ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

抽象力で把握する

空間の潜勢力=坂田一男を通して考える、抽象の力 (馬喰町ART+EAT)

岡﨑乾二郎、成相肇

 

 東京ステーションギャラリーで「坂田一男展」を準備中ということで、それに先立つトークイベントがひらかれた。展覧会は、個人の回顧展にとどまるものではないようだ。ト-クでは、主に岡﨑さんが話し、坂田一男の画業を検討するために、レジェ、ピカビア、コルビジェ、モランディなどの作品が参照され、共有されていた問題が考察された。それを考えるために、岸田劉生坂本繁二郎セザンヌマティスなどの作品も参照された。また、その問題の観点から、リチャード・ディーベンコーン、ジャスパー・ジョーンズらの作品を見直すということも試みられた。

                                                                                   

 水をくぐること。セザンヌ水浴図、ランボーの一節。

M.シャピロのセザンヌの林檎論、梶井基次郎檸檬』。林檎や檸檬はどのような物として描(書)かれたか。

 

 洪水のような経験、ばらばらな感覚、非同一性の時間空間、その把握、それを描くこと、見えているものだけでないという感覚、時間空間を切り裂く・異なる時間空間が重ね合わされるという爆発。

 

 抽象という言葉の意味あるいは概念を考え直させる。普通の意味で具象でも抽象性がある場合も。象徴と抽象の関係、具体と抽象の関係など。

 

 認識の配置変えの提起力によって美術史的な専門性を超えている議論。

 

(原牧生)

5月(手段の開発)

空間を編む (TABULAE)

鈴木なつき

 

 たとえていえば型紙を切り抜いて三次元空間に立てたようなつくり。切り抜かれた空間と切り抜いた空間が互いに写像し合って自律しているように見える。タブラエという場所のかたちが所与の条件で、条件に従って空間をいわば変奏させているが、その空間には自律性もある。場所の条件と構造の自律性を両立させるということが空間設計なのだと思えた。かやのようなメッシュというか半透明の布地の仕切りで、空間の構造だけを想像できる。この展示は建築の展示だが、内からみた建築、内部空間だ。建築と身体・身体経験というテーマが感じられるようだった、

 

辻可愛個展「節むす穴むす」 (スタジオ35分)

 

 作者本人の説明をきくと、タイトルの「節むす穴むす」は、自然の原理だと思えてくる。受精卵の分裂、生物の発生過程をいっているようでもあった。草木やムシなど身の周りの自然への関心、親しみがまずあると思う。自然(の原理)を描くことと抽象化と絵画空間の構造化をつなげようとしていると思えた。会期最終日(クロージングパーティー)に、隣接するバーで作品から考えられた料理が出された。それにレンコンが使われていて、根茎としてのレンコンは文字通り節むす穴むすものだなと思ったりした。

 

サロンさど島 (blanClass)

泉イネ

 

 これは、泉さんが佐渡で何かやっていきたいという思いから何人かに声をかけた集まりで、それをブランクラスでオープンに行なったイベントだった。プロジェクトというよりもっとゆるやかな関係で、ゆるやかな関係のままやっていこうとしているようだった。いわゆる地域アートといえるものだろうか。それより個人的なものかもしれないが。それはともかく、この動きはどういうアート(アーティストの活動のあり方)になっていくだろうか。いまは、助成金などお金を動かして成果を出して、というのが芸術活動のあり方として普通になっている。作家であるためにはそういう契約的で即効的ともいえるやり方に適応しているわけだ。それでもこの集まりには、この動きをそういうものにはしたくないという気持ちもあるようだった。どうなっていくのか分からないが、作家は自分のやり方でやり続けていくものだとあらためて思えた。

 

Drawing: Manner  (Takuro Someya Contemporary Art)

岡﨑乾二郎、大山エンリコイサム、川人綾、牧口英樹、村山悟郎、ラファエル・ローゼンダール

 

 ギャラリーの企画展で、ギャラリーの主張というか戦略性のようなものが目を引く。岡﨑さんの作品と村山さんの作品が並んでいるが、こういうことをしてくれるギャラリーもあるんだなと感慨深い。大山さんと岡﨑さんは、以前もこのギャラリーの三人展で展示されていて、そのときは組み合わせの理由があまりよく分からなかったが、今回はDrawing: Mannerというテーマ性があって、その観点でそれぞれの作品の問題意識のようなものを見ることができた。川人さんの作品はオプティカルアートのように見えるが、背景に織物があると分かると違って見えてくる。柄を織り込む機織りのような手法、プロセス性が感じられてくる。

