3月メモ
藤井さんが、自分が書いているのは「現代詩」だと話していたのが印象的だった。短歌のように続いているかたちがあるものではなく、いつ書けなくなるか分からない、いつでも書けなくなりうるものとしての現代詩。それはそのつど発明しているようなものではないだろうか。短歌はうたといわれるが、(う/た)は、現代詩がうたでありうるか、ありうるとしたらどのようなうたなのか探っているような表記だと思う。あなんじゅぱすは、コロンブスの卵的に現代詩をうたっているように思えた。
マイク・ケリー展、ワタリウム美術館
現代のフォーク・ロアみたいというか、フォーク・ロア的なものがポップであるというような、物語の力があった。アメリカってこんな感じなのだろうか、と思わせるような。
個人の記憶・妄想・トラウマなどかもしれないが、素材はドキュメントだ。その経験は、学校や地域コミュニティでのイベント、いわば行事の儀式性みたいなもの、宗教的土壌がつよく感じられる共同体性の抑圧感であったりする。
橘上NO TEXT-本を読まない朗読会、ゲストカゲヤマ気象台、BUoY
アフタートークで素朴という言葉を強調していたが、彼のいう素朴とは何だろう。文脈やクオリティで認められるようなものではないということだろうか。練習をしない、というポリシー(?)とも関わる。演技しない(演技にならないようにしている)即興。
tnwh ライブ、おんがくのじかん
「俺は仕事が嫌い」という曲は、詞の書き方がよかったと思う。これこれの仕事何々の仕事という反復は、生活経験のディテールではなく、私の経験に依存していない、経験から自律した言葉の操作だ。形式感があるというか、仕事が嫌いという断定が、ほとんど理念的に感じられる。仕事が嫌いな俺とは誰でもあるのかもしれない、例えば聴いている人、そこにインパーソナルな可能性がある。
(原牧生)