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ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

ポリ画報の展覧会はあと二日です!

新スペースTABULAE(タブラエ)における

ポリ画報vol.4(としての展示)

Fools rush in where angels fear to tread.

(しらないくせして)

とてもポテンシャルの高いものになっています。

ここに立ち会っていただけたらたいへんうれしいです。

 

TABULAEは手作りで改装されたところで、そこに

いかに展示できるか緊張しました。

古い木造家屋には建物の記憶・家の記憶のような

ものがあり、しかもここは現在住居でもあります。

場所力が強いですが、たんにそこに依拠するのでない

関係性と作品自律性と両立のある展示にできました。

作品それぞれは、それぞれ異なる空間としてありますが、

誌面をみるように壁面や室内の配置をみれば、異なる

空間が同居している同居の仕方が感じられると思います。

 

本展は建物を本にするというねらいがありますが、しかし

建築=本ということは何でしょうか。

広い意味であるいは本当の意味で、読むということだと

思います。

読むという経験は、目で文字を認識するというだけでなく、

身体でそれを経験し、いわば魂の変成というか新生に

関わります。

本展に美術や文学といったジャンル分けはありませんし、

絵でもアニメでもそうです。言葉はイメージをともない

イメージは言葉に裏打ちされています。

かつてP.ピカソは「私はさがさない、私はみつける」と

(いう意味のことを)いったそうです。

読むという経験は、ここでいう「みつける」ということと関係

あると思います。

本展は読み方がいろいろある本ですが、みつける予感

みつける徴候を読むことができるはずです。

 

本展の会期は、今日と明日のみになりました。

13時から20時まであけています。

外島・原によるパフォーマンスは、本日24日の19時から

あと一回だけです。

 

時間をかけてみていただける展覧会です。

みなさまぜひおいでください!

 

(原牧生)

vol.4 としての展示について。

Fools rush in where angels fear to tread.

(しらないくせして)

 

 TABULAE(タブラエ)の川原さんからお話をいただき、展示をすることにしました。それがポリ画報vol.4になります。

 はじめは批評性や政治性を直接感じさせるテーマをたててタイトルにすることも考えました。でも、いってることとやってることがともなわない展示ではよくないので、このタイトルにしました。当たり前のことかもしれませんが、テーマを考えることとタイトルを決めることは別のことだとあらためて思いました。

 Fools~は、英語のことわざで、しらないくせして、はその訳ではありませんが、対応があることをみせるつもりでカッコに入れています。手元の英和辞書には、Fools~の訳のことわざとして、めくらヘビにおじず、とありました。素朴な差別というか素直な差別といったものが感じられます。Fool(s)は、一言では訳しにくい語だと思います。例えば、ビートルズに「フールオンザヒル」という曲がありますが、これなどフールについての雰囲気が感じられます。フールは英語圏のナンセンスものを体現しているような存在で、フールを演じるものが道化ではないかと思います。フールは必ずしも特殊な存在ではなくて、エイプリル・フールはみんながフールになれる日です。四月馬鹿というと何だかよく分かりませんが案外面白い言葉になっている気もします。

 昔からあるポエティック・ライセンス(詩の特権)は、詩において文法上の破格などが認められていることとされていますが、その出どころは、フールということと言語との深いところでの関係にあるように思えます。

 フールがやることは広い意味で言語行為といえそうですが、その自分がやることを知らないからそれができるというようなことがあるのではないかと思います。タイトルの、しらないくせして、はそういう意味もあります。が、実は、英語をろくに知りもしないのに英語のタイトルを付けちゃっていいのか?と思っていまして、自戒をこめました。

