ポリ画報通信

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かぼちゃの気持ち 「POST/UMUM = OCT/OPUS」

1.あらまし

 先月末、宮城にある風の沢ミュージアムというところに行ってきた。おかざき乾じろさんの展示を見て、ワークショップに参加するためだ。概要については原さんが詳しく書いてくれているPOST/UMUM=OCT/OPUS 展 - ポリ画報通信ので、私はもうちょっと勝手なことを書こうと思う。

  出品作の性質は大きく分けて二つ。屋内にあるロボットを使ったドローイングと、屋外の「支柱」の作品。「支柱」の足元には珍しい実をつけるつる植物がいろいろと混植されていて、七月末のこの日には、まだ薄緑のスイカやふわふわの産毛に覆われた迷彩柄のヒョウタン、特撮怪獣みたいにいかつい質感のカボチャの子供たちが、風に揺られて飄々とぶら下がっているさまを目撃することができた。

 加えてワークショップは来場者が何か作業をするというよりも、おかざきさんのアーティストトークというか、レクチャーみたいな感じだったと思う。作品の前で語るのって難しい。あまりにも直接的な物言いをすれば制作意図を短絡的に解釈される可能性があるし、そうなってしまえば今だけじゃなく、これから先もずっと読解の間口を狭めてしまうことになるかもしれない。アーティストである限り、いかなる語りの名手にしても、こうした危険と無関係ではいられない。

 

2.語りの手法

 そこでおかざきさんは、世界の神話から原爆記念公園、憲法解釈へと、すごく広い範囲の事柄について、自身がどうインスパイアされたかという点を明示することなしに次々語っていくという手法をとった。ここ数年講義を聞いてきた者にとっては、数年間の総ざらいというか、改めて記憶を掘り起こして強化するような働きがあったけれど、初めて聞く人にはいくぶん難解だったかもしれない。

  中でも興味深かったのが、外の支柱の作品について「現代美術作品と呼ばない」とか「自分の作品だということにしたくない」とか「カボチャの作品なんだ」とコメントしていたことだ。こうして書きおこしてみると、おかざきさんが自作についておそろしくネガティブな評定を下しているように見えなくもないけれど、たぶんそういう意図ではないだろう。

 と言うのも、今年の春先からだったか、おかざきさんが「動植物(のみならず非生物までも!)を〈人間〉としてカウントする」という奇抜なアイディアを案出していたからだ。「〈人間〉としてカウントする」というのは、この場合、その存在に知性を認めること、と言い換えてもいいかもしれない。カボチャに知性を認めるのなら、それが作品を作ることだって認められるはずなのだ。

 

3.カボチャの気持ち

 カボチャは人の思うようになるとは限らない。どうして支柱を無視して地べたを這いつくばってしまうのか? せっかくロープを張ったのに、いちいち雑草に絡みついて行くのはなぜなのか? 人からすれば、都合の悪いことばかりかもしれない。こんなとき、腕のいい園芸家ならどうするだろう。一週間水抜きの刑? それとも巻きひげ全切除の刑? いっその事新しいのに植え替える? ……そういう判断もありうる。だけど園芸を続ける限り、いくら気に食わない苗を処分してみたところで、遅かれ早かれいつかは何かの判断を、植物自身に委ねざるをえなくなるわけだ。 

 カボチャは今、支柱に掴まるのには少しばかり、自身の蔓のレンジが足りないと考えたのかもしれないし、暴風を避け、より多くの光を集めるために、違う方を向いていたほうが都合がいいと考えたのかもしれない。突き詰めて言えば、カボチャのことは結局、カボチャにしかわからない。人はカボチャの置かれた場所の影響と、カボチャ自身の身体の状態とを、カボチャ自身ほど詳細に知ることはできないからだ。だからこそひとまずカボチャの行動に、カボチャなりの合理性があるものだと想定し、様子をみる。同じ畑の同じ作物でも、条件は毎年異なっているし、同じ一本の植物にしたって、幹と梢では役割が違う。自他の状態を合わせ見て、つる植物はことさら鋭敏に環境をトレースしていく。

