き偶像破壊ということになるわけだ。

 

神話2:女神の知恵

 一行が破壊するのはインテリ神話にとどまらない。例えばこの映画のチラシ。男女どちらにも媚びない神の娘は仏頂面をキープするので、チラシの笑顔などはほとんど「奇跡の一枚」と呼んでも差し支えないほどであり、それだけで日本の配給会社が苦し紛れに落とし込んだ“愛くるしい少女が巻き起こす奇跡のファンタジー”という紋切り型の設定を見事に裏切ってくれる。大女優カトリーヌ・ドヌーヴはゴリラの子(?)を出産して種族の壁を突破するし、「女の子になった」ウィリーと神の「娘」エアはあっさりカップルになって、すべてのLGBTが陥りかねない言葉の罠を華麗にスルーして行った。

 謀反には母も加わる。神の妻は夫の言いつけに従って、全くと言っていいほど発語しないし、していることと言ったらほぼ掃除だから、家政婦というよりもルンバに近いくらいの存在だ。監督は女神を「知恵」と呼ぶのにはあまりにも頼りないキャラクターに仕立てることで、グノーシス派に与する異端映画とのレッテルを退ける切り札としたのだろうか。もちろん地母神と見るにもインドア派すぎるし、愛嬌あるルックスを活かして魔女になれるほど自立してもいない。確かに全然かっこいい女じゃないんだけど、だからと言って女性蔑視とつかみ掛かることなかれ。この誰でもない女神は、ただ自身が一切のロールモデルたりえないことによってのみ、女性に押し付けられるあらゆる理想像を拒否しうることを知っているのかもしれないのだから。

 

神話3:消えた銃撃

 さて、モーセ的スペクタクルシーンを担当する冒険家、ジャン=クロードを除くと、残る使徒は隻腕の美女オーレリーということになるだろう。オーレリーは凄腕スナイパー・フランソワに狙撃されるものの、義手が盾となって、撃たれたことにすら気付かない。フランソワはこの奇跡を前にして恋に落ち、彼女のためにスナイパーを廃業する。

 オーレリーの特徴を挙げてみよう。眉根を寄せた悲しげな表情と、東洋の血を匂わせるどこか異国的な顔立ち。左腕の損傷を含めて同じ特徴を持つ人物を一人見つけた。ロシア系ユダヤ人、Joseph Trumpeldor(1880-1920)だ。Trumpeldorは、日露戦争に従軍し、捕虜として大阪に抑留される中でユダヤ人としてのアイデンティティを確立。後にイスラエル国防軍の設立に関わることとなった「英雄」である。日本兵から学んだ「祖国のために死ぬ」という態度を理想としたらしい。でも「彼女」は死ななかった。

 本当にこの読み替えが可能であるとすれば、“「アメリカン・スナイパー」との恋愛物語”が持つ射程は存外大きい。あるいはこれ自体は私の荒唐無稽な思い付きに過ぎなくても、この軍人二人に職業以外の共通点があった、と記すことはできるはずだ。タナハとキリスト教経典という違いを無視することはできないけれど、両者ともにアブラハムの宗教が培ってきた書物に接していただろう、と。

 

ハッピーエンドへの想像力

 ちなみにここに書いたことを全然考えなかったとしても、『神様メール』は通常通りのルートで無事鑑賞することができる。というか、ここに書いた迂回路は全部私の妄想かもしれない。それでも心優しい誰かが引き続き私の寄り道に付き合ってくれるとして−−−−監督がこれらの取り扱い注意な案件をただ引っ掻き回すだけじゃなく、すべてに暖かい眼差しを注いでハッピーエンドを目指している、ということには同意していただけるのではないだろうか。神様のこっぴどい扱いについてはロン・カリー・ジュニアの小説『神は死んだ』を思い出したが、表現の自由って、誰かが大切にしている何かをなじり倒す自由である以上に、それを愛し、守り通す方法の自由であるはずだ。

 宗教感情に配慮するあまり、奇妙な言い控えをしてしまうことがあるが、こうした勇気ある作品が元に存在していること、そしてそれ以上にこうした作品を受け入れるだけの土壌があるという事実に驚き、かつ励まされる。誤解はできるだけされないようにしたい。けれどもそれを恐れるばかりでは、誰かのためにできることでさえ、とてつもなく少なくなってしまう。

