ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

5月メモ

ハロー・ワールド 展 (水戸芸術館

説明的に思える作品が多い。

あるいは、どういう作品か説明がついてしまうような作品。

(本展の)アーティストは分かっている立場だ。

そうでなくてもよいはず。徴候的なもの、それじたいが徴候であるような事物や事象、発見的価値はそれら(又はそれらを見出すこと)にある。

(本展の)作品から情報社会という物語を除けば人間的欲望に変わりない。

昆虫(的)というのはポスト・ヒューマン的かもしれない。

 

上映会「イヨマンテ-熊おくり」 (路地と人)

アイヌは、日本国内のマイノリティというより、ユーラシアのひろがりでとらえられる存在だ。

(かつての)狩猟民の暮らし、文化、共同体のこころ。

いまある国境や国家の歴史と別の世界が潜在する。

 

ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん’18 (あうるすぽっと)

神村さんの振付に、十数人の出演者全員が舞台前際に一列横並びで、舌で口蓋を弾き(?)、ランダムにあちこちで舌の音が響く、というのがあった。自分の体での一人遊びみたいなことが集団の表現になっている。ユニークでユーモラス。

福留さんは、出演者が自己振付したものを構成・演出した。その人が選んだ言葉(動詞)が元にある。言葉から体の動きへ、それは言葉のイメージというものだろうか(違うような気がする)。言葉の意味から連想を連鎖。意味伝達の(媒体の)抵抗。

 

(原牧生)

4月メモ

ルドン展(三菱一号館美術館

 幻視というのは自分の中の想像や夢想が自分の外に見えるということだろうか。幻覚はおそらくもっと受動的で、視覚的空想力のはたらきの度合いの違いがあるのだろう。壁画に描かれたひな菊など見ていると、サイケデリックという言葉も連想される。そもそもサイケデリックのグラフィックは、(19C)世紀末芸術を参照して影響を受けていた。何となくサイケデリックの方が、受動的であるような気もする。それは大衆化と関係あるのだろうか。

 ゴヤへの尊敬や共感。ゴヤは病気で耳が聞こえなくなったが、そのため内的集中力が強まったのだろう。奇想という言い方もあるが、それは想像が勝手に?動いていくことなのかもしれない。画家の仕事をみていると、描くことが見ることかと思えてくる。

 ルドンの作品は、タイトルが詩の断片みたいに感じられ、この人は視覚イメージだけでなく言語センスの人でもあったのだと思える。マラルメとの親交など知られている。象徴主義というとまさにファインアート、芸術のための芸術という感じもする。それが壁画とか家具とかタブローと別のかたちになっていると、視覚芸術であるだけではない総合性のようなことが実感される。トポスというような感じがする。

 

小林耕平個展(山本現代

 映像出演の山形さんが面白く(もちろん小林さんも面白いが)、二人のコントのようだった。もとが落語や小噺だからか。言葉と現実(もの)の対応が言葉の独走によってずれていき、言葉は言葉じしんの論理で動いていく。詩的論理ともいえるような言葉で対話が続く面白さ。しかし上手すぎるとスノッブに感じられるかもしれない。分かっている人の言葉でなく、共同で探究するような、セッションであるのがよいのだと思う。ものと言葉のセッション。もの(現実)から言葉はずれていくが、その言葉はナンセンスではない。比喩のリアリティというようなことも考えさせる。

 

梅津庸一キューレーション展(URANO)

 「共同体について」。個々の作品が、というより出展作家たちの文脈、それを集めている。例えばパープルームにしても既存の美術大学や教育制度から自らを区別することによって成立した面があったはず。例えばそういった排除の力関係みたいな共同体の条件が、この展示にあるだろうか。

 

wwfesそかいはしゃくち(BUoY)

