ポリ画報通信

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セルフリファレンス・リフレクソロジー

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

Self-Reference Reflexology セルフリファレンス・リフレクソロジー

2016.5.13-6.5(金・土・日のみ)  milkyeast

梶原あずみ、坂川弘太、篠崎英介、高嶋晋一+中川周、瀧口博昭、西浜琢磨、松本直樹、宮崎直孝、吉田和司

 

 自己責任や自己管理など自己を主体化させる力(あるいは制度、システム)が社会には働いていると思いますが、それらに対して自己が自由であるということは考えられるのか、というようなことに関心がありましたので、「セルフリファレンス・リフレクソロジー」というタイトルに興味がひかれました。自分が自分のツボであるような…。いやしという語はいやしいという語に通じているようですが、いやしいというのは社会からさげすまれています。自己管理ができないとだめとみなされるように。セルフケアという語を深読みすると、自己が自己である条件を扱う、社会にとっては両義的な、諸実践があらわれてきます。そこに興味深いものがあるのではないかという気がします。本展の作品は物として自律・自立している態度がみられますが、モデルのようにみることもできるのではと思いました。

 

 松本さんの作品と瀧口さんの作品は、出力が入力にループしてフィードバックでスイッチングしている回路になっています。無限に続く繰り返しが、自己言及的な仕掛けであるように思いました。

 坂川さんの作品と吉田さんの作品は、どちらも電球が使われています。電球と発光はダンサーとダンスのような関係ですが、これらの作品は、(電球が)光っていること、あるいは、光っている電球の、同一性とそのずれを示しているように思いました。

 宮崎さんの作品と瀧口さんの作品は、風船とか袋とかぐにゃっとしたものがふくらんだりして、バイオキネティックに動く柔らかな機械(ソフトマシーン)を思わせます。生物/無生物のような二分構造をスルーする感覚にリアリティがあると感じさせると思います。

 篠崎さんの作品は、力のつり合いを組み合わせて、空中都市のように、地面から自立し重力から自律しているようにみえます。物たちは固定されていないので、そこにありますがそこでなくてもいいというような潜在力が感じられます。止まっているようにみえても上演中のライブ感のような。

 高嶋さんと中川さんの映像作品は、物を扱っているらしいだけでなく、公園の緑地の周りを回りながら撮っているような緑地がメリーゴーランドのように回ってみえるところが入っていて、これは何だろうと思い、映像どうしの関係や全体の構成、時系列的な見方があるのだろうかなど考えさせられました。自分が回ること、見ることの相対運動のようなことが印象的でした。

 西浜さんの作品(ビデオ)では、複数の人でひもを持って、大きなあやとりのような形をつくり、また戻すことを繰り返しています。それらの形がマケットとして展示されていて、何となくですが、組ひものトポロジーみたいな感じもします。そう思ってみると、この反復はトートロジーともいえます。しかしそれでも、パフォーマンスとしては、同一性の反復というより、偶然性の一回性を繰り返しているのだと思います。

 梶原さんの作品は環境をつくるものだと思いますが、植えられたアイラトビカズラとLEDの色光が系を成しています。これらの色の光があるとよく育つらしいです。この植物にとって、この光は何なのでしょうか。まず、植物は、光をエネルギーとして取り入れて反応を起こしていると思います。しかしこの場合、光と光の違いによって生育反応に違いがある、ということは、植物は光の差異を区別している、環境としての光を情報として知覚している、ともいえそうです。そう思うと、植物は環境を意識している、というところまであと一歩です。この植物にすれば、自分の潜在的なものが目覚めて成長しているような気持ちかもしれません。

 一階から二階床へ突き抜けている瀧口さんの作品のように、建物自体を使った独特な展示をできるのがミルクイーストの特長でしたが、現在の建物の展示は本展で最後ということです。この木造の家屋が名残り惜しく感じられます。

 

(原牧生)