ポリ画報通信

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「無条件修復」展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

無条件修復  milkyeast

 

第Ⅰ期 10.25-11.06 (10.26、11.02 休)

谷口暁彦、松村有輝、高嶋晋一+中川周、篠崎英介、松本直樹、坂川弘太+

瀧口博昭+山岸武文、梶原あずみ

 

 テーマとしての修復という言葉から、私が連想することが二つありました。一つは、「つくる」ということへのアイロニカルな認識、かつ、そういう認識への反発。つくるということが、複製、模造、引用といったことに変えられる、大雑把にいえばポストモダン的な背景、そこで記号の操作や消費をくりかえす、ということに対して、修復(の脱構築のようなこと)は、いっけん後ろ向きにみえかねませんが、つくるということの価値引き下げに対する、逆説的な抵抗であるように思えます。

 もう一つの連想は、いわゆる震災以後的な、再生のようなことですが、これは、復旧というより前向きに再出発でありたい、けれど、もはや終末論的な未来観から逃れることもできない、といったアンビバレントな条件下にあると思えます。

 それで、主観的な見方かもしれませんが、松本さんの壺やカップの作品、松村さんのバケツの作品は、一つめの修復に関わるように思いました。

 1Fの展示で松本さんの作品と篠崎さんの作品が同じ台の上に並べてあります。それぞれ、考えていることもやろうとしていることも違うと思いますが、なぜか形態的に呼応しているように見えなくもない、それが面白いと思いました。

 篠崎さんの作品は、プレ展では、びんの外側と内側を型にして抜いたあとから、いわば虚の空間を重ねてネガティブな復元?を示そうとしたようなものだったと思いますが、本展では、脱ぎ散らかされた服がそこにあった体のあとのようになっています。服が部分的に裏返って外側と内側が反転し、型として固定されない空間になっていると思います。

 谷口さんの作品は、多分、食パンをかじったあとの形が検出されて、それに応じて単語が出力され、パンを食べるにつれて詩のようなテクストができていく、というプロセスの映像だったと思います。言葉で埋め合わせるととらえれば、パンと言葉の間に、いわば自己修復的なプログラムが組み込まれている、といえるかもしれません。

 そう考えてみると、生物こそ自己修復するものです。梶原さんの作品は植物の成長を作品にしていると思いますが、成長は分裂と再組織化からなり、自己修復のもとは自己再生産なのだと思いました。

 高嶋さん中川さんの映像作品は、さまざまな力(による動き)であり、物や物音によって、行為者のない行為のような感じがとられていると思います。静観でない態度があると思いますが、人間は画面の外に疎外されているようです。

 坂川さん瀧口さん山岸さんの作品は、やはり会場の建物を横に一回り切ってしまうという大胆さがすごいです。三階が舟になるというビジョンは、実現するものなのかどうか分かりません。しかしそれゆえに、私のなかに、この屋根が転生して舟になる(この地上とは別の界で)という空想があらわれてきます。このビジョンは、先にあげた修復の二つめに関わっているような気がします。

 

第Ⅱ期 11.15-11.27 (11.16 休)

北川裕二[散策研究会]、山内崇嗣、秋本将人、宮崎直孝、吉田和司、坂川弘太+

瀧口博昭+山岸武文、梶原あずみ

 

 ところで、無条件修復の無条件ということについても考えさせられます。例えば、修復の対象が無差別、修復する理由が無根拠、修復してどうするか無目的、などなど。ひとことでいえば絶対という感じがしてきます。宮崎さんの自転車の作品をみて、そういえば無条件修復だったと思い出しました。

 宮崎さんの作品は、そのもの自体の修復というより他の物との系というか関係において修復されている、個体を超える修復なのだと思いました。

 吉田さんのドローイングは、本展の文脈におかれてみると、有用なのか無用なのかこわれているのかそういうものなのか冗談みたいなものが無条件修復にみえてきます。引き出し(drawer)とドローイング(drawing)としゃれでしょうか。そういうのも好きです。

 私はコンクリートポエトリーなどに興味があるので、秋本さんの作品(punctuation mark)は、カードゲーム、パズル、言葉(記号)遊びの道具のようにみえます。並べられたカードは一つの文のようなもので何か現実をあらわしていると考えることもできますが、その現実は他でもありうる、ということが、並べ替えできることによって示されています。記号を見分けながら並べ方をつくっていくことは面白そうで、いろいろな展開をさせてみたいという思いにかられます。