 

神話4:神様の正体

 『神様メール』ではあらゆる想像力がハッピーエンドに向かって賑々しく進行していくわけだけれども、そんな中、常に例外として締め出され続けていたあの最低な神様は一体誰だったのか。すべての信仰心を小馬鹿にし、そのくせ“唯一のメタ視点を持つ”自分を崇拝して、実質人間以上のどんな能力も持ち合わせてはいない、そんな神様。…一読してわかる通り、これは神ではない。粗暴な無神論者だ。

 彼は強制送還された国で工場労働者となり、大型家電の組み立てに従事することになる。窮屈なルーチンワークによって量産されるこのマシンこそ、もはや自分がくぐることのできない異次元の扉であり、神の子らを地上に送り込んだ、あの洗濯機だったのではないだろうか。

 

 

(佐々木つばさ)

 

セルフリファレンス・リフレクソロジー

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

Self-Reference Reflexology セルフリファレンス・リフレクソロジー

2016.5.13-6.5(金・土・日のみ)  milkyeast

梶原あずみ、坂川弘太、篠崎英介、高嶋晋一+中川周、瀧口博昭、西浜琢磨、松本直樹、宮崎直孝、吉田和司

 

 自己責任や自己管理など自己を主体化させる力(あるいは制度、システム)が社会には働いていると思いますが、それらに対して自己が自由であるということは考えられるのか、というようなことに関心がありましたので、「セルフリファレンス・リフレクソロジー」というタイトルに興味がひかれました。自分が自分のツボであるような…。いやしという語はいやしいという語に通じているようですが、いやしいというのは社会からさげすまれています。自己管理ができないとだめとみなされるように。セルフケアという語を深読みすると、自己が自己である条件を扱う、社会にとっては両義的な、諸実践があらわれてきます。そこに興味深いものがあるのではないかという気がします。本展の作品は物として自律・自立している態度がみられますが、モデルのようにみることもできるのではと思いました。

 

 松本さんの作品と瀧口さんの作品は、出力が入力にループしてフィードバックでスイッチングしている回路になっています。無限に続く繰り返しが、自己言及的な仕掛けであるように思いました。

 坂川さんの作品と吉田さんの作品は、どちらも電球が使われています。電球と発光はダンサーとダンスのような関係ですが、これらの作品は、(電球が)光っていること、あるいは、光っている電球の、同一性とそのずれを示しているように思いました。

 宮崎さんの作品と瀧口さんの作品は、風船とか袋とかぐにゃっとしたものがふくらんだりして、バイオキネティックに動く柔らかな機械(ソフトマシーン)を思わせます。生物/無生物のような二分構造をスルーする感覚にリアリティがあると感じさせると思います。

 篠崎さんの作品は、力のつり合いを組み合わせて、空中都市のように、地面から自立し重力から自律しているようにみえます。物たちは固定されていないので、そこにありますがそこでなくてもいいというような潜在力が感じられます。止まっているようにみえても上演中のライブ感のような。

 高嶋さんと中川さんの映像作品は、物を扱っているらしいだけでなく、公園の緑地の周りを回りながら撮っているような緑地がメリーゴーランドのように回ってみえるところが入っていて、これは何だろうと思い、映像どうしの関係や全体の構成、時系列的な見方があるのだろうかなど考えさせられました。自分が回ること、見ることの相対運動のようなことが印象的でした。

 西浜さんの作品(ビデオ)では、複数の人でひもを持って、大きなあやとりのような形をつくり、また戻すことを繰り返しています。それらの形がマケットとして展示されていて、何となくですが、組ひものトポロジーみたいな感じもします。そう思ってみると、この反復はトートロジーともいえます。しかしそれでも、パフォーマンスとしては、同一性の反復というより、偶然性の一回性を繰り返しているのだと思います。

 梶原さんの作品は環境をつくるものだと思いますが、植えられたアイラトビカズラとLEDの色光が系を成しています。これらの色の光があるとよく育つらしいです。この植物にとって、この光は何なのでしょうか。まず、植物は、光をエネルギーとして取り入れて反応を起こしていると思います。しかしこの場合、光と光の違いによって生育反応に違いがある、ということは、植物は光の差異を区別している、環境としての光を情報として知覚している、ともいえそうです。そう思うと、植物は環境を意識している、というところまであと一歩です。この植物にすれば、自分の潜在的なものが目覚めて成長しているような気持ちかもしれません。

 一階から二階床へ突き抜けている瀧口さんの作品のように、建物自体を使った独特な展示をできるのがミルクイーストの特長でしたが、現在の建物の展示は本展で最後ということです。この木造の家屋が名残り惜しく感じられます。

 

(原牧生)

外島貴幸「背中を盗むおなか」

コント、パフォーマンス、ジェンダーチェイシング

外島貴幸「背中を盗むおなか」

2016年5月14日(土) blanClass

http://blanclass.com/japanese/archives/20160514/

 1. 