 4日間の会期の最終日、「ライブ」「クロージング・パーティー」に行った。このフェス(のテーマ)は、「共同体について」という問題設定をさらに更新したものといえそうだ。そこにずっといたらそう思えてきた。パフォーマンスの内容的には、言葉の比重が大きいのが印象的だった。それが、ラップとかブレイクダンスとかヒップホップ的なものともつながっている。ヒップホップは主張が強い文化だ。アメリカ的な、対決によって自己を確認していく共同体形成力がある。即興力が魅力だが、案外様式的にもなりかねない。

 ところで、梅津さんがキューレーションした展示には、ヒップホップ的な強さ(の原理)とは異なる価値観というか、テイストがあったと思う。そこに、「共同体について」のビジョンがあるのかもしれない。

 

(原牧生)

3月メモ

あなんじゅぱすライブ、ゲスト藤井貞和ネイキッドロフト

 藤井さんが、自分が書いているのは「現代詩」だと話していたのが印象的だった。短歌のように続いているかたちがあるものではなく、いつ書けなくなるか分からない、いつでも書けなくなりうるものとしての現代詩。それはそのつど発明しているようなものではないだろうか。短歌はうたといわれるが、(う/た)は、現代詩がうたでありうるか、ありうるとしたらどのようなうたなのか探っているような表記だと思う。あなんじゅぱすは、コロンブスの卵的に現代詩をうたっているように思えた。

 

マイク・ケリー展、ワタリウム美術館

 現代のフォーク・ロアみたいというか、フォーク・ロア的なものがポップであるというような、物語の力があった。アメリカってこんな感じなのだろうか、と思わせるような。

 個人の記憶・妄想・トラウマなどかもしれないが、素材はドキュメントだ。その経験は、学校や地域コミュニティでのイベント、いわば行事の儀式性みたいなもの、宗教的土壌がつよく感じられる共同体性の抑圧感であったりする。

 

橘上NO TEXT-本を読まない朗読会、ゲストカゲヤマ気象台、BUoY

 アフタートークで素朴という言葉を強調していたが、彼のいう素朴とは何だろう。文脈やクオリティで認められるようなものではないということだろうか。練習をしない、というポリシー(?)とも関わる。演技しない(演技にならないようにしている)即興。

 

tnwh ライブ、おんがくのじかん

 「俺は仕事が嫌い」という曲は、詞の書き方がよかったと思う。これこれの仕事何々の仕事という反復は、生活経験のディテールではなく、私の経験に依存していない、経験から自律した言葉の操作だ。形式感があるというか、仕事が嫌いという断定が、ほとんど理念的に感じられる。仕事が嫌いな俺とは誰でもあるのかもしれない、例えば聴いている人、そこにインパーソナルな可能性がある。

 

(原牧生)

2月メモ

世界に対する知と信 TALION GALLERY 駒込倉庫

 正面切ったタイトルでやや一般論的な感じもするけれどストレートだ。

 例えば、高柳恵里さんの作品に、紙や毛布や小さな電卓や空き缶が、いっけんただ置いてあるように見え、よく見るとそれらが底面の細工によって少しだけ浮かせてあることが分かる、というものがあった。それらを、目立たないがちょっと浮いている物として見ていると、周りから切り離されたあるいは独立した、単独の物としての在り様に見えてくる。そしてそれは、本当はそうではないのだ。

 そういういわば宙吊り状態にすること、それが答えなのか?

予兆 名絵画探偵3 blanClass  第10回恵比寿映像祭 東京都写真美術館ほか

 Whales+けのび、協働作だが、それぞれがそれぞれのまま重ねられたような感じだった。出演者の一人は、“起きていることを見られないでいるのを話す”という一種のインストラクションを実演する。名絵画探偵は、『Clairvoyance(透視)』という絵について語ったりする。今年の恵比寿映像祭のテーマは「インヴィジブル」だが、意外とテーマが近いのではないかという気もした。「インヴィジブル」は、見ることに対する知と信、といえる問題だったかもしれない。『予兆 名絵画探偵3』は、見ることは言葉にすることだ、というテーゼのようなものを考えさせる。意識しなくても言葉にしている、ということ。

絵画の現在 府中市美術館

 イメージを描いた作品が多いなかで、諏訪未知さんと白井美穂さんは違って、大まかにいえば考えを描いている。考えの説明というより考えの実践あるいは考えの具体化であろうとするのだと思う。それは言葉によらないプロセスといえるだろうか?

