ポリ画報通信

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「Reflection: 返礼 - 榎倉康二へ」展

 展覧会をみて、それから思ったことなど書きたいと思います。

 

Reflection: 返礼 – 榎倉康二へ

池内晶子、鵜飼美紀、白井美穂、豊嶋康子、日比野ルミ、福田尚代、安田佐智種、榎倉康二

2015年10/1~25 秋山画廊  2015年10/2~25 スペース23℃

2015年10/8~25 gallery21yo-j

 

 私は以前、榎倉さんが個展をされていたスペースでバイトをしていたことがありました。コンクリートの壁のような作品でしたが、それが映るくらい床がぴかぴかだといいなといわれて、毎日モップかけをしていました。会期中に榎倉さんの人柄にふれたこともあり、この企画はこころにとまったのでみにいきました。

 榎倉さんが芸大在職中に指導した学生は数十人で、そのうち女性は9名だそうです。この数は多いとはいえないかもしれませんが、そのうち7名が作家活動を続けていて、女性作家を育てた率は高いと思います。その人たちによって、没後20年いわばトリビュート展が企画されたということに、人の思いが感じられました。

 床に映ってるといいなというのは、そうだったらいいという希望でしたが、それはやはり、もののとらえ方を作品にしたいというような、作家の考えからでした。物と意識の関係といえるかもしれません。榎倉さんの作品は、素材の扱いや外界との関わりが視覚的であっても触覚的、へりやきわのように間接的に身体感覚的、であるように感じられます。何か感じるような気にさせるものがあると思います。

 榎倉さんは、もの派に入れられることがありますが、もの派というくくりは、プロモーション的には使えるのかもしれませんが、もの派という言葉から入って作品を見るような見方になっては逆でよくないと思います。もの派という言葉は、もともと誰が言い出したのかはっきりしないようなジャーナリズムがつけた符ちょうの一つみたいなものだったのでないか、もの派という言葉は、例えば研究や批評では、使わなくていいんじゃないかと思ったりもします。私が学生の頃、菅さんと李さんが学科の先生におられたので、授業を受けたり作品をみにいったり、いい経験がありましたが、そのときもの派という意識をもつことはありませんでした。

 少し前に、高松次郎さんの展覧会と菅木志雄さんの展覧会がありましたが、二人の仕事はある部分では近いところもあると思いました。また、その高松展の上の階では、高松さんと同時代的な作家の作品が展示されていました。榎倉さんの作品もあったように思います。今みると、貧しさの自由みたいなノスタルジーを感じなくもないですが、それらの布置に、現代美術ってこういうものだったと思わせるものがありました。つくることや発表することへの態度といった前提的なことから、それぞれが、なかったものを始めている感じでした。

 そういう参照をおいてみると、「返礼」展は、現代美術が忘れられていない展示だったと思えてきます。私は、白井さんと豊嶋さんの作品は以前からみることがあり、他の方たちの作品はこの展覧会ではじめてみました。例えば素材という観点からみても、作家それぞれの方向性がみえてきます。池内さんの作品と安田さんの作品は、どちらも糸が垂らされていますが、その意味というか使い方は全く違っています。外界のとらえ方の違いかもしれません。安田作品の糸は、何かつなぐような機能性があるようでした。鵜飼さんの作品と日比野さんの作品は、どちらもガラスを使っていて形態的にはだいぶ違っています。が、素材の物質性を扱い呈示するという方向性が、どちらもあるように感じられました。鵜飼作品のガラスは、水をとどめてみせるための容れものでもあるようでした。白井さんの作品は、何を考えてるのか見当がつかないのですが、一種の抽象思考でできているような感じにひかれます。豊嶋さんの作品は、たんに考えがユニークというだけでなく、広い意味で制度批判のような態度があるように思えます。福田さんの作品は、この中では私的な世界をつくっているという感じがありました。この作家は回文詩をたくさん作っていて、それがすごいと思いました。

(原牧生)