 天使がおそれて立ち入らないところ、とはどういうところなのか、というのも謎々めいています。ことわざという誰のものともいえない表現がはらむ知恵が感じられます。

 タブラエというところは、細長い商店通りの奥の方にあって、一階には元は店だったような造りが残っていて、その裏と二階が住居になっているような建物(一軒家)です。今回の展示は、一階と二階まで使わせていただけるので、展示空間から居住空間まで入り混じっているような、ギャラリーとは異なる場所性があります。そして、展示会場をいくつかの性格の異なる展示領域に分けてとらえられます。それで、本と建築という観点から展示プランを立てています。単純にいえば展示領域が本の頁であるような。例えば、教会は昔(特に印刷技術以前)は、絵などを介して聖書の物語が読まれるところだったと思います。それは本としての建築(あるいは建築としての本)であり、建築の中を歩いたりみることを含めて身体が経験することが読むことだったと思います。今回の展示では、(はき物を脱いで)あがる、(奥へ)入る、(階段を)のぼる、のように行為される建物の空間を、本というメディアにすることを試みます。そして、展示の領域と領域は連続していない(自律的)、かつ、連続している(共通性がある)というふうにできているといいのですが…

 初めてタブラエに行く人は、なかなか着かないなあと思うかもしれません(私はそう思ったので)。インディペンデントな拠点をつくるというつもりで展示をいたします。ぜひおいでください!

 

TABULAE(タブラエ)  http://5484tabulae.tumblr.com/

 

(原牧生)

vol.4は展覧会です!

vol.4は、TABULAEという場(建物)をお借りして、本としての建築(建築としての本)という観点から、TABULAEを本のようなメディアにすることを試みます。

 

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Fools rush in where angels fear to tread.(しらないくせして)

 

会期

2016年9月10日(土)-25日(日)の金土日祝(10日間)

 

開場時間

(16日、23日) 17:00-21:00

土日祝(10日、11日、17日、18日、19日、22日、24日、25日)  13:00-20:00

※ 曜日によって開場時間が異なります。ご注意ください。

 

会場

TABULAE(タブラエ)

〒131-0033 墨田区向島5-48-4

東武スカイツリーライン東武亀戸線 曳舟駅西口より徒歩10分

京成電鉄押上線 京成曳舟駅出入口3より徒歩15分

 

vol.4メモ

ホラグラム/ヴェール/不死函数/異次元の感情/エクストリーム自己管理教育オートメーション/わがこうふく/即興コンクリート/ものがたる徴候/日本語という抵抗/こころのへそ

 

 

 

外島貴幸・原牧生パフォーマンス

9月17日(土)、18日(日)、19日(月・祝)、22日(木・祝)、24日(土)

各回19:00-

上演時間30分(予定)、入場無料

 

連絡先 polygaho@gmail.com

 

かぼちゃの気持ち 「POST/UMUM = OCT/OPUS」

1.あらまし

 先月末、宮城にある風の沢ミュージアムというところに行ってきた。おかざき乾じろさんの展示を見て、ワークショップに参加するためだ。概要については原さんが詳しく書いてくれているPOST/UMUM=OCT/OPUS 展 - ポリ画報通信ので、私はもうちょっと勝手なことを書こうと思う。

  出品作の性質は大きく分けて二つ。屋内にあるロボットを使ったドローイングと、屋外の「支柱」の作品。「支柱」の足元には珍しい実をつけるつる植物がいろいろと混植されていて、七月末のこの日には、まだ薄緑のスイカやふわふわの産毛に覆われた迷彩柄のヒョウタン、特撮怪獣みたいにいかつい質感のカボチャの子供たちが、風に揺られて飄々とぶら下がっているさまを目撃することができた。

 加えてワークショップは来場者が何か作業をするというよりも、おかざきさんのアーティストトークというか、レクチャーみたいな感じだったと思う。作品の前で語るのって難しい。あまりにも直接的な物言いをすれば制作意図を短絡的に解釈される可能性があるし、そうなってしまえば今だけじゃなく、これから先もずっと読解の間口を狭めてしまうことになるかもしれない。アーティストである限り、いかなる語りの名手にしても、こうした危険と無関係ではいられない。

 

2.語りの手法

 そこでおかざきさんは、世界の神話から原爆記念公園、憲法解釈へと、すごく広い範囲の事柄について、自身がどうインスパイアされたかという点を明示することなしに次々語っていくという手法をとった。ここ数年講義を聞いてきた者にとっては、数年間の総ざらいというか、改めて記憶を掘り起こして強化するような働きがあったけれど、初めて聞く人にはいくぶん難解だったかもしれない。

