ポリ画報通信

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ロベール・ブレッソン「田舎司祭の日記」

あらすじ

 新米司祭が赴任地の人間関係でぎくしゃくし、ウジウジする話。ということになるでしょう。描かれたものだけを見るならば。

 幾度か住人らが司祭に悪意を持っているらしいということが語られますが、理由ははっきりせず、また何度かきな臭い出来事があるものの、事件に進展するわけでもありません。これ見よがしな善人もいなければ憎むべき大悪党も出ては来ず、繊細な司祭は住人たちの挙動にいちいち逡巡しながら独り健康上の不安を抱えて過ごしています。

 観客は日々の間に挟み込まれる手、筆記する手のカットによって、ひっきりなしのナレーションが司祭の手稿をそのまま読み上げているものであるようだということを了解するでしょう。

 

 

日常という編集行為

 陰気なだけじゃなく地味な話ですが、この題材ならやむをえません。というのも、真面目すぎる主人公の控えめな態度が全編に渡って作用しているのみならず、物語の枠を形作る日記、そもそもこの日記をつけるという習慣自体が、記述対象を1日、ないし数日という馴染み深い時間の単位で切り取られた「出来事」へと収斂させ、「日常」と呼ばれる状態を模範的に再編していく営みに他ならないからです。映画が語り部として手記を選んでいる以上、司祭が書かなかったことは語られないことになります。

 しかし注意しなければならないのは、この『田舎司祭の日記』が日記の朗読ではなく、映画であり、作品であるという点です。後半に向かうにつれ、スクリーンは司祭の書き損じ、黒く塗りつぶされた行やページを破りとる手をも、共に映し出していくようになります。そこには決して読み上げられることのない日々、いわば司祭自身によって消去された物語があったのです。冒頭のナレーションに戻りましょう。 

「日常の出来事を率直に記しても差し支えはなかろう

 それが取るに足らぬ秘密なら」

 

 

空白

 日記によれば、司祭は職務における忠実さのためなら濡れ衣を被ることすらも厭わなかったようです。それほど信仰に熱心だった司祭に怖れるものがあるとすれば、それは自らの死である以上に、自身を田舎司祭以外のものに変容させてしまう何か−−−例えば彼が「聖人たちの試練」と呼んだようなもの、つまり日記が作出するはずの日常とは正反対のもの−−−だったのではないでしょうか。病状の悪化を理由に説明される幻覚的体験の直前から、塗りつぶされ、引き千切られる日々が増えていく。このタイミングは偶然でしょうか。またこの時少女セラフィータに聖母の幻を見ながら介抱された場所が、〈家畜小屋〉の藁の上であったという点はどうでしょう。あるいは胃弱の彼が赴任以来ようやく口にしてきたものが、〈ワイン〉に浸した〈パン〉、すなわち聖体そのものであった点は? さらにかつてセラフィータに教師として投げかけた質問が、まさに〈聖体拝領〉についてであったことは?

 「それがどうした、全ては神の思し召しだ。」

 今際の際にある司祭は何に語りかけたのでしょう。

 

 

ベルナノスの手紙

 …と、ここまで書いたところで、原作者ジョルジュ・ベルナノスの手紙を見つけました。

完成した芸術作品は私たちに確信と陶酔を惜しみなく与えます。しかし、私たちに示唆を与えてくれるのは、欠落や削除のある草稿です…(中略)…お望みなら、あれは聖人についてのまだ未定形の草稿だと思ってください。

http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/4477/1/200000020567_000030000_69.pdf

 小説『田舎司祭の日記』もこの言葉の通りに書かれていたのだとすると、ブレッソンの作業はベルナノス作品の読解を通してその肝要なアイディアを拝受し、自らの作中に取り込んで骨肉化させていくことだったと言えるでしょう。映像というメディアを用いることで、テクストにはテクストとしての欠落を保たせながら、なおかつ完成された作品を提示する。以降の作中にもその秘かな試行の跡を見ることができます。

 『田舎司祭の日記』は饒舌にして寡黙、また寡黙であるがゆえにより多くを語りうる作品なのです。

 

(佐々木つばさ)