ポリ画報通信

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ロベール・ブレッソン「ラルジャン」(2)

(1からの続きです。)

演出と主題の関係

 「罪の天使たち」から同様のテーマが引き継がれているとして、「ラルジャン」で明確になったのは以下の四点でした。

  1. イヴォンやアンヌ=マリーははじめから不可解な行動をとっていたわけではない。映画は特殊な状況に落ち込んだ人物が、次第に理解され難い立場を獲得していくプロセスを追っている。
  2. 1で獲得された特異な行動様式、通俗的なヒューマニティでは計りえない言動の一端が服役者として、もう一端が聖者の如き献身の姿として、双極的に示されている。
  3. 罪人/聖者という両極的なカテゴリ(2)の創出するダイナミズムを語りたいのであれば、精妙な演出は必ずしも必要ない。稀有なプロセス(1)を描きたかったからこそ、あらゆる類型化を回避する手段として、内面描写や俳優の職能が退けられたのではなかったか。
  4. 以上の三点から、ブレッソンの興味の中心は、罪人及び聖者の〈生成過程〉にあったと推測できる。

 ブレッソンは社会の歪みに絡め取られた罪人のみならず、その裏面としての聖者の発生をも一種の現象、いわば特定のプログラムを持ったメカニズムとして捉えている節があります。とすれば「奇跡など待ってはいない」と答えた老女は、奇跡を信じていなかったのではなく、既にして奇跡を通過したか、あるいはその只中に身を浸していたのかもしれません。

 

切り取られたラスト

 トルストイの原作とは異なり、観客はラストシーンにおけるイヴォンの自首が回心と呼べるだけの出来事となったことを確認できません。けれども画面に映し出された経緯を今一度注視するのなら、むしろその当て所ない彷徨の道程が、彼が冒頭からの実直さを手放さなかったことの証明であるように思われてくることでしょう。平凡な生活を逸脱したイヴォンは運び屋にも義賊にもなれず、また凶悪犯になりきることもできませんでした。そう、イヴォンが適合できなかったのは何らかの欺瞞を含むすべての価値観(例えば、「お金」!)だったのです。では、何であれば彼を止めることができるでしょう?

 自首という行動を取った時、実のところ彼がどういった心境であったのか、それはイヴォン本人にもよくわかっていないのかもしれません。ただ、その判断があらゆる生き方を彷徨い歩いた結果、どうしようもない八方塞がりで絞り出された最後の選択であるのなら、私はその論理的帰結をこそ、信頼したいと思うのです。

 

(佐々木つばさ)