 北川さんの作品は、プロジェクトの記録がまとめられたものということで、そのような継続的な活動が本展に関わっていることにより、無条件修復というコンセプト、その内容というか解釈というか、が実質をえて豊かになったと思いました。本展だけでなく、この活動自体の発表・展示などによって、やっていること・やろうとしていることが、さらに明らかにされるといいのではないかと思いました。

 考古学と修復は深い関係があると思いますが、山内さんの作品群は、考古学的であるが考古学のパロディでもあるような展開で、岸田劉生の絵を研究的に扱う態度から逸脱しえていると思いました。土や地面は劉生の絵とつながっている感じがしました。全体に積極的な感じを受けました。土器くじとか。

 

第Ⅲ期 12.06-12.19 (12.07、1214 休)

豊嶋康子、永田康祐、外島貴幸、中山雄一朗、西浜琢磨+宮崎直孝、坂川弘太+

瀧口博昭+山岸武文、梶原あずみ

 

 中山さんの作品は、自分の作品をいちど壊して(部材それぞれを二つに割って)、作り直したものだと思います。もとの作品は彫刻でそれを分断したものは彫刻でないとして、分断されたものから彫刻を作り直すのはどのように可能か、というようなルールのゲームとして修復を捉えているようでした。彫刻であることが修復の条件ですから無条件ではないといえますが、彫刻であればいいという条件は、外側から条件が決まっている条件ではない、条件をつくることが条件になるのだろうと思いました。

 豊嶋さんの作品は、赤い光のもとでは赤いものも赤く見えないことを示しています。考えてみると、物には色はない、あるいは、色は物(実体)ではない、物に当たる光の反射が色に見える、ということに思い至ります。原子に色はないですが、それが集まって目に見えるものになると、それの色があるように見てしまいます。例えば、金の色は金色といわれますが、それは、それがそう見えるようにそうであるというトートロジーをいっているだけです。もともと赤い物などはない、異なる光を当てることによって修復の前提の基盤を掘り崩すような作品だと思いました。

 永田さんの作品は、それらしい質感に見えるCGや、コンピュータ制御で薄層吹付?を繰り返し繰り返し重ねることで作られた石みたいに見えるものや、PCで修整された写真など、現実に対する現実感を変えるようなイメージを作るテクノロジーが使われています。そういうシミュレーション的な技術によって、イメージと現実との結び付きを操作しています。現実の受容がその現実のイメージになるという方向性を逆転させる、イメージ認識を変えることが現実との関係を変えることにつながるのでは、という関心が、テクノロジーを使う考えとしてあるようでした。

 外島さんの作品は、はみ出すという内容(短いテクスト)と形式(展示の仕方)を両立させており、映像も一部3D化によってはみ出しが試みられています。はみ出すという言葉の活用によって、修復したい・させたい欲望が扱われています。人間の欲望は言語に媒介されているので、言葉の機略が(修復の)欲望を成り立たせている条件じたい(意味付けや価値付け)をいじってしまう面白さがあると思います。はみ出しが、ばらばらな身体イメージ(しかもひとひねりされた)に絞られていることによって、欲望の分裂化のような可能性が感じられました。

 西浜さんと宮崎さんが共作したことが成果を生んでいて、こういう共同制作をできるということが、本展の強みになっていると思いました。建物全体にワイヤーを張り巡らせ、からくり仕掛けになっています。以前別の展覧会で発表された宮崎さんの注射器のピストンを複数使った作品では、その複雑さによって、自分の行為の結果がどこにあらわれるか予測しにくい、他の人の行為の結果がいつどこにあらわれるか分からない、そういう不可知性・不確定性がありましたが、その特質は本作にもあって、自分がいるところで起こっていることの全体をみる(知る)ことはできない、想像することがもとめられる仕掛けになっています。そして、ミルクイーストの建物が、一種の楽器というか音楽機械のようなものになりました。

 坂川さん瀧口さん山岸さんたちの制作は会期中も続いていて、Ⅱ期Ⅲ期と異なる展開をみせています。三階部じたいがかなり作品化されてきて、このあとどうなる(どうする)のだろうと思ってしまいます…。

 また、Ⅱ期のプリントから梶原さんの作品タイトルに和訳が付いて、作品の意図が伝わってきました。展覧会が終わっても、つる草は伸び広がり続けていくのかもしれませんし、そう思うと、shall という助動詞に予言的なものが感じられます。

 

(原牧生)