  中でも興味深かったのが、外の支柱の作品について「現代美術作品と呼ばない」とか「自分の作品だということにしたくない」とか「カボチャの作品なんだ」とコメントしていたことだ。こうして書きおこしてみると、おかざきさんが自作についておそろしくネガティブな評定を下しているように見えなくもないけれど、たぶんそういう意図ではないだろう。

 と言うのも、今年の春先からだったか、おかざきさんが「動植物(のみならず非生物までも!)を〈人間〉としてカウントする」という奇抜なアイディアを案出していたからだ。「〈人間〉としてカウントする」というのは、この場合、その存在に知性を認めること、と言い換えてもいいかもしれない。カボチャに知性を認めるのなら、それが作品を作ることだって認められるはずなのだ。

 

3.カボチャの気持ち

 カボチャは人の思うようになるとは限らない。どうして支柱を無視して地べたを這いつくばってしまうのか? せっかくロープを張ったのに、いちいち雑草に絡みついて行くのはなぜなのか? 人からすれば、都合の悪いことばかりかもしれない。こんなとき、腕のいい園芸家ならどうするだろう。一週間水抜きの刑? それとも巻きひげ全切除の刑? いっその事新しいのに植え替える? ……そういう判断もありうる。だけど園芸を続ける限り、いくら気に食わない苗を処分してみたところで、遅かれ早かれいつかは何かの判断を、植物自身に委ねざるをえなくなるわけだ。 

 カボチャは今、支柱に掴まるのには少しばかり、自身の蔓のレンジが足りないと考えたのかもしれないし、暴風を避け、より多くの光を集めるために、違う方を向いていたほうが都合がいいと考えたのかもしれない。突き詰めて言えば、カボチャのことは結局、カボチャにしかわからない。人はカボチャの置かれた場所の影響と、カボチャ自身の身体の状態とを、カボチャ自身ほど詳細に知ることはできないからだ。だからこそひとまずカボチャの行動に、カボチャなりの合理性があるものだと想定し、様子をみる。同じ畑の同じ作物でも、条件は毎年異なっているし、同じ一本の植物にしたって、幹と梢では役割が違う。自他の状態を合わせ見て、つる植物はことさら鋭敏に環境をトレースしていく。

  言うまでもなくこうした観点は、知性があるのなら相手は絶対に自分の思い通りになるはずだと考え、思うようにならければ直ちに切り捨ててしまうような態度とは異なる。それはそれでカボチャに期待をかける気持ちの表れ方なのかもしれない。だけど、植物であれ人であれ、誰かに知性を認めるということは、自分には理解できない相手の判断にも、何らかの根拠なり有効性なりがあるのだろうと想像する余地を確保しておくということであって、気に入らなければ即一刀両断という、極端なやり方の反対側にこそ位置するものだ。

  カボチャの蔓は思考の軌跡だ。制作が思考そのものに近い、と考える限りにおいて、これはやっぱりカボチャの作品と呼んで差し支えないのだろう。

 

4.作ることと、書くことと

 支柱の作品はおかざきさんの作品じゃないと言った。現代美術でもないと、まず本人が言っていた。それじゃあおかざきさんは作ることを諦めてしまったのかというと、それももちろん違う。特に支柱の作品は、現代美術史に名を刻まんと強く主張してくるようなものではなかったわけだけど、それだけに実は重要で、おかざきさんの思索のマイルストーンというか、膨大なキャリアの中でも後々広く参照される可能性が高いものだと考えている。理由は−−−−書く必要があるんだろうか?

  おかざきさんは以前、「美しい芸術は答えを出す」と書いていた。うろ覚えなので正確じゃないかもしれないけれども、本当に、実際に、そうだと思う。このところ以前にいや増して、厳密な作品は正確に解かれうる、いや、解かれるんだという確信を強くした。それは私に自信を与えると同時に、作品評を書く必要性をほとんど感じなくさせる出来事でもあった。おかざきさんのトークがそうだったように、直接的言及だけが語りの最良の手段ではないし、平明な話法だけが万人に公平であるわけでもない。平明さと明晰性は必ずしもイコールではなく、仮に平易な表現の優越性をのみ主張するのなら、それは底抜けに無邪気で乱暴なまでに杜撰な強者の論理であると言わざるをえないだろう。そうした事柄は常にその言葉に耳を傾けられる可能性を持ってきた者だけが語りうる妄言だ。繰り返すが、いつだって正しい、つまり状況に対して適切な手段が一定であるとは限らない。

  だから作品を作るんじゃないだろうか? 

