ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

引込線2015 (トークイベント9/13)

 展覧会やイベントの感想、それをきっかけにして考えたことなど書きたいと思います。

 

 引込線2015 (展示と9/13のトークイベント)

 8/29~9/23、旧所沢市立第2学校給食センター

 

(イベント)なぜ「私」が撮るのか

企画:櫻井拓 メンバー:河村麻純、佐々木友輔、高橋耕平

 

 はらださんという1948年生まれの男性についての映像と年表をみて、トークでは、これらを作った作家の高橋さんの、他の作品との比較もまじえて、方法論や作品構造について、話されたりしました。今回の作品はドキュメンタリーですが、はらださんを客観的にとらえたのではなく、共同制作的とでもいえそうな関わり方になっています。本作を作った動機についても、興味深い話がありました。はらださんの映像や年表をみていると、ドロップアウトという言葉が思い浮かびます。はらださんという人は、すごい人なのか、しょうもない人なのか、それらがひとつの両面でアンビバレントな気持ちにさせる人です。そこにあえて直面しようとする作品なのかなと思いました。アメリカのカウンターカルチャーからドロップアウトという言葉が出てきたとき、そこには積極的な意味があったと思います。アートは本当は必然的にドロップアウトへ通じるものがあるのではないかという気もしてきます。社会とアートとの関係、社会と人間との関係における、ドロップアウトということをポジティブにできないか、というようなことを考えさせられました。

 

(イベント)ポイエーシス/ポリティクス

企画、司会:石川卓磨 メンバー:狩野愛、河口遥、趙純恵、益永梢子、渡辺泰子

 

 性差にともなう政治性に始まり、生活、生きることと、マクロあるいはミクロな政治、制作としてのアート、それらの関係などについて色々話されました。それぞれの方に行動力や実践力があるので刺激をうけます。人はいかにして(広い意味で)政治的になるのだろうと思ったりします。例えば、自分の意見をいえるということには、自分たちを超えて正しさ又は義しさがあるはずだということを、自分の根拠にできるということ、どのようにしてか分かりませんが、いわばそれを学習していて、それが何なのか分からなくても信じているということが、根底にあるのではないかと思います。それは一般的なようでいて個人的なことではないでしょうか。ですから、政治的正しさを規範にしながらも、そこでどうするかというより、自分にとっての確信、本気になれることを、一般的妥当性で共有されなくても、やるべきなのだろうと思えてきたりします。

 

(展示)

 戸谷成雄さんの作品は以前のもともとの印象は、木という素材そのままではなくしかし作るということの手前であるような感じでした。そのためには素材に何かをすること(切り込むなど)をあえて粗っぽくやって即物的な状態にしておく、という一種の解決策を示したものでした。作品は行為の跡という感じで、何かのイメージでなくていいのですが、しかし何となく想像上の太古の森のイメージみたいに見えてしまったりもする、そういうあいまいというか両義的なものだったと思います。しかしそれから何年も制作が続けられた間に作家のスタイルのようになったのだと思います。今回の作品は、かたちがまるっこくなっていて、イメージが違って意外でした。

 

 篠崎英介さんの作品は、組み合わされた形は緊密に構成されていてパーツどうしの関係は決定されていますが、固定されてはいません。おいてあるだけです。作品というのは展示されているときは存在していますが、展示されていないときの作品はやはり存在しているのだろうかと思ったりします。おいてあるだけというあり方は仮設的です。構造的にみえるけど一時的な成り立ちに賭けられていて、素材を設置して空間を作るというようなアートのあり方に近いものを個人的には感じました。作品のまましまわれるのでなく、ばらばらなパーツにリセットされるようなあり方は、死と生を繰り返せるみたいな感じで、展示されていないときは作品ではなくて潜在的な作品としてあるのだ、と思ったりしました。

 

他には、土屋貴哉さんの作品が、現実空間と映像空間のトートロジーをちょっとずらしていくような仕掛けで印象的でした。

また、吉川陽一郎さんが「行為」をたんたんと続けられていて、その無償性のようなものが心に残りました。

 

(原牧生)