 外島さんの携わる作品は常にそういう性質を持っていますが、「背中を盗むおなか」も、事物を構成する要素がほどけ、もつれ、絡み合い、引っ張り合ったり千切れたりしながら展開していく作品でした。こうした「絡まり」の量は、これまでに見た外島作品の中では今作が最大で、おそらく彼の経歴の中で最も複雑な作品の一つになったんじゃないかと考えています。

 ソロパフォーマンスの今回は、ある程度の尺を持った時間の中で問題を収束させる/回収しないでおくというストーリーテリングの手法として観ることができ、その点でも参考になりました。

 

2.

 本人演じる作中の外島さんは、作品の発表に向けて案を練りますが、気がついたら本番当日。パニックに陥った外島さんはものとものとを取り違え、ものと人物とを取り違え、さらにはそれと自己とを取り違えていきます。舞台上の相関関係は否応なく入り乱れ、常時観客に状況整理を迫りますが、実体験を元にしたという作中のこの外島さんは、本当に混乱してしまっているのでしょうか。

  blanClassに駆けつけた外島さんは黒板の前に立ち、レクチャーを始めます。…ここにレールに括り付けられた人が三人います。今まさに列車が走って来るこのレールの途中には分岐点があり、もう一方の道筋の先に括り付けられているのは一人です。分岐点を操作し、列車の進路を変更することができるとしたら、あなたはどうしますか。

 ものは答えます。助かるなら三人の方がいいです。外島さんは書き足しながら答えます。

 今しがた列車の進路として設定したレーンにいるその一人が外島貴幸である可能性。そしてその外島貴幸が実は「外島」と「貴幸」の二者である可能性。さらに「外島」と「架空のミドルネームを持った一者」と「貴幸」の三名である可能性。極め付けには、「先に登場した三人」も「これと同じ三名」である可能性。

  どちらにせよ轢かれてしまう! 外島さんはチョークをほっぽり投げます。

 

3. 

 それではここに外付けハードディスクが二台あるとしたらどうでしょう。一台がハンマーで叩き壊され、もう一台は残されることがわかっていますが、それがどちらであるかということまではわかりません。確実にデータを保管するにはどうすれば良いでしょうか。

 すぐにもわかる通り、どちらのハードディスクにも同じようにデータを書き込んでおけば良いのです。これを先のレールの話に当てはめると、同時にどちらのレーンでもあるという「外島貴幸」は交換不可能な個別のハードディスク本体というよりも、むしろ保護されたデータの側であったとみなすのが適切ではないでしょうか。つまり、追い詰められた外島さんが《「先に登場した三名」と「分岐の先に発生した三名」が同じである》という奇妙な論理を持ち出してみせたことによってはじめて−−−状況は変化していないにもかかわらず−−−「彼(ら)」を絶対に損なわずに助け出す道が捻出されていたのです。

  したがって、外島さんは絶望する必要はありません。チョークを投げなくても良かったのです。

 

4. 

 不条理な苦難の連続を、ひとは現実と呼びますが、不条理を笑いとして克服するには、「もし」や「つもり」といった置換を積極的に発動させる必要があるのでしょう。そして「現実」の困難に向けて運用したそれはもはや「取り違え」ではなく、「例え話」と称されるようになります。そうすると例えば性差のように、ともすると絶対視されかねない観念の恣意性に敏感な人は、対応する二項の互換性という発見を通じて世界の見え方を改変する、貴重な機会に恵まれているのかもしれません。黒板の図も「例え話」のままでは終わらずに、「自己」の定義を転倒する手段として描出されているのです。

 

 

Miss Li –“Transformer”

https://www.youtube.com/watch?v=6lADQRaN4W8

 

 

(佐々木つばさ)