ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

筑波大学〈総合造形〉展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

筑波大学〈総合造形〉展

2016.11.3 – 2017.1.29  茨城県近代美術館

 

 「総合造形」は、筑波大芸術系の専攻領域がいくつもあるなかの一つです。どうしてそこだけの展覧会が企画されたのか分かりませんが、本展は、作品だけでなく、解説と資料(カリキュラムや授業のスナップ写真や課題や提出物などいろいろ)が展示されていて、芸術教育としての「総合造形」をふりかえるものとなっています。

 展示は、時代を追って変遷をたどるようなかたちになっています。個人的には、二階展示室前半の、立ち上げから発展期までの四人の教官(三田村畯右、山口勝弘、篠田守男、河口龍夫)の時期を興味深くみました。「総合造形」って何なのか何もないところから始まったみたいでした。もともと筑波大の芸専は、バウハウスをモデルにしたらしいですから、絵画・彫刻の比重が歴史的に大きい美大とは少し違う感じがあると思います。「構成」という領域のとらえ方など、多分割と独特のものがあると思います。そういう文脈のうえでの「総合造形」で、造形、環境、メディアというキーワードが考えられていたようですが、結局「総合造形」の実態は四人の教官の作家(アーティスト)としての個性の集まりだったのだと思いました。それがよかったんだなと思える展示でした。彼らも前例なき自己流という感じで授業をつくっていたように感じられました。そしてそれぞれ学生から愛称で呼ばれていたということも、今思うといい環境(時代?)だったのだなと思えます。

 工房があって、切削など金属加工とか、ガラスや溶接もしていたと思いますが、学生は町工場的な技術を学び、制作していたというのは特長だったと思います。ビデオ関係も早くからありました。装置的なもの(キネティックやオプティカルなど)を作るとか、工作寄りな発想で作るとか、そういう傾向が比較的あったのではと思います。本展を通してみると、そういうものとして(昔の)テクノロジーアート、近年のメディアアート(メディア芸術)があるのをみることができると思います。

 また一方、二階の前半の展示室から後半の展示室へ移ると、がらっと変わっているという感じがしました。作家が違うから違うのは当然ですが、それに大学制度が変わったり筑波大のなかで組織変えがあったりしましたからそういう影響もあると思いますが、この違いは何なのだろうと考えさせるものがありました。80年代までの現代美術と90年代以降いまどきの現代美術の違いみたいな(しかし展示作品の制作年はそのように分かれてはいません)。「総合造形」の変化というより大きな構造的なものの変化が反映しているように思いました。

 筑波大は当初から国策とか産学協同とかいわれていた面もあったと思いますが、一方少なくとも初期にはフロンティア精神、自由さともいえる面があったのだと思います。当時陸の孤島といってはいいすぎですが都心から離れたできかけの人工都市みたいな環境で、教官として集められたアーティストの人たちが「総合造形」をつくり授業の試みを続けた、ということに、いまではないようなアートのあり方があったのだと思えてきます。今日ではアートはカジュアルというかソフトにポリティクスというか拡散的に普及していて、社会的とも公共化ともいえそうでいいがたい、アートの福祉化とでもいうような感じになってきていると思います。本展は「総合造形」をふりかえるだけでなく、卒業生の仕事など現在の「総合造形」のひろがり(学外)も紹介していますが、何となく上記のようなものも感じられました。

 本展では、「総合造形」の教官だった方たちのアーティストとしての教育の仕事と作品の仕事との両立を見直しました。河口龍夫さんの出展作『関係―教育・エデュカティオ』(1992-97)は、オブジェの連作といえると思いますが、大学の教育制度に割と直接関わるものであるような、本展の要といっていいような作品だと思いました。

 

(原牧生)

講演会「ことばと出会う」   MATTERS OF ACT 創刊イベント

 講演会やトークイベントをきっかけに自分で思ったことなど書きたいと思います。

 

ことばと出会う ぱくきょんみ講演会

2016.12.17  國學院大學

 