  言うまでもなくこうした観点は、知性があるのなら相手は絶対に自分の思い通りになるはずだと考え、思うようにならければ直ちに切り捨ててしまうような態度とは異なる。それはそれでカボチャに期待をかける気持ちの表れ方なのかもしれない。だけど、植物であれ人であれ、誰かに知性を認めるということは、自分には理解できない相手の判断にも、何らかの根拠なり有効性なりがあるのだろうと想像する余地を確保しておくということであって、気に入らなければ即一刀両断という、極端なやり方の反対側にこそ位置するものだ。

  カボチャの蔓は思考の軌跡だ。制作が思考そのものに近い、と考える限りにおいて、これはやっぱりカボチャの作品と呼んで差し支えないのだろう。

 

4.作ることと、書くことと

 支柱の作品はおかざきさんの作品じゃないと言った。現代美術でもないと、まず本人が言っていた。それじゃあおかざきさんは作ることを諦めてしまったのかというと、それももちろん違う。特に支柱の作品は、現代美術史に名を刻まんと強く主張してくるようなものではなかったわけだけど、それだけに実は重要で、おかざきさんの思索のマイルストーンというか、膨大なキャリアの中でも後々広く参照される可能性が高いものだと考えている。理由は−−−−書く必要があるんだろうか?

  おかざきさんは以前、「美しい芸術は答えを出す」と書いていた。うろ覚えなので正確じゃないかもしれないけれども、本当に、実際に、そうだと思う。このところ以前にいや増して、厳密な作品は正確に解かれうる、いや、解かれるんだという確信を強くした。それは私に自信を与えると同時に、作品評を書く必要性をほとんど感じなくさせる出来事でもあった。おかざきさんのトークがそうだったように、直接的言及だけが語りの最良の手段ではないし、平明な話法だけが万人に公平であるわけでもない。平明さと明晰性は必ずしもイコールではなく、仮に平易な表現の優越性をのみ主張するのなら、それは底抜けに無邪気で乱暴なまでに杜撰な強者の論理であると言わざるをえないだろう。そうした事柄は常にその言葉に耳を傾けられる可能性を持ってきた者だけが語りうる妄言だ。繰り返すが、いつだって正しい、つまり状況に対して適切な手段が一定であるとは限らない。

  だから作品を作るんじゃないだろうか? 

 

5.供犠と作物

 レクチャーのスライドにもあった通り、中空にあるカボチャのボリュームはひとがたを想起させるもので、それがぶらぶら揺れるさまはただかわいくて楽しいだけじゃなくて、供犠とか吊るされた犠牲者といった、えげつないほど陰惨なイメージをつきまとわせてもいる。ある者が生き、そして死ぬ[殺される]。亡骸は播種の効果を持ち、地上に豊かな実りをもたらすが、このオオゲツヒメならびにハイヌウェレは、その後一切顧みられることがなく、ひっそりと忘れ去られていくのだろうか? ……農家はどうだろう? 彼らは仕事の間じゅう、畝の合間で聞き取りにくいその声を、耳にし続けているのではないだろうか?

  話は飛んで、私にも作物から連想した物語が一つあった。『大きなかぶ』である。キプロスピグマリオンよろしく、おじいさんが丹精したかぶが彼の希望通りに大きくなり、というか大きくなりすぎて抜けなくなり、おばあさん、孫娘、加えて犬、猫、果てはネズミなどという、戦力としてどれほどの実効力を持ったものかすこぶる怪しい人物(!)たちを総動員して、やっとの思いで引っこ抜く。いいなあと思うのは、ここでは犬と猫、猫とネズミといった天敵同士が、相争うこともなく目的を共有していることだ。

  豊かな実りが平和と楽しみをもたらすように。それがハイヌウェレのねがいだった、と信じたい。そしてそれは彼女が亡くなり、ばら撒かれ、拡張されることによってはじめて完遂されるものであったと考えたい。そうでなければ彼女は永遠に、浮かばれることがないままだから。

 

(佐々木つばさ)