ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

鈴木理策写真展 / Celsius / Ongoing Fes

展覧会やイベントをみて考えたことなど書きたいと思います。

 

鈴木理策写真展

2015年 7/18~9/23、東京オペラシティアートギャラリー

 

「意識の流れ」というタイトルが気になったので見に行きました。文学でも意識の流れといいますが、それは意識なのかむしろ意識下を意識させる手法のようです。また、流れというのも、意識されていることが次々生成消滅している状態で、意識の流れと時間の流れは違うようです。「水鏡」シリーズでは、うつっているものとうつしているものと一体にあらわれていますが、内的な現実が取り出されたように感じられます。エチュードと題された、花々のシリーズは、焦点のぼかし方が作為的に見える人もあるかもしれませんが、ちょっと意識の変容というのを連想しました。ちょうど『知覚の扉』(オルダス・ハクスリー)という本を読んでいて、この本は過去のものかと思っていましたがまだ何かあるのではないかと思ったりしていましたので、見ることと見えることの間で少しでも時間を忘れていられたのはよかったです。

 

 

Celsius (5名の作家によるグループ展)

2015年 8/20~9/27、CASHI

 

新平誠洙さんの作品は、一見とてもよく似た絵が並べられています。しかしよく見るとコマ送りの画像のように違っています。時間という問題を考えさせる作品です。例えば、今という時について。今とは、ふつう時間軸(直線)上の点のような瞬間だと思われています。すると、今をあらわすのは一つの静止画でしょうか。しかし多分、そういう考え方にはパラドックスがあります。むしろ、この作品から今という時について示唆的なものを感じました。今は同一のようで同一でない、今は止まっていない、というようなことです。

 

宮崎直孝さんの作品には図面の展示も含まれています。図面をもとに誰が作ってもいいようで(作家の話では)作者の死後に作られてもいいとか。それもまた公的ということでしょうか。そう思うと、ここにある物が作品ですけれど、公的内臓というコンセプトが、作品の本質なのだと思えてきます。図面は、展示されている物の図面ではないのですが、コンセプトと図面と物、それぞれどうしの写像関係が作品なのだという見方をしたくなります。ピストンを動かすと肺の模型のように風船がふくらんだりして、それらが過剰なまでに入り組んでいます。図面を見ながら、こういう迷宮的なものにひかれる気持ちって何だろうと思ったりもしました。

 

 

神村恵ソロ公演「ワークショップ」

2015年 9/19・9/20、Art Center Ongoing

協力:ミルク倉庫(梶原あずみ、宮崎直孝)

 

神村さんがダンサー、梶原さんがワークショップのファシリテーターという設定です。私が行った二日目は、観客になるワークショップですと告げられました。何となくハプニング(50-60年代あたりの)みたいな雰囲気がありました。観客は何かさせられて、ちょっと儀式的緊張感みたいな感じも(そのときの観客は男性が多くて出演は女性二人だったせいかも)。見せる-見るという関係、上演形式を変えるような試みで、観客は、公演とともに見る以外の感覚や行動を経験する観客になり、ソロダンサーは脱中心化されるというか、出演者が観客の視線を集めるのでなく、むしろ観客が場の中で出演者をみそびれるようにされています。そういう点でも、非中心的なハプニングやイベントの解放性に通じるものがあったと思いました。

 

 

テニスコートの研究発表会『だって耳が遠いんだもん3D』

2015年 10/2・10/3、Art Center Ongoing

ゲスト/相川佳輝

 

ニュースとは公共の関心事といえると思いますが、大事なことがニュースになっているとも限りません。よく知られたことはどうして(どのようにして)よく知られているのでしょう、私は知らないことも多いですが。ニュースを見つける人は、多くの人が知りたいこと、多くの人にとって興味がひかれることあるいは面白いことを見つけるつもりだと思います。ニュースにはまだ意味がありますが、「テニスコート」の連載は、ニュースを意味から脱線させるようなお題の投稿です。逆に考えると、ナンセンスみたいな回答は、もとはニュースの意味の文脈(公共の関心)があったから、ここまでいじれたのだともいえます。面白い話はニュースでしょうか、あるいはその逆は。小中学生たちの投稿にぐちゃぐちゃしたかたちであらわれている、子どもの頃にもとめていた面白さ、現代美術はそういうものの延長だろうという気もします。

 

(原牧生)