 これは國學院大學文学部の講演会で、《多言語・多文化の交流と共生》プロジェクトだそうです。お話しは、ぱくさんが出会ってきたものごと、人、本や映画など、朝鮮の民族芸術など、を語るもので、あいだに自作詩の朗読がありました。在日二世であること、女性であること、そういう自分として出会ってきたものごとたちが、ぱくさんにおいて多文化のネットワークとなっているようでした。

 お話しのなかで、詩は生きていくリズム、表現者は与える人、といった言葉があり、印象的でした。

 詩は生きていくリズム、というのは、詩を大きくとらえています。文学の一部門というのでなく、言葉の芸術とも限っていません。生きていく、という言い回しに、行動的・能動的なものであることが感じられます。いわゆる詩のリズムは、律動、韻律であり、あるいは、ふし(分節)としてあると思います。それらは、生きていくリズムから出てくるのだと思いました。例えば、赤ちゃんは大声で泣いていると、息を沢山吸ったり吐いたりして呼吸のリズムができて、自分が安定してくるらしいです。成長していくと、リズムがもっと複雑になるのだろうと思います。また、リズムの系がリズムを成していくリズムの階層構造、人生の季節のようなものもあると思います。生きていくリズムというのは、生きていく意志(意識)以前ですが、意志のもとみたいな感じがします。詩は生きていくことに内在しているということになります。

 しかし、それを詩として表現することは全く別のことです。表現者は与える人という言葉がそれをいっています。表現とは与えることだ、ということにもなります。これは、そういわれてみると当然のことでしょうか。しかし、自分のこととして考えてみるとなかなかたいへんなことだと思えます。この言葉は、ぱくさんの伽倻琴(カヤグム)の先生、池成子(チ・ソンジャ)さんについていわれたことで、池先生は120%180%与える人だということでした。与えるということは、深いところで供犠と関係あるような気がします。また、与えられた人は与え返すというあり方の経済と関係あるような気もします。与える人でありえているかというのは、欠かせない観点になりました。

 

MATTERS OF ACT : A Journal of Ideas 創刊イベント

石川卓磨、高嶋晋一、中井悠、橋本聡、松井勝正

2016.12.23  milkyeast

 

 アメリカで活動する中井悠さんが、No Collective というグループ、Not Already Yet という名義で雑誌をつくり、そこに出られた日本のアーティストとトークイベントを行ないました。雑誌名はMATTERS OF ACT で、今回のイベントでは、内容の紹介、ねらいに関することなど、話し合われました。何の雑誌か分からないようなものをつくる、逆に雑誌の編集によっておもてになかったものをあらしめる、というようなことだったかと思いましたが、そういう発想に共感しました。編集のセンスやキャパシティに基準となるものがないものをつくるという感じです。また、昨年日本にきてこちらの友達と会ったときの感触から、状況を活性化させる編集方針へシフトされたみたいで、意欲的な感じでした。

 今号は、フィクションということに関心をもって編集されたそうです。ポスト真実といわれる状況において、フィクションということをどう扱うかということを扱うことの戦略性は感じられる気がしました。言語行為論でいうパフォーマティブということも話しに出ていました。話し合いの途中で話し合いの仕方について話していく進め方にもそういう意識が感じられました。話している時間の長さの割合とかしゃべりあうテンポとか。そこで自分の話し方を意識的に変えてみるという試みもあって面白いと思いました。

 また、PC(政治的正しさ)という社会的な約束事みたいなものが実際どう機能しているのか、それをどう評価しどういう態度を取るのがいいのか、といったことについての議論は、中井さんのアメリカでの経験に基づいていて説得力があると思いました。また例えば、発言者が男性ばかりだということもいわれていました。そのことから何を考えられるか、ということは、あらためて考えるに値することであるように思います。

 本誌は年一回出すそうで、次号は未来をキーワードとして考えているそうです。このテーマの扱いもそう単純ではなく、時制をどう扱うかということを扱ったりするのかもしれません。中井さんは、本誌のみならず日本でまた別の雑誌が作られることも望んでいて、その積極性に立ち会えたことが、この会に行っていちばんよかったことでした。メディアをつくるという熱意や行動力に刺激をうけました。

 

(原牧生)

晩秋のカバレット2016 心にビート2016秋

 声・言葉・音楽のパフォーマンスについて、最近みたものの感想など書きたいと思います。

 