 

百年の編み手たち –流動する日本の近現代美術 (東京都現代美術館

 

 展示は3階から始まるが、いきなり恩地孝四郎らの『月映』があって中身も画像で見ることができる。詩と絵(版画)がそれじたい作品としてある、今ならアートジンといえそうなものだ。しっかりした製本のようだったが、どうやって作ったのだろう。後から思うと、特に絵の印刷。もしかしたら絵は版画で文字は活字だったのだろうか。当時写真製版みたいなものがあったのだろうか。

 3階を見るだけでも相当の時間と体力をついやしてしまう。終わりの方はあまり時間をかけられなかった。残念だが、上の階と下の階(おおまかに近代美術と現代美術)では見方、経験の仕方が違うということもあるだろう。館内の解説文が、英語の方が日本語よりくわしいようで、海外向けを意識した展覧会なのかなと思えた。

 

(原牧生)

4月(即興と詩)

Fushigi N°5第三回公演 (ALOHA LOCO CAFE)
向坂くじら、橘上、永澤康太

 

 何かについての言葉であるよりも、それがその何かであるような言葉、そういうものが詩だと考えたい。詩の形式で書かれた言葉であるよりも、パフォーマティブな言語行為、言葉の出来事であること。Fushigi N°5の試みを、つよくいえば、こういう方が詩だと思ってみているが、もう少していねいに考えると、即興的な言葉のセッションのどこかで、詩を経験する、断面のようなものがあるのだと思う。例えば、始まりとか終わりとか移行のタイミングはそういうものかもしれない。確定されない経験。
 三人でやっていると、ニ対一になったり一対二になったりできる。例えば、三人で雑談しているところから一人が離れて詩的なモノローグを始める。異質なモードが並置され、意味が分からなくなる。あるいは、一人芝居みたいなものを二人で見て解釈のようなことをしゃべり合う。また、一人が朗読して二人はその言葉の断片を拾って即興的に発していく。また、一人を知らない人とみなして二人で質問する、などのセットがあった。見せる・見る関係の枠組みを作りにくいパフォーマンスが、そうすることで上演の構造になっていた。劇中劇みたいにもみえた。
 即興のなかで、意味を共有されない単語がでてきて、日本語の複数性ということを考えることもできたりした。

 

(原牧生)

3月(理論という他者性)

DOMANI・明日展 (国立新美術館

 

 村山悟郎さんの作品は、いわば画布の生地を織る(編む)ことから、つまり絵画の支持体を作ることから始められている。細長くとがった先が始点なのだろう。支持体の構造に理論が関わり、その作り方(手法)を実行するプロセスとして支持体の形ができていく。いわゆるシェイプドキャンバスとは形のでき方が違う。そのプロセスを自己組織化といっているのだと思う。多分、初めに完成予想イメージがあるのではなくて、やっているうちに成っていくものなのだろう。計画的でもなく無秩序でもなく何かに従っている。

 一方、その支持体に描かれた表面というか狭義の絵の方も特徴的だ。色数が四つくらいに限られていて、色使い・筆触がパターン的でそれが組み合わされているように見える。支持体は分岐しながら広がるうちに重なり合ったりしていく。支持体を先に作ってから描くのではなく、両方を一緒に進行させていったのだろうか。また、会場にセルオートマトンのドローイングも展示されていたが、アクリル画のパターン性と関係あるのだろうか、など興味がわく。

 第一印象として、何か民族学博物館にでもあるような祭祀にでも使う物みたいな雰囲気があった。そういう物は、作り手の自分の表現ということはもともと問題でない。共有された規則のようなものに従って、あるいみ理論的に、作られていたと思う。野生の思考といわれるような。具体的で抽象的な自分の外部の社会化された思考法。現代の社会では、自己組織化などを扱う科学が、具体的で抽象的であるような思考を、ふたたびひらいているのだろう。

 木村悟之さんの映像作品には、三輪眞弘さんのアルゴリズム作曲による音楽の一部が使われていた。循環的な感じの音楽だったが、手仕事的な創発性みたいなものとの違いが感じられた。

 

IKEA/砂川闘争 (立川市

橋本聡 ゲスト松井勝正

 

