ポリ画報通信

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1月(音声詩の上演)

工藤あかね&松平敬 Voice Duo vol.2 あいうえお (近江楽堂)

工藤あかね(ソプラノ)、松平敬(バリトン、物体)

 

 音声詩的なところのある作品が集められた興味深い企画。音声詩そのものというより、言葉が素材となっているものが多かった。

 一曲目『物体を伴ったオペラ』(アルヴィン・ルシエ)。鉛筆二本を軽くぶつけ合わせて音を出す。さらに、その一本を紙箱やびんや缶や皿などの物に当てて、もう一本で軽く叩く。物によって異なる響きの音が出る。音の高さも変わる。音の出方によって叩き方を変えながら、物の音を試していく。そういう音響詩だ。微音の即興演奏でもあったと思う。

 二曲目『セクエンツァⅢ』(ルチアーノ・ベリオ、詩:マルクス・クッター)。即興のボイスパフォーマンスにちょっと似た感じもあるがそうではなく、作曲の通りに詩の言葉を歌う作品だ。早口でいうとか、逆に語の音を延ばすとか、それらに節回しのような音の動きをかけ合わせるとか、そういう操作だったのかもしれない。言葉としては聞き取れなかった。それに笑いやあえぎのような身体的な音声も混じっている。歌唱技術が感じられた。

 五曲目『母韻』(高橋悠治、詩:藤井貞和)。「水牛」のサイトに譜面が出ている。それを見て何となく邦楽の譜面を連想した。語り物とか唄い物のような。いくつか椅子があって立ち歩きながらパフォーマンスするものだったが、そういう指示も書いてある。詩の言葉が母音に替えられているが、言葉が残っているところもある。音声詩のようでもあり唄い物のようでもあるところが面白いのだと思う。

 六曲目『ホウライシダⅠ』(ハヤ・チェルノヴィン)。これは多分言葉は使われてはおらず、声と息づかいだけの作品だったと思う。耳を澄まして聴いていた割にはよく思い出せない。

 八曲目『ザンゲジ・ザーウミ』(高橋悠治、詩:ヴェリミール・フレーブニコフ)。標題のようなものが六つあって、それぞれに、日本語訳された詩の言葉があり、ザーウミがある。ザーウミは、超意味の言語ということで、音声詩のようなものといえると思う。ザーウミは超意味のはずだが、詩の言葉と一緒にあると、その言葉の意味に影響されると思う。言葉とザーウミと、別の次元にあるものを、同じ次元で聴いてしまう。フレーブニコフの詩の宇宙が示されるためには、言葉の導きがある方がいいのだろうが。アカデミックな声楽の発声とは別の声で歌われたらどうだったろう。均質でない色々な声。音声詩的なものがヴォカリーズ的に歌われると、自分が求めているものとは違うという感じがする。

 松平さんは『シュトックハウゼンのすべて』という本を出している。読むと、シュトックハウゼンの作品に彼の人生上のことが反映されているものが意外とあって面白かった。彼は倍音発声の曲も作曲していた。興味深い。シュトックハウゼンにとっての音楽のあり方は、ユニークだが、生や宇宙の全体性のようなものを実現しようとしていると思える。ネット上にシュトックハウゼンの音源があったとして、それを端末で聴くだけでは満たされないものがあるようだ。

 

(原牧生)