晩秋のカバレット2016  絵師 葛飾北斎

多和田葉子高瀬アキ

2016.11.16  シアターX (カイ)

 

 多和田さんが自作の詩のような散文のようなテクストをよみ、高瀬さんがピアノ(時に口も出す)を弾き、それぞれ自律的でありながら関係しあっています。そのセンスが何気なく絶妙です。全部で12のピースといいますかパフォーマンスから成っています。多和田さんのテクストは言葉あそび的な面があり、また風刺的でもあります。今回北斎を取り上げたのは劇場側からの提案のようでした。

 例えば、2番目の『傘をさす/雨のブルース』では、文末がいちいち「~カサ。」という言い方になっています。昔話などで、~とさ、という伝聞の語り口がありますが、それを言い変えたような、語りの紋切り型を異化する語りのように感じられました。内容は、子どもの頃に、自分では雨にぬれても平気だったのに大人から傘をさしなさいと言われていたことと、原爆投下後「黒い雨」から被爆した人たちのことを知ったことと、それらが混じり合った空想的な、黒い雨にぬれないために傘をさすというようなイメージ、だと思います。子どもの頃の思い出にさかのぼった、子どもの不安の記憶、がきこえてきます。それが、~カサ、というパタンの繰り返しで語られると、個人的なエピソードではなく、何かマンガチックでもあるキャラクターが架空の言い伝えを語っているみたいになってきます。カサの繰り返しは不安に対する反復強迫かもしれないと思うこともできますが、実際のパフォーマンスでは、こっけいというか笑えないギャグみたいな、あまりにもナンセンスな感じです。それが面白いと思いました。

 もし、閉じた言説空間(情報環境)が自分にとっての現実になってしまったら、不毛なことだと思います。何を信じて生きているのかということにもなります。意味は一つではないという言葉の面白さは、現実は一つだけではないということに通じ、狂気とも結びつけられますが、それがまた正気sanityのためによいのだと思います。

 

心にビート2016秋 ビートジェネレーション、ビート文学

ヤリタミサコPainter kuro、後藤吉彦

2016.11.25  Café ★ Lavanderia

 

 ヤリタさんは今年『Ginsberg Speaks』という本を出されています。この本のタイトルは、『ギンズバーグが教えてくれたこと 詩で政治を考える』と続きます。それに関連したヤリタさんの朗読とトーク、kuroさんの自作詩劇(ギンズバーグと関連したもの)朗読、後藤さんのサックス演奏(ヤリタさんとのセッションなど)、がありました。

 今回は、ギンズバーグ(1926-97)とボブ・ディラン(1941-)との交流の逸話や共演の音源が紹介されたりもしました。なぜか般若心経を朗唱?していたり(1964年)、ギンズバーグの『Vomit Express』 (ゲロ急行)という詩をうたっていたり(1971年)。ギンズバーグは、『Masters Of War』(戦争の親玉)を聴いて、ディランが気に入ったらしいです。その訳詞の朗読もありました。

 また、YouTubeから、ギンズバーグが『Put Down Your Cigarette Rag (Don’t Smoke)』という詩を早口でまくしたてているライブをみたのですが、don’t smokeという早口の繰り返しが途中で別の語の繰り返しにスリップしていきます。dope、nope、hoax、choke、cloak、suck、cock、等々、繰り返しが入り混じり言葉が紛れ込み(それは私は英詩のプリントとヤリタさんのお話しから分かったのですが)、観客は盛り上がり、それを映像でみているだけでも伝わるものがありました。このような声と言葉の活動状態が生そのものなのだと思えてしまいます。宗教的たかまりに近いものがあるような気もしました。ヤリタさんは音声詩としてきくこともできることを示唆されましたがそれも自分にとって発見になりました。

 

(原牧生)

岡﨑乾二郎個展

 最近みた展覧会の感想など書きたいと思います。

 

岡﨑乾二郎個展

2016.11.10 -12.11  Takuro Someya Contemporary Art

 

 岡﨑さんの作品は作品名(タイトル)と作品の関係に特徴があると思います。タイトルの言葉は作品の名ですが、その言葉自体もその作品であるような存在感があります。タイトルと作品は構造が同じなのだろうと思います。