 ネアンデルタール人が描いたという絵が発見されたそうで、その映像を見た。ネアンデルタール人には言語がなかったとされている。あの絵は、何かのイメージなのか何かのしるしなのか、模様みたいなものなのか、何なのだろう。

 

(原牧生)

1月メモ

 practice、affair、などとよばれた堀浩哉さんの’70年代の試行を振り返る機会があった(金子智太郎・畠中実、日本美術サウンドアーカイヴ、1月7日三鷹SCOOL)。

 学生の頃古本屋で買った「美術手帖」のバックナンバーで写真など目にしたことがあり、ポイエーシスではなくプラクティス、ということは印象に残っていた。今回、説明の文章も配布され、何をしていたのかを知ることができてよかった。会場に彦坂尚嘉さんもおられて発言されたりして、何となく時代性を感じることもできた。

 しかし、その当時においては説明するまでもない状況や、問題機制、どうしてこうしなければならないのか・何をやろうとしているのかというようなことは、今では過去のものになっている。

 問題は問題でなくなってしまったのだろうか。

 これらをパフォーマンスとよぶことは後付けで、パフォーマンスという制度に回収しているようにも思える。

 闘争を持続するために何をすれば闘争の持続になるのか、というような問題は、過去化している。

 物語を信用しない、意味解体的作業。

 日常性のなか、還元的、退屈な闘争。

 個人でできること、それは(ものとコンセプトと)言語行為に関わっている。

 

(原牧生)

年末メモ

 今年を振り返ってみると、それ自体時間について考えてしまうことになるが、自分個人にとっては、ディヴィッド・トゥープさんのワークショップに参加したことは重要だったかもしれない。広い意味での即興演奏。

 即興は、いま・ここ、での行為と思っていたが、今とは何なのか。例えば、できるだけ短い音を出そうとしてみる。その不可能な瞬間が今だろうか。あるいは、今いる場所に場所の記憶があれば、その記憶の時間も今だろうか。

 精神分析でいう転移のような時間経験。そういえばどちらも、やっている時間をセッションとよんでいる。J.ラカンは分析治療の時間枠設定にとらわれないセッションを実践し理論付けしていた。それを読むと、何だか分からないが、即興の時間と関係あるように思える。どうして終わる(切れる)のか、というのもそうだが、緊張というか切迫がもたらされている時間。小さくてもそこに突破がある。

 即興は、受け・レスポンスとしてやる方が、やりやすく面白くなりやすいと思う。お題に対して応えるとか、まず他者なり状況なり何かがあって、それについて、あるいはそれに触発されて、何かいったりしたりする。関係性と単独性を両立させる。

 一方、先立つものを即興することは、たいてい慎重に探り出される。慎重に思い切った無意味さの提示。オチのない時間を生きる。

 今年は「詩の朗読会」があってよかった。詩にはひかれているが、詩一般を愛読しているとはいえない。詩に何をもとめているのだろう。ないものねだりかも。それを、コンクリート・ポエトリー(の可能性)に投影している。それでも、自分で選んだ詩を朗読している時間、間接的にあるいは変換されてだが、それはないわけではないのだろうと思う。詩のよみ出しと即興のきっかけは似ているかもしれないし。

 

(原牧生)

勉強会その後

 7月22日に第4回(発表川原さん)、8月26日に第5回(発表辻さん)の勉強会を行ないました。第4回では、Ⅵ章「三位一体」が取り上げられ、事前にていねいな要約とリンクが付いたレジュメがありました。発表はなかでも記憶術が着目されていました。時間や空間を経験するとはどういうことかという問題として。

