ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

10月メモ

ユーラシアンオペラ東京2018 (座・高円寺

サーデット・テュルキョズ(vo.)、アーニャ・チャイコフスカヤ(vo.)、マリーヤ・コールニヴァ(vo.)、サインホ・ナムチラク(vo.)、三木聖香(歌)、坪井聡志(歌)、津田健太郎(歌)、吉松章(歌)、伊地知一子(歌)、亜弥(ダンス)、三浦宏予(ダンス)、八木美知依(箏)、大塚淳平(笙)、チェ・ジェチョル(韓国打楽器)、ヤン・グレムボツキー(ヴァイオリン)、小森慶子(クラリネット)、小沢あき(ギター)、河崎純(コントラバス

 

 音楽詩劇研究所(河崎純作曲・演出)の「ユーラシアンオペラプロジェクト」は、2016年から、アルメニア、ロシア、ブリヤート、トルコ、ウクライナ、で展開されてきた。その集大成であるような公演。トルコ、ウクライナ、ロシア、トゥバ、から四人のアーチストが参加して実現した「ユーラシアンオペラ」。その成り立ちは、実在の民族-音楽、現実の歴史、と架空の民族-音楽、想像の物語、との相互作用にある。登場人物に架空民族の役柄があり、全体として架空民族の物語という設定がある。はっきりしたストーリーというより、物語性のある場面のつらなり。情念的というかパトス的なものが強く感じられる。各場面のすばらしい歌・声・パフォーマンスは、舞台上では、現実のユーラシアのものではない。ユーラシアの夢のようなものなのだ。

 サインホ・ナムチラクの舞台美術は、夢のようなヴィジョンを可視化していたかもしれない。例えば、見た目は似てないが、アボリジニの絵画のように。墨絵のようにも見えるが、書(カリグラフィー?)として書かれてある。文字ではないけれど文字的な形象。彼女のボイスパフォーマンスが、言葉ではないけれど音声詩といえるように。視覚詩。

 いわゆるワールドミュージックのようなものではないものがもとめられている。ロマン的あるいはロマン主義的な感じがあるかもしれない。アイデンティティのふたしかさ。どこでもなくいつでもない想像と記憶の限界あるいは境界をこえようとする反復。モデルのないものを模倣しようとする即興。記憶にないものが想起されるように。

 

映画『あまねき旋律(しらべ)』 (ポレポレ東中野)

 

 本編の前に、予告編をいくつか見た。それらでは、高齢者、外国人、家族、被災地、ともに働きともに生きること、権力とメディア、等々が扱われる。現代社会の断面、いまのアクチュアリティだ。自分の生活との関係が近い。しかしこの映画の世界は、どう関係を取ればいいのか、歌声にひかれてみにいったものの、単純にはいかない。

 協働で行なう農作業のかけ声のようなものが、ポリフォニックな歌声になっている。機械化されてない山地の農作業はあまりにも重労働。それらをしている人たちの身体の丈夫さ体力がすごい。でも皆で歌いながらやっているからやれているのかもしれない。一方こちらは、そういう人たちを座ってみているだけだから…

 どのように棚田をつくるか、草を刈り、水を引き、掘り返してあぜを固める、そして苗を植え、それから収穫、脱穀、こういった農作業の様子が貴重に感じられる。自然環境と歴史条件の重なり、そこに、周縁的にあるいはすき間的に残っていたライフスタイル。この映画は、うたうということについて根底的に揺さぶられる。失われゆくものかもしれないが忘れられたくない。

 

(原牧生)

9月メモ

第11回JAZZ ARTせんがわ (調布市せんがわ劇場

 このイベントは今回で最後といわれている。詩、声の表現に関心をしぼって行ってみた。

 

9/15 「詩×音楽」

三角みづ紀(詩)、近藤達郎(ピアノなど)/巻上公一(詩)、ヴェルナー・プンティガム(トロンボーンなど)、有本羅人(トランペット)/白石かずこ(詩)、沖至(トランペット)、藤原清登(ベース)

 

 三角さんは何も持たずに立って、慎重に言葉を発している感じ。この詩は即興だろうか。途中で靴を脱いで立っている。外はしとしと