 今回のタイトルを読むと、サイズが大きい作品のタイトルは、言葉が多くて長く、神話というか民話のようなメルヒェンのような、喩え話のような、寓意的な物語性が感じられました。詩と絵の関係というようなことを考えさせます。長歌反歌のように大小二点一組のもあります。タイトルは作品をあらわすとしても、作品はタイトルをあらわさない、言葉とイメージは構造的な並行関係であるのだろうと思えます。

 サイズが大きい作品は、感覚的に強く、荒々しいといえるくらいです。筆触というよりたんに触であるような、人の手によるのでない外力の跡みたいにみえます。岡﨑さんの焼き物の立体作品でも、手でつくったようにみえない感じがあると思いますが、そういうのに近いような気がします。

 サイズが小さいペインティングが横並びになっている作品のタイトルは、火とか水とかの語が象徴的な感じで、宇宙論的というか錬金術を連想したりします。サイズは小さくても作品空間のスケール感は小さくないという展示の仕方は、初期のレリーフ作品から通じるものがある気がします。閉じていない額縁(?)によって空間が複雑になっていると思います。二次元かつ三次元というような。絵画と建築の関係を歴史的に思うと、額縁は建築と絵画のインターフェイスだったのではないかと思えてきますが、これは額縁の再発明という感じです。

 ギャラリーの一つの壁面には、岡﨑さんが以前から共同研究開発されているロボットを用いたドローイングが9種類2点ずつ展示されています。9種類(9枚)をまとめて並べたのが左右にあって、向かって左側は黒、右側は緑や青で描かれています。ドローイングは抽象的あるいは即興的みたいにみえます(もしかしたら何かと何かが重ね合わされているのかもしれないということもできますが…)。9種類の並び方は左右対称になっています。9枚(種)の並びを一つのまとまり(パタン)としてみることもできますし、それが左右対称になっている全体を一つのパタンとしてみることもできます。異なる階層を同時にみていると、何となく、人工生命ということを連想します。

 別の壁面には、ロボットのドローイングで人の顔を描いたのが展示されています。これらには『physiognomy』というタイトルが付いています。この語は、辞書をひくと、(性格を示す)顔(つき)、人相学、などの訳語がありました。内面的なものを外面的にあらわし、さらに、外面的なものをつくることによって内面的なものをつくるということまで考えさせます。これらのドローイングは、ピカソの顔とか描かれてありますが、人相学の実践なのだろうと思えてきます。岡﨑さんが以前書いたテクスト『メルヒエンクリティック』(artictoc vol.3, 2007)に、16世紀の自然科学者ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタと彼の人相学について言及がありました。性格というのは感情のくせみたいなものかもしれませんから、人相学は感情のようなこころの状態を扱うアートになるのだろうと思いました。人相学は現代では疑似科学といわれるかもしれません。しかしここでは本来の可能性が見出されていて、それはこの展示の全てと連関してあるのだろうと思います。この展示は、マイナーなものも含めた学知の再編成・再生がひそんでいて、ひとりルネサンスみたいなものなのかもしれないという気もしてきます。

 このギャラリーには隠し小部屋のような展示室もあります。そういう建築的つくりまで作品になっていると思いました。

 

(原牧生)

展覧会を終えて。

 展覧会(ポリ画報vol.4)は、冊子(vol.1~3)より、メンバー個人の志向性があらわれていたと思います。新たなことをできたともいえます。次の展開につながるかもしれません。展覧会場にvol.1~3をおいていたので、会期中に自分でも見直しました。不条理なイメージとことば、ナンセンスあるいは意味手前の雰囲気、ノンヒューマンな笑いの感覚など、ポリ画報でやりたかったことはvol.1でわりとできていたんだなと思いました。

 展覧会を終えて、会場で交わされた話を思い出したり、10月は連休もありましたので、イベントや展示をみてまわったりしました。そして、展示でやろうとしていたこと、またポリ画報でやろうとしていることは何なのか考えたりしています。