 

5.供犠と作物

 レクチャーのスライドにもあった通り、中空にあるカボチャのボリュームはひとがたを想起させるもので、それがぶらぶら揺れるさまはただかわいくて楽しいだけじゃなくて、供犠とか吊るされた犠牲者といった、えげつないほど陰惨なイメージをつきまとわせてもいる。ある者が生き、そして死ぬ[殺される]。亡骸は播種の効果を持ち、地上に豊かな実りをもたらすが、このオオゲツヒメならびにハイヌウェレは、その後一切顧みられることがなく、ひっそりと忘れ去られていくのだろうか? ……農家はどうだろう? 彼らは仕事の間じゅう、畝の合間で聞き取りにくいその声を、耳にし続けているのではないだろうか?

  話は飛んで、私にも作物から連想した物語が一つあった。『大きなかぶ』である。キプロスピグマリオンよろしく、おじいさんが丹精したかぶが彼の希望通りに大きくなり、というか大きくなりすぎて抜けなくなり、おばあさん、孫娘、加えて犬、猫、果てはネズミなどという、戦力としてどれほどの実効力を持ったものかすこぶる怪しい人物(!)たちを総動員して、やっとの思いで引っこ抜く。いいなあと思うのは、ここでは犬と猫、猫とネズミといった天敵同士が、相争うこともなく目的を共有していることだ。

  豊かな実りが平和と楽しみをもたらすように。それがハイヌウェレのねがいだった、と信じたい。そしてそれは彼女が亡くなり、ばら撒かれ、拡張されることによってはじめて完遂されるものであったと考えたい。そうでなければ彼女は永遠に、浮かばれることがないままだから。

 

(佐々木つばさ)

POST/UMUM=OCT/OPUS 展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

POST/UMUM = OCT/OPUS 展

おかざき乾じろ

2016.4.24-10.23  風の沢ミュージアム

 

 風の沢ミュージアムは、岩手県北西部の栗原市にあります。7月23日・24日に、おかざき乾じろさんのワークショップ(実際にはレクチャーのようなもの)があり、それに合わせて行ってきました。東京を離れて旅行という感じです。旅行していてその土地や人にふれていくと、別な生き方の可能性があるということに気付かされ、別な生き方を空想したり考えたりします。この展覧会も、そういう可能性を考えさせるものですが、それが、ラディカルというか、もはや、私の(あるいは人間の)生き方とはいえないかもしれないようなものになっています。

 本展は、大まかには、屋外にあるカボチャなどの空中栽培(支柱や枠組を立てて上にからませ、へちま棚などのように実がぶら下がるようにする)と、屋内展示のドローイングから成ります。ドローイングは、哲学者や芸術家の顔、猫や小鳥や松の木などが描かれています。例えば民画のような愛嬌というか(古典の)漫画にあるような感じ、とか、あるいは、文人画のような感じというか文人画の精神といいますか、そういった複雑なものが感じられます。

 おかざきさんのこれまでの灰塚などでの経験がふまえられた、地元の人が付き合える・親しめる、かつ、前衛的というかパイオニア性があるものだと思います。空中栽培は、アートという文脈なしでも実験的園芸みたいな面白さがあり、近くの人たちも協力的なようでした。ドローイングも、芸術ぶらない近付きやすさがあると思います。

 パイオニア性というのは、作家(私)が作った作品というあり方を変え(やめ)、作品を作家(私)のアイデンティティにしない、作家(私)の存在を変える(なくす)、というところにあると思います。

 作家が作ったのは支持体で、それは、空中栽培の支柱・枠組であったり、以前から共同研究・製作されていた、ドローイングの動きを保存・再生できる、いわば動く支持体であったりします。

