ポリ画報通信

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7月(身体・言語・分裂)

Becoming in the City Performance Project

パブリックスペースと劇場を結ぶ、都市縦断型パフォーマンス

(渋谷ハチ公前、警察署前歩道橋、森下Sスタジオ)

振付・テキスト 山崎広太

コラボレーション・パフォーマー 穴山香菜、とだかほ、中林香波、松尾望、松本奈々子、熊谷知彦、ながやこうた

 

 渋谷の路上・パブリックスペース(ハチ公前と警察署前の大きな歩道橋上)でのパフォーマンスと、それをふまえて取り込んだ、スタジオの中でのパフォーマンス。

 路上では、パフォーマーはそれぞれ何か自分のタスクを設定してそれをしていたらしいが、それはスタジオに行くまで分からなかった。観客にとっては、不特定多数の人に見られうるパブリックスペースで、私的な行為をしている人たちを見ていたといえるだろう。私的ということは、他の人にはその行為(タスク)の意味が共有されていない、だから意味が分からないということだ。このプロジェクトについて考えると、パブリックアートという言葉を思い出す。パブリックアートとは、通常は、公共的な意味が共有されやすいもの、公共の意味を生じさせるものを指すかもしれない。ソーシャル・エンゲージド・アートのような。分かりやすい公共性を前提しているパブリックアートは、行政的なプロジェクトとも親和性がある。だが、そういうものより、こういう、公開的でありながら私的な意味に没入している行為が、パブリックアートというものを考えさせると思う。

 路上を通過していく人たちは、何か用事(遊びも含めて)があって動いているのだろう。路上にとどまってこのパフォーマンスを見ていると、そういう目的性や意味性から距離感をおいて街を見る感じになる。用のない人の視点、それはドロップアウト的な感覚だといいたい気もする。

 スタジオでのパフォーマンスは、ダンサーらしい体の動きにみちていた。が、演劇的と思えるような要素もあり、言葉の比重が大きい。例えば、話しているあいだ同時に、それとは別にジェスチャーをしている。話していることと必然的な関係はなさそうな手など身体の動き。発語と身体の関係が意識される。観客に話しかける人が同時に別の身振りをしていると、話しかける(かけられる)ことの直接性は違う感じになる。意味のこもり具合が違うということだろうか。身体を別々に動かすことで発語の流れは変わるかという試みでもあるようだった。

 他には例えば、路上でしていたことを言語化するようなところもある。路上とスタジオと、外と内あるいは開と閉の対比がある。パフォーマーの動きは、ある程度決めたうえでの即興らしい。台詞のようなものは山崎広太さんが書いたものらしい。それらの交錯は、比喩的にいえば、都市の意識の流れのようでもある。

 お話しのなかで山崎広太さんは、分裂とか分裂的ということをわりと口にする。分裂ということを考えてみると、例えば、思考が圧縮され速度感をともなう飛躍にみえる言葉のつかい方に、分裂性を感じたりする。抑圧に対して分裂がある、ということも考えられる。そういうところに、このプロジェクトの社会性あるいは政治性があるのだろう。

 

(原牧生)