 10/8に、ダムタイプのパフォーマンス《S/N》記録上映とトークのイベントがありました。会場は学習院大の教室で、ダムタイプと個人的関わりがあったらしい講師の先生の企画です。『S/N』は、エイズを背景とした、ゲイであることやセックスや生と死に関わる、90年代前半に展開されたダムタイプのプロジェクトでした。パフォーマンス上演はその一部です。資料として、このプロジェクトを主導した古橋悌二さんの文章が配布されました。自分のHIV感染を伝える手紙形式で、誠意があって、特殊な条件において(それゆえに)より普遍的な条件に適うことが語られている感じがしました。エイズは治療法が進歩していて、人間とエイズとの関係に関しては、今は当時と事情が違うということです。時代的文脈の違いはありますが、ダムタイプを今みることができて、認識をあらたにしました。

 文章の中で、古橋さんは、アートは表現手段として有効なのか自問自答していました。また、アーティストとして個人的なもの以上のものの当事者である必要性があるのではないかと感じていたと書いています。この人がこういうとリアリティありますが、それは、(別のところに書かれた)エイズは最後のカウンターカルチャーなのだ、と断言できた、当時の状況の切迫度が高かったことでもあるのだろうと思います。

 10/8・9・10に、「TERATOTERA祭り2016」というイベントが三鷹の数か所でありました。「involve - 価値観の異なる他者と生きる術」というテーマを掲げています。テーマは『S/N』と通じるものがあると思いますが、アートとしてのありようはいろいろな面で違っています。今は、アクティビズムだったものが普及しているのでしょうか。観客参加型という設定は参加する気がある観客が参加するということになりますが、このイベントは割と多くの人が参加していると思いました。数年間継続してきた地域密着型アートプロジェクトとして定着しているのだと思いました。

 アーツ千代田3331にも行きましたが、メディア芸術祭の企画展が始まっていて、やはり人出が多かったです。

 これらは今日的な風景のように思われました。

 連休中たまたま武者小路実篤記念館調布市)に行ったのですが、実篤の本や「白樺」の装丁や挿絵の企画展をしていて、岸田劉生などが描いていて見応えあるものでした。館には「白樺」復刻版のバックナンバーがそろっていてみることができます。「白樺」には毎号図版の頁が一枚あって、セザンヌゴッホデューラー、ブレイクなどの絵が紹介されていました。白黒写真で精度もよくないですが、影響力あったと思われます。情報的には貧しくても没入できるものというか。そういうものは今日ではありえないのだろうかと思ったりもします。

 アーツ千代田3331で展示中の「ミルク倉庫+ココナッツ」の作品にはいくつかのオブジェみたいなものが出ていますが、それらを言葉としてみると示唆的でした。もともと用法があったものが、その用法が無用にされていて、たんにでたらめにされているのではなく、それでありながらそれでないものにされている、超用法的なもの。詩の言葉のようにも思えます。インスピレーションを感じさせるものをつくれるかどうかに詩的価値の生産がかかっている、そういうものがいくつもつくられて売られているということが見のがせないことだと思いました。

 ほかには、ホックニー展(西村画廊)をみにいって、過去のカタログをみて、絵をコンストラクション写真のように撮って空間リアリティを探究しているような作品からインパクトを受けたりしました。

 こうしてちょこちょこと書いていると、展覧会が終わってぼんやりしていますが、他の人がやってることをみて自分がやることについて整理できてきた気もします。

 

(原牧生)

ポリ画報の展覧会はあと二日です!

新スペースTABULAE(タブラエ)における

ポリ画報vol.4(としての展示)

Fools rush in where angels fear to tread.

(しらないくせして)

とてもポテンシャルの高いものになっています。

ここに立ち会っていただけたらたいへんうれしいです。

 

TABULAEは手作りで改装されたところで、そこに

いかに展示できるか緊張しました。

古い木造家屋には建物の記憶・家の記憶のような

ものがあり、しかもここは現在住居でもあります。

場所力が強いですが、たんにそこに依拠するのでない

関係性と作品自律性と両立のある展示にできました。

作品それぞれは、それぞれ異なる空間としてありますが、

誌面をみるように壁面や室内の配置をみれば、異なる

空間が同居している同居の仕方が感じられると思います。

 