 支持体の上に、植物(野菜)たちは、それぞれ自分の判断で行動(伸びていくとか)しています。水やりとか普段の世話も作家の手を離れているでしょうし、作家は初期設定だけして、あとは生成させるというようなものです。ただしかし、この、大きな実がいくつもぶら下がっているイメージには、コンセプトがあるようでした。風の沢のカフェに展示されている一連のドローイングは、それと関係あると思いますが、神話的といいたくなるようなイメージが描かれています。その下に英語の言葉(の文字)が描かれてあって、その文字の線も絵のように描かれていますが、その言葉の意味は空中栽培を含めた展示全体に関わることのように思われました。WSでも、図像的な出どころとか、それに関わることが話されました。そう思って見るとカボチャの見方も変わってきます。

 また、ドローイングに関しては、描画行為の個性・作者性を作家(私)の所有でなくする(その人でなくともその人の絵を描ける)ということなのだろうと思います。もしもそうすれば、それを不死にしたといえるのかもしれません。

 WSのお話しについては、主観的に思い出せることだけ書いておこうと思いますが、自分が受けとめた自分なりに片寄ったものです。

 一日目のお話しは、自然と文化を二分化するようなとらえ方を批判・修整しつつ、最後に、そこからつながって、憲法改定案(前文)から可能性というかツボになるところを読み取る、というようなものだったと思います。

 二日目のお話しは、カルダーの針金彫刻(デッサン)や小川芋銭の絵など印象的でしたが、生物/非生物、人間/非人間といった二分法を書き変える、自分が自分に統合されない、ネットワークを形成させる仕掛けに、(まず政治的な)自律領域の確保(ディスコミュニケーションでもある)が賭けられているということなのだろうと思えました。

 風の沢ミュージアムの向かい側には、大きなくず屋さんのようなところがあって、産業廃棄物を扱っているようです。パンフレットの写真がその眺めをとらえています。現代社会のゴミがさらに解体され、環境汚染的なものやリサイクルできるものなど再編され、あらたな回路がつくられている、と思うと、死と再生の現場のようでもあり、この、不思議なタイトルが付いた、別なネットワークをつくろうとする本展の環境としてふさわしいように思えてきます。

 

(原牧生)

第20回 TOKYO ポエケットに出展します

ポリ画報は「第20回 TOKYO ポエケット」に出展します。
「TOKYO ポエケット」は詩誌や詩集の販売、朗読、交流のイベントです。

 

日時:2016年7月10日 10:00〜16:30
場所:江戸東京博物館 1階会議室
JR総武線両国駅下車西口徒歩3分、大江戸線両国駅3分)

http://www.poeket.com/

 

ポリ画報vol.2、vol.3をメインにその他販売します。
入場は無料です。
ぜひお越しください!

 

(辻可愛)

『ピンク・ジェリー・ビーンズ』

ピンク・ジェリー・ビーンズ

作・演出・出演:川原卓也、関真奈美

2016年6月11日(土)-19日(日) TABULAE

 

あらすじ

〈1〉

 死体である川原さんの周りをうろうろしながら、関さんが何かを解説しています。

 まず、自分の仕事について。インテリア・コーディネーターとは、部屋やその中にすでにあるもの、あるいは家主の好みやライフスタイルといった所与の条件に対して出来合いの品をあてがっていく職業であり、成功もあれば失敗もあるということ。

 次に、コアラの習性。コアラは一匹につき一本のユーカリを住まいとする動物であり、住居となる木を複数の個体でシェアしないこと。また家主のコアラが死んでしまったとしても、その匂いや爪痕が古い樹皮とともに剥がれ落ち、痕跡が消滅するまで、その木を別のコアラが住まいとして選択することはないということ。つまりコアラの肉体が失われたとしても、ユーカリの木がそれを記録し続けている限りにおいて、(少なくとも住まいの選定という面において)コアラは死んだコアラを生者同様に扱い続ける、ということです。

 

〈2〉

 今度は死体の川原さんが起き上がってしゃべります。

 自分は今、川原卓也の死体だけれど、だからと言ってネガティブな意味合いはない、ということ。そもそも人は常に環境に応じて引き出された何らかの演技をしているものであり、「この場に応じた自分」という演技をしている限りにおいて、自分ですらもないじゃないか、ということ。

