ポリ画報通信

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『ピンク・ジェリー・ビーンズ』

ピンク・ジェリー・ビーンズ

作・演出・出演:川原卓也、関真奈美

2016年6月11日(土)-19日(日) TABULAE

 

あらすじ

〈1〉

 死体である川原さんの周りをうろうろしながら、関さんが何かを解説しています。

 まず、自分の仕事について。インテリア・コーディネーターとは、部屋やその中にすでにあるもの、あるいは家主の好みやライフスタイルといった所与の条件に対して出来合いの品をあてがっていく職業であり、成功もあれば失敗もあるということ。

 次に、コアラの習性。コアラは一匹につき一本のユーカリを住まいとする動物であり、住居となる木を複数の個体でシェアしないこと。また家主のコアラが死んでしまったとしても、その匂いや爪痕が古い樹皮とともに剥がれ落ち、痕跡が消滅するまで、その木を別のコアラが住まいとして選択することはないということ。つまりコアラの肉体が失われたとしても、ユーカリの木がそれを記録し続けている限りにおいて、(少なくとも住まいの選定という面において)コアラは死んだコアラを生者同様に扱い続ける、ということです。

 

〈2〉

 今度は死体の川原さんが起き上がってしゃべります。

 自分は今、川原卓也の死体だけれど、だからと言ってネガティブな意味合いはない、ということ。そもそも人は常に環境に応じて引き出された何らかの演技をしているものであり、「この場に応じた自分」という演技をしている限りにおいて、自分ですらもないじゃないか、ということ。

 

〈3〉

 川原さんは今からロボットになる、と宣言します。ロボットとはあらかじめ動きをプログラムされているもので、自由意志のないものだと。ロールパン6つを床に並べながら、1922年にドイツで起こった「ヒンターカイフェック事件」を解説します。なんでもこの事件、一家6人がつるはしで惨殺され、霊能力捜査が実行されたものの、未だ犯人の特定には至っていない怪事件なんだとか。

 そして川原さんのテンションはちょっとおかしくなってきます。ほうきをギターのようにかき鳴らし、穴と見ては覗き込み、台車を乳母車のように揺らしては、自分の声に応答します。部屋中に散らかった道具に対して、ひっきりなしにベタな反応をし続けるのです。

 

〈4〉

 関さんが戻って来ると同時に、あたかも天の声であるかのように、関さんの声でアナウンスが入ります。

「◯◯のように〜する。」

「××の形を作って△△する。」

関さんはアナウンスに従って行動します。その場にないものには代用品をあてがい、できる限りの範囲で指示が実行されます。「藁」がなければスダレを用いていましたし、垂直にもたれかかっていても「寝ている」とみなすようでした。そういえば〈1〉の関さんがイヤホンをかけていたことが思い起こされます。〈1〉の台詞も行動も、みんなこの声に従っていたのかもしれません。

 関さんは言われるままに大きな釘抜きを持ち上げると、振りかぶって地面に振り下ろします。1、2、3、4、5、計6回。舞台が終わります。

 

 

環境から引き出される自己

 二人の登場人物はそれぞれの「自己」論を展開します。〈1〉の関さんがコアラを使って説明したのは、死者が生者と同じ待遇を受ける実例でした。樹皮への登記によって生が引き伸ばされているとか、死が遅延している状態、とでも言えそうです。他方、〈2〉の川原さんは自らの演技を土台として、純粋な自分自身とでも呼べそうなものの不在を告発しています。〈1〉〈2〉の発言は「個体」とみなされる対象や、「自分」によるものであると同定される言動の中にも、ある程度の環境要因が含まれているということに言及している点において一致します。

 そこで一つの仮説が導き出されます。「自己」とは、結局のところ周囲のモノ≒インテリアのアフォーダンスによって引き出される行動の集積に過ぎないのではないかと。けれどもこの説に即して示された見解は、それほど肯定的なものだったとは言えないでしょう。というのも、川原さん演じるロボット(〈3〉)やアナウンスに従う関さん(〈4〉)の“ちぐはぐな”行動を、空間のコーディネートという見地から問う限り、それらはともに周囲との調和を欠いた失敗例になってしまうからです。

 

伸長する室内空間

 舞台上の関さんと川原さんは互いにほとんど関わり合おうとしません。さらにパフォーマーとも観客ともつかない中間的な存在(速記者)が常時「意識の流れ」をテキスト化してプロジェクションしているのですが、二人はこれも無視します。

 最終的に関さんは1922年ドイツの事件に介入してしまいます。舞台のベースとして終始“同じ場所にいながら違う時間を経験している状態”が持続する中、ラストシーンの数十秒で急速に顕在化したのが“違う場所にいながら同じ状況を体験している状態”でした。とすると川原さんが頬張っていたパンは殺害の合図となったのかもしれず、川原さんの死体もまた、一連の演技全体を通じて(つまり自らの指示によって)あらかじめ作成されていたものだったのかもしれません。

 ここでは遠く隔たった時空間が、ただ事件という「所与の条件」を回収するためだけに押し曲げられ、あたかも「出来合いの品」であるかのようにあてがわれています。最後に明かされたのは事件の犯人ばかりではありません。コーディネートの対象とされる室内空間=周辺環境の領域が、話題として供給されていただけの時空間にまで及んでいた、というパフォーマンス全体を包括する大きなルールでした。何よりも先に部屋のほうが、物語の題材に合わせ、器用に伸長していたのです。

 

(佐々木つばさ)