本展は建物を本にするというねらいがありますが、しかし

建築=本ということは何でしょうか。

広い意味であるいは本当の意味で、読むということだと

思います。

読むという経験は、目で文字を認識するというだけでなく、

身体でそれを経験し、いわば魂の変成というか新生に

関わります。

本展に美術や文学といったジャンル分けはありませんし、

絵でもアニメでもそうです。言葉はイメージをともない

イメージは言葉に裏打ちされています。

かつてP.ピカソは「私はさがさない、私はみつける」と

(いう意味のことを)いったそうです。

読むという経験は、ここでいう「みつける」ということと関係

あると思います。

本展は読み方がいろいろある本ですが、みつける予感

みつける徴候を読むことができるはずです。

 

本展の会期は、今日と明日のみになりました。

13時から20時まであけています。

外島・原によるパフォーマンスは、本日24日の19時から

あと一回だけです。

 

時間をかけてみていただける展覧会です。

みなさまぜひおいでください!

 

(原牧生)

vol.4 としての展示について。

Fools rush in where angels fear to tread.

(しらないくせして)

 

 TABULAE(タブラエ)の川原さんからお話をいただき、展示をすることにしました。それがポリ画報vol.4になります。

 はじめは批評性や政治性を直接感じさせるテーマをたててタイトルにすることも考えました。でも、いってることとやってることがともなわない展示ではよくないので、このタイトルにしました。当たり前のことかもしれませんが、テーマを考えることとタイトルを決めることは別のことだとあらためて思いました。

 Fools~は、英語のことわざで、しらないくせして、はその訳ではありませんが、対応があることをみせるつもりでカッコに入れています。手元の英和辞書には、Fools~の訳のことわざとして、めくらヘビにおじず、とありました。素朴な差別というか素直な差別といったものが感じられます。Fool(s)は、一言では訳しにくい語だと思います。例えば、ビートルズに「フールオンザヒル」という曲がありますが、これなどフールについての雰囲気が感じられます。フールは英語圏のナンセンスものを体現しているような存在で、フールを演じるものが道化ではないかと思います。フールは必ずしも特殊な存在ではなくて、エイプリル・フールはみんながフールになれる日です。四月馬鹿というと何だかよく分かりませんが案外面白い言葉になっている気もします。

 昔からあるポエティック・ライセンス(詩の特権)は、詩において文法上の破格などが認められていることとされていますが、その出どころは、フールということと言語との深いところでの関係にあるように思えます。

 フールがやることは広い意味で言語行為といえそうですが、その自分がやることを知らないからそれができるというようなことがあるのではないかと思います。タイトルの、しらないくせして、はそういう意味もあります。が、実は、英語をろくに知りもしないのに英語のタイトルを付けちゃっていいのか?と思っていまして、自戒をこめました。

 天使がおそれて立ち入らないところ、とはどういうところなのか、というのも謎々めいています。ことわざという誰のものともいえない表現がはらむ知恵が感じられます。

 タブラエというところは、細長い商店通りの奥の方にあって、一階には元は店だったような造りが残っていて、その裏と二階が住居になっているような建物(一軒家)です。今回の展示は、一階と二階まで使わせていただけるので、展示空間から居住空間まで入り混じっているような、ギャラリーとは異なる場所性があります。そして、展示会場をいくつかの性格の異なる展示領域に分けてとらえられます。それで、本と建築という観点から展示プランを立てています。単純にいえば展示領域が本の頁であるような。例えば、教会は昔(特に印刷技術以前)は、絵などを介して聖書の物語が読まれるところだったと思います。それは本としての建築(あるいは建築としての本)であり、建築の中を歩いたりみることを含めて身体が経験することが読むことだったと思います。今回の展示では、(はき物を脱いで)あがる、(奥へ)入る、(階段を)のぼる、のように行為される建物の空間を、本というメディアにすることを試みます。そして、展示の領域と領域は連続していない(自律的)、かつ、連続している(共通性がある)というふうにできているといいのですが…

 初めてタブラエに行く人は、なかなか着かないなあと思うかもしれません(私はそう思ったので)。インディペンデントな拠点をつくるというつもりで展示をいたします。ぜひおいでください!

 

TABULAE(タブラエ)  http://5484tabulae.tumblr.com/

 

(原牧生)