 

〈3〉

 川原さんは今からロボットになる、と宣言します。ロボットとはあらかじめ動きをプログラムされているもので、自由意志のないものだと。ロールパン6つを床に並べながら、1922年にドイツで起こった「ヒンターカイフェック事件」を解説します。なんでもこの事件、一家6人がつるはしで惨殺され、霊能力捜査が実行されたものの、未だ犯人の特定には至っていない怪事件なんだとか。

 そして川原さんのテンションはちょっとおかしくなってきます。ほうきをギターのようにかき鳴らし、穴と見ては覗き込み、台車を乳母車のように揺らしては、自分の声に応答します。部屋中に散らかった道具に対して、ひっきりなしにベタな反応をし続けるのです。

 

〈4〉

 関さんが戻って来ると同時に、あたかも天の声であるかのように、関さんの声でアナウンスが入ります。

「◯◯のように〜する。」

「××の形を作って△△する。」

関さんはアナウンスに従って行動します。その場にないものには代用品をあてがい、できる限りの範囲で指示が実行されます。「藁」がなければスダレを用いていましたし、垂直にもたれかかっていても「寝ている」とみなすようでした。そういえば〈1〉の関さんがイヤホンをかけていたことが思い起こされます。〈1〉の台詞も行動も、みんなこの声に従っていたのかもしれません。

 関さんは言われるままに大きな釘抜きを持ち上げると、振りかぶって地面に振り下ろします。1、2、3、4、5、計6回。舞台が終わります。

 

 

環境から引き出される自己

 二人の登場人物はそれぞれの「自己」論を展開します。〈1〉の関さんがコアラを使って説明したのは、死者が生者と同じ待遇を受ける実例でした。樹皮への登記によって生が引き伸ばされているとか、死が遅延している状態、とでも言えそうです。他方、〈2〉の川原さんは自らの演技を土台として、純粋な自分自身とでも呼べそうなものの不在を告発しています。〈1〉〈2〉の発言は「個体」とみなされる対象や、「自分」によるものであると同定される言動の中にも、ある程度の環境要因が含まれているということに言及している点において一致します。

 そこで一つの仮説が導き出されます。「自己」とは、結局のところ周囲のモノ≒インテリアのアフォーダンスによって引き出される行動の集積に過ぎないのではないかと。けれどもこの説に即して示された見解は、それほど肯定的なものだったとは言えないでしょう。というのも、川原さん演じるロボット(〈3〉)やアナウンスに従う関さん(〈4〉)の“ちぐはぐな”行動を、空間のコーディネートという見地から問う限り、それらはともに周囲との調和を欠いた失敗例になってしまうからです。

 

伸長する室内空間

 舞台上の関さんと川原さんは互いにほとんど関わり合おうとしません。さらにパフォーマーとも観客ともつかない中間的な存在(速記者)が常時「意識の流れ」をテキスト化してプロジェクションしているのですが、二人はこれも無視します。

 最終的に関さんは1922年ドイツの事件に介入してしまいます。舞台のベースとして終始“同じ場所にいながら違う時間を経験している状態”が持続する中、ラストシーンの数十秒で急速に顕在化したのが“違う場所にいながら同じ状況を体験している状態”でした。とすると川原さんが頬張っていたパンは殺害の合図となったのかもしれず、川原さんの死体もまた、一連の演技全体を通じて(つまり自らの指示によって)あらかじめ作成されていたものだったのかもしれません。

 ここでは遠く隔たった時空間が、ただ事件という「所与の条件」を回収するためだけに押し曲げられ、あたかも「出来合いの品」であるかのようにあてがわれています。最後に明かされたのは事件の犯人ばかりではありません。コーディネートの対象とされる室内空間=周辺環境の領域が、話題として供給されていただけの時空間にまで及んでいた、というパフォーマンス全体を包括する大きなルールでした。何よりも先に部屋のほうが、物語の題材に合わせ、器用に伸長していたのです。

 

(佐々木つばさ)