 14時にIKEA立川店入口前に集合。「RECALLS」展の実践篇というか、現地を歩いてア-ティストの話をきいたり参加者もしゃべったりするワークショップのような感じだった。立川の現地へ行ってみて初めて分かるということもあった。元米軍基地の広い土地、元滑走路の道路、自衛隊駐屯地、農地も残っていて50年代当時あたりが農村だった様子を想像できなくもない。実感的リアリティとでもいえるようなものだ。普通の住民=農民の人たちが、自分たちの土地=暮らしを守るために闘争したというまっとうさがすごい。

 広い土地があったからIKEAが出店したと思うと歴史の皮肉のような気もする。IKEAは何かを達成あるいは実現したのだろうか。例えば、W.モリスらがやろうとしたことと較べて考えると。IKEAで橋本さんが安価なミニテーブルと椅子(スツール)を買って、公園で参加者が組み立てることもした。デザインは悪くないと思うがやはりチープではある。モリス的基準・価値観でみたら本物とはいえない。しかし、現代の世界では、生活のリアリティはそういう本物のリアリティではなくなっていて、IKEAにあるような、カタログ化されたライフスタイル、人生劇場のようなモデルルーム、階級差を忘れさせる価格とデザインの商品、などになっている。そう思うと、かつての砂川闘争のような、実感的生活リアリティの闘争は、今日的現実感覚では難しくなっているに違いない。そうではあるが、米軍基地をめぐっては今最もアクチュアルな闘争が続いていて、それは砂川闘争の頃からの続きなのだということも忘れられない。

 「RECALLS」というプロジェクトは、状況に対峙して現場を読み変えたり、それ自体に批評的意味をもたせたりするような、コンセプトなのだろうと思う。パロディ的というかデュシャン的思考操作ともいえるかもしれない。砂川闘争とIKEAと別のリアリティが重なっている、そもそもそれを見出すことがコンセプチュアルだ。それを効果的に提示できるかが実践の試みだった。

 そしてその関連あるいは文脈で、ファーレ立川というパブリック・アートを見直すこともした。あらためてその成り立ちの複雑さというか両義性を考えることができた。

 

(原牧生)

2月(受け手の経験をつくるとは)

マクドナルド放送大学 (MISA SHIN GALLERY)

高山明(PortB)

 

 高山さん・PortBは、みる側の経験として演劇をとらえたことによって、やる側とみる側という一方向のパタンから転回したと思える。演者が演じることをつくるより、観客の経験(行動や認識など)をつくる、組織する、演出する、ことになっている。いわゆる観客参加をこえて、直接行動に近付く。ブレヒトの教育劇(教材劇)の可能性をひろったといえるかもしれない。こちら側とあちら側という境界、自分という境界をもつれさせるような経験。広い意味での教育に近付いているのだろうか。自分が変化して世界との関係が変化するというような。ソーシャル・エンゲージド・アートみたいな文脈にはまりすぎない方がいいのだろうと思えた。

 

目撃者たち (blanClass)

地主麻衣子+カニエ・ナハ

 

 地主さんは言葉に対する問題意識があるようで、今回は詩人のカニエ・ナハさんと交互に朗読するという試みをされた。言葉は自分を自由にするが不自由にするともいえる。アフタートークでは、政治的な意見、指向(あるいは嗜好?)は議論では変わりにくい、むしろ逆効果、という例など話されていた。交互の朗読は、ダイアローグではないがモノローグでもない、やり取り性のあるかたちになっていた。ゆるい対話のような関係性のある言葉を聴く場だったのかもしれない。会場には椅子のほかマットや座布団が置かれ、観客は座ったり寝そべったり歩き回ったりできる。照明は暗めで、リラックスできるようになっている。そういう演出は、やろうとする内容に合っていたと思う。

 

山と群衆(大観とレニ)/四つの検討 (blanClass)

眞島竜男

 

 近代国家・権力(者)との関係、ポピュラリティ・世俗的力…そういうものがある芸術(家)、という問題意識。歴史の見直しでもあり、今日のアクチュアリティへのとらえ返しでもある。二人をキャラクターにした会話のテキストが台本のようにあって、会話の内容に批評性が入っている。ストレートには分かりにくい。グーグル翻訳で文体が変換されているだけでなく、シチュエーション・コメディということで、もともと文脈の変換を交えたテキストだったのだろう。テーマの物語化を分裂させていくような、実践的なやり方だったと思う。文字テキスト、物と身体の動き、(タッカーで描く)絵画、映像(映画)など要素が多い。文字テキストはゲーム画面のイメージでもある。観客にとっては、読むということの比重が割と大きいかもしれない。翻訳が、割り切れないものを生じさせていく。日本語と英語と読むことも翻訳だが、パフォーマンスを見ることもテキストの翻訳であるように思えてくる。

 

イサム・ノグチと長谷川三郎-変わるものと変わらざるもの (横浜美術館

 

 イサム・ノグチと長谷川三郎が1950年代に出会い、それから日本の伝統を見出して意識した抽象芸術の創造へ向かった、というストーリーの展示。50年代のモダニズムの見直し。伝統的なものと日本的なもの、歴史的な同一性と地理的な同一性、これらはそれぞれ別々なものなのだろう。それらが組み合わされてストーリーになっていくのかもしれない。

 

既存の展示等を改変 : RECALLS (TALION  GALLERY)

X、成相肇、橋本聡

 

 開催中の五つの展覧会を、五つのオリンピック大会と、キャッチフレーズの言葉の類似性で結び付け、解釈した見方を提示。イケアの製品と企業理念への注釈を提示。二つの改変が展示されていた。東京オリンピックという具体的なイベントを前に、展覧会がオリンピックに巻き込まれることに対して、架空の共犯関係をパロディとして見せている。イケアの方は、パロディやアイロニーというより、比較的肯定的に扱っている感じがした。説明文中心の展示ともいえるが、問題が分かりやすいアクションなので生々しいとも思う。

 

(原牧生)

1月(言葉とパフォーマンス)

私の頭の中のメディウム・スペシフィティ (blanClass)

原卓也(パフォーマンス)

 

 藤枝静男の小説『田紳有楽』をテキストとして用い、一部朗読もしている。物が物を演じるという意味として絵具を塗って、川原さんの肉体がメディウムになっている感じがした。パフォーマンスというのはそういうものかもしれないとも思った。

 テキストのもとの小説は、物(陶器)が話したり感じたり経験をしていくという書き方。例えば昔話「さるかに合戦」は、ハチと栗の実と臼が仲間となってカニを助けサルとたたかう。そういうものたち。また、仏教的でもあり、例えば宮沢賢治のいろいろな生き物の童話のような、宗教的な宇宙を語るための寓話のようなお話し。日本の近代文学自然主義的な私小説の私とは別のやり方。

 それはそれとしてパフォーマンスは、物に物を演じさせる私 と 物 との関係から、私と物との関係 と その関係を記述する私 との関係へすすませることを、倫理的問題として扱っていた。それは少し観念的なので表現としては儀式のような感じにみえるかもしれない。

 それから、もとの小説に依存していることと自立していること(パフォーマンスは小説に触発されているが、テキストは台本ではない)、その両面性が未解決な感じもした。

 

Fu  shi  gi  N°5 の居留守 (仲町の家)

向坂くじら、橘上、永澤康太

 

 ちらしのプログラムには、①baby talk ②body to words  etc.とある。①や②は、言葉の手前のようなものだろうか。あるいは言葉にとっての他者性。そういうものを想定し(仮説)、その場でパフォーマンスしてみる(実験)、という趣旨だったのかもしれない。

 実際にやったことは以下のようなこと(だったと思う)。

・二人がディベートのようなことをして、もう一人は離れてそれをみていて時々指示を出して介入する。

・一人が自分のネタのようなことをして、他の二人はそれをみてダメ出しして注文をつけて違うことをやらせていく。

・一人は、テキストをPCで打っていきプロジェクターで見せる。一人は、うたう(歌詞はあってもなくてもよい)。一人は、体を動かして何かする。それらは相互関係があったのかもしれない。よく分からなかったが。

・三人でフリートーク。好きな色を話したりしていたが、急に橘さんが幼児みたいに声を出してふるまい他の二人が応答するという場面もあった。

etc.

 即興の言葉のセッション。わけのわからない主張にわけのわからない主張で対抗する、ナンセンスな議論。言葉と現実のずれを無理やりこえさせる、いわゆる無茶ぶり。等々。言葉がつかわれているということはどういうことなのかが、あぶり出されている気がした。

 

パリドライビングスクール (ユーロライブ)

テニスコート神谷圭介、小出圭祐、吉田正幸)、山口ともこ(ゲスト)

 

 ナンセンスコメディという感じで、演劇として台本と演出があり練習している。即興より出来不出来の評価がはっきりしやすい一方、枠を共有しやすいからより多くの人がみにきやすいとも思う。

