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ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

展覧会を終えて。

 展覧会(ポリ画報vol.4)は、冊子(vol.1~3)より、メンバー個人の志向性があらわれていたと思います。新たなことをできたともいえます。次の展開につながるかもしれません。展覧会場にvol.1~3をおいていたので、会期中に自分でも見直しました。不条理なイメージとことば、ナンセンスあるいは意味手前の雰囲気、ノンヒューマンな笑いの感覚など、ポリ画報でやりたかったことはvol.1でわりとできていたんだなと思いました。

 展覧会を終えて、会場で交わされた話を思い出したり、10月は連休もありましたので、イベントや展示をみてまわったりしました。そして、展示でやろうとしていたこと、またポリ画報でやろうとしていることは何なのか考えたりしています。

 10/8に、ダムタイプのパフォーマンス《S/N》記録上映とトークのイベントがありました。会場は学習院大の教室で、ダムタイプと個人的関わりがあったらしい講師の先生の企画です。『S/N』は、エイズを背景とした、ゲイであることやセックスや生と死に関わる、90年代前半に展開されたダムタイプのプロジェクトでした。パフォーマンス上演はその一部です。資料として、このプロジェクトを主導した古橋悌二さんの文章が配布されました。自分のHIV感染を伝える手紙形式で、誠意があって、特殊な条件において(それゆえに)より普遍的な条件に適うことが語られている感じがしました。エイズは治療法が進歩していて、人間とエイズとの関係に関しては、今は当時と事情が違うということです。時代的文脈の違いはありますが、ダムタイプを今みることができて、認識をあらたにしました。

 文章の中で、古橋さんは、アートは表現手段として有効なのか自問自答していました。また、アーティストとして個人的なもの以上のものの当事者である必要性があるのではないかと感じていたと書いています。この人がこういうとリアリティありますが、それは、(別のところに書かれた)エイズは最後のカウンターカルチャーなのだ、と断言できた、当時の状況の切迫度が高かったことでもあるのだろうと思います。

 10/8・9・10に、「TERATOTERA祭り2016」というイベントが三鷹の数か所でありました。「involve - 価値観の異なる他者と生きる術」というテーマを掲げています。テーマは『S/N』と通じるものがあると思いますが、アートとしてのありようはいろいろな面で違っています。今は、アクティビズムだったものが普及しているのでしょうか。観客参加型という設定は参加する気がある観客が参加するということになりますが、このイベントは割と多くの人が参加していると思いました。数年間継続してきた地域密着型アートプロジェクトとして定着しているのだと思いました。

 アーツ千代田3331にも行きましたが、メディア芸術祭の企画展が始まっていて、やはり人出が多かったです。

 これらは今日的な風景のように思われました。

 連休中たまたま武者小路実篤記念館調布市)に行ったのですが、実篤の本や「白樺」の装丁や挿絵の企画展をしていて、岸田劉生などが描いていて見応えあるものでした。館には「白樺」復刻版のバックナンバーがそろっていてみることができます。「白樺」には毎号図版の頁が一枚あって、セザンヌゴッホデューラー、ブレイクなどの絵が紹介されていました。白黒写真で精度もよくないですが、影響力あったと思われます。情報的には貧しくても没入できるものというか。そういうものは今日ではありえないのだろうかと思ったりもします。

 アーツ千代田3331で展示中の「ミルク倉庫+ココナッツ」の作品にはいくつかのオブジェみたいなものが出ていますが、それらを言葉としてみると示唆的でした。もともと用法があったものが、その用法が無用にされていて、たんにでたらめにされているのではなく、それでありながらそれでないものにされている、超用法的なもの。詩の言葉のようにも思えます。インスピレーションを感じさせるものをつくれるかどうかに詩的価値の生産がかかっている、そういうものがいくつもつくられて売られているということが見のがせないことだと思いました。

 ほかには、ホックニー展(西村画廊)をみにいって、過去のカタログをみて、絵をコンストラクション写真のように撮って空間リアリティを探究しているような作品からインパクトを受けたりしました。

 こうしてちょこちょこと書いていると、展覧会が終わってぼんやりしていますが、他の人がやってることをみて自分がやることについて整理できてきた気もします。

 

(原牧生)