 またそれに関して、六義園についての四谷アートステュディウム講義録(岡﨑ゼミ)も参照されました。六義園の問題(課題)は、庭園内をどのような経路でたどるか、庭園経験をどのように組織するかを考えることだったと思います。それは六義園という庭園のいわば設計思想と密接に関わることでもありました。

 タブラエでは、6/24・25 7/1・2に「小さな家が見る『Vampyr』」という上映会を行なっていますが、私個人的には、そこに六義園の問題と近いものもあったような気がしました。しかし、企画者当人の川原さんや辻さんから上映会の話をきくと、そういうものとはまた別のものだったかもしれません。

 一般に上映会は、たいてい、上映会自体の形式より、何を観るか(観せるか)という内容の企画としてあると思います。映画は始めから終わりまで上映時間があり、観客はその時間中席に座ってあまり動かないで前をみている、という感じです。タブラエでの試みは、そういう身体の体制化に対して、たんなるマルチスクリーンという以上に、建築(的要素)を介在させることによって、映像と身体の関係(時空間的な)を観客に再組織させるものだったのではないかと、自分としては思いました。

 記憶術は、結局よく分かっていませんが、そういう庭園や建築で経験される(経験できる)ことを、頭の中だけでやろうとする術(思考システム)なのではないかと思えてきます。

 第5回では、「アンリ・マティス」(Ⅰ章)が取り上げられ、特に壁画的な空間が扱われました。例として『スイミング・プール』という大きな切り絵の作品を図版や画像で見ながら話し合ったりしました。また、ピラネージの版画の内部視点的な建築空間も参考にされました。問題としてあったのは、分裂的な空間、あるいは、経験としての分裂、ということだったように私としては思います。

 分裂していればいいということではないのでむしろ分裂の限界を考えるべきという話もありました。それは多分、どこかで止まるというより分裂を高次にのりこえることを感じさせる(予感させる)動的な経験なのではないか、そういう力(のはたらき)といえるのではないかと(私には)思えました。

 それから、4回目に出た話題として、ネット上で服の写真を見て柄の色が何色に見えるか人によって言うことが違う、というトピックがありました。勉強会参加者どうしでも一致せず、面白いことだと思いました。実物と写真の違い、色の補正といった技術的なことでもあるかもしれませんが、そもそも他人の経験と自分の経験と較べようがあるのか、という感じになってきます。

 この場合、違いは何なのか考えてみると、①感覚・知覚レベル、②言語レベル、とがあると思います。①は、光の感受性みたいな生理的感覚の違い、ここでは地の色と柄の色との組み合わせ(差異)として各々の色が現象していますから、感じ分けて感じる知覚の違い。②は、どう見えているかをどう言うか、いわば個人的な文化の違い。色を言葉(名称)で言おうとすると、大ざっぱにならざるをえないと思います。そのため、これを何色というか、ちょっとした判断の違いでも、大きく違うかのようにあらわれると思います。実際に起こったことはどちらなのか、何か実験を工夫すれば分かるかもしれませんが、(自分たちの場合は)何となく②の方なのではないかという気もしました。

 ところで、この場合、①は経験自体、②は経験の認識、なのでしょうか。そういえるような気もしないでもないですが、私としては、そうとらない考え方に興味があります。言葉にしない・していない・できないことと言葉にする・した・できることと二つに分けるとらえ方とは別のとらえ方、別の言語観があるのではないかと。

 いちおう予定していた5回の勉強会を終了しました。『経験の条件』を読んで発表したり話し合ったりするのはやはりそれなりに難しいことでしたが、あらためて大事なところを見直すことができました。

 今後に向けて汲み取ったことは秘密です。というと冗談のようですが… 例えば、社会性や公共性や政治性が「秘密」にはあると思います。

(原牧生)