 最初の場面はパリドライビングスクールだが、パリという言葉から連想の逸脱を重ねたようなナンセンスな設定になっている。それでも設定というのは意味をもちやすい。途中、そこから逃げ出せない狂気の館みたいになってきて、ほんわかコメディがホラーものになりかけると、パリドライビングスクールは何か寓意のようなものになりかねない。しかし、そうしないように、物語からずれていく。物語に対する非同一性に言葉の技があると思う。

 言葉をつかうことには規則のようなものがある。言葉をつかうこと、つまり規則をつかうことは、規則に導かれるということでもあるだろう。進行と同時に先取りがある。それが文脈の先端だ。先取りを同時に回収することが意味の感覚なのだろう。導かれた先取りを外すと、分からなくなる。だが、そこでおかしくて笑ってしまう場合もある。それが問題だ。とはいえ実際は、コントという文脈でギャグだと思って笑いで反応しているのかもしれない。しかし、演劇という枠の中であっても、いかに予期外にナンセンスできるかは、時間を忘れて笑っていられるかの実験なのだと思う。

 

邦楽番外地vol.7  (シアターX)

土取利行(歌・演奏・トーク)、いとうせいこう(ゲスト)

 

 土取さんの三味線弾き唄い、いとうせいこうさんのポエトリーリーディング、さらに土取さんのパーカッションといとうさんのラップとのセッション… トークの時間も長く、唖蝉坊の時代の芸や文化を担った人間関係など、土取さんの歴史の造詣が深い。そして、(関東大震災前の)社会主義者アナーキストに言及することが多かった。舞台での演奏も、政治的メッセージ性があるものが多い。デモの現場でやるようなラップを舞台で成り立たせられた、そういう場を土取さんがつくれていたといえるのだろう。インプロビゼーションアナーキズムの関係について考えさせられる。

 

(原牧生)

12月メモ

ポエトリー・イン・ダンジョンvol.1 (アートスタジオDungeon)

 

 永澤康太さんの自作詩のやり方は独特なものだ。書くことより、うたうこと、語ること。いちいち覚えながらつくっているのだろう。私的なことが詩にされている。感情、気持ち、思いが強い。この頃はラップにはまっているそうだ。言葉をあふれさせる方がいいようだ。くどきという言葉を思い出す(伝統的な意味で)。感情的な訴えかけ、情念的負荷のこもった言葉、くどくどいうこと。上演は、声になることなのだ。音程が何ともいえない感覚だ。

 

Reflection 辻可愛 佐々木智子 二人展 (Art×Jazz M’s)

 

 辻さんは近年は植物を描くことに関心があるそうだ。植物が生成している空間を描くことによって絵画空間を構造化することを探っているようだ。モンドリアンの木の連作のような抽象化も考えているらしい。佐々木さんは風景を描いている。特定の場所というより、いくつかのイメージが合成されているようだ。そのもとになるメモを普段つけているとのこと。形よりも色で、色斑で描いている。

 

ポスト・インプロヴィゼーションの地平vol.7  (Art×Jazz M’s)

 

 前半の松本一哉さんのライブは、金属製のオブジェや銅鑼を用いて響きを扱うものだった。銅鑼を円くこすっていると、低域から高域まで含んでいるような音圧が強まっていき、物理的に迫力あった。電気を使う音響機材を使っていない。

 後半は細田成嗣さんとのトーク(インタビュー)。松本さんは、フィールドレコーディング的なこともしている。だが、機材という技術の操作だけでなく、演奏のような技術、身体的関わりも使う。聴くだけでなく、聴きたい音をどうしたら作れるかをいつも考えている。音楽というより音フェチ。また、他の人がやっていることはやりたくない、等々。

 

Vacant Lot 散策研究会Cadavre K (TABULAE)

 

 この展示は、北川裕二さんによる散策研究会の活動記録であり、また、きれいに額装された写真作品でもあった。散策研究会は、長い道のりを長い時間歩くことを晴でも雨でも継続的にしている。さらにそれは散策というより徘徊ととらえられ始めている。

 ところで、赤瀬川原平さんは70年代に美學校で「トマソン」ということを始めた。それは83年から雑誌「写真時代」で読者参加型の企画として展開された。それから、路上観察というふうになっていく。「トマソン」は、トマソンという野球選手の豪快な空振りからインスピレーションをえてそう名付けられた。いわば、非有用性を超有用性へ転化すること(写真と語りによって)。

 「トマソン」を参照してみると、散策=徘徊の過激さの可能性を考えられるかもしれないと思えてきた。

 

(原牧生)