ポリ画報通信

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言葉あそびと詩

 詩と言葉あそびは、それぞれ別々のものではなく、言葉あそびであることが詩でもあるようなものとして、詩・言葉あそび、というものがあると思う。いわゆる詩のような、作者特有の言葉であるかのような言葉をつかうより、いわばパズルのように言葉を扱うやり方を試みることの方に、自分にとっては、可能性があると思える。

 何かしら制約や規則に従ってそうなっている、あるいはそのようにみえること、そしてなおかつ、それが、形式的な操作というだけでなく、イメージ喚起性・意味になりかけているような面白さをもつこと。

 同音異義、音が似ていること、かたちの繰り返し、対称性、等々によって、しゃれやとんちのようなひらめきや飛躍がもたらされる。ことわざや慣用句のように、誰のものだともいえない言葉をさがす。言葉自体に関わるようにしたい。

 

 ところで、そういうことをしたいということは、どういうことをしたいということなのか。そこについて、詩は現実の否定だ、という文から考えてみたい。

 この文には意味があるだろうか。意味がないとしたら、これはナンセンスだ。しかし、ナンセンス、としても、詩は現実の否定だ、ということには、何か人を魅了するものがないだろうか。はっきりしない意味のようなものが。

 まず現実という言葉がはっきりしない。この現実だけが現実ではない、ということは、多分、昔の人の方がよくしっていたに違いない。自然の深みなどによって。あるいは、宗教的なことなどによって。

 現実の否定をソフトにいいかえれば遊びといえるだろう。詩は、というか詩的なものを経験している状態は、別な現実なのだ。詩は何かというのもはっきりしないけれど、詩をかくにはやはり何らかの意志が必要だから、詩は、この現実を否定する意志がどこかにひそんでいるこころの状態をかたちにしたもの、かもしれない。

 言葉は、音と意味の結び付きで成り立っている。言葉あそびは、音と意味の結び付きを、その文脈のそれだけでなく、別なようにしたりする。すると文脈じたいが変わったりする。例えば、なぞなぞには、どう考えればその答えになるのか、発想の枠組を付け替えるような面白さがある。

 

 詩は文法を破っていても認められるというような、ポエティック・ライセンスの慣習は、昔からあったそうだ。ポエティック・ライセンスの存在は、言語の例外的なものを詩に負わせるということだろうか。むしろ、言語には潜在的に破格的な力があるということを隠しているのではないだろうか。詩・言葉あそびは、そのような、遠くの力を受信する、媒介なのではないか、という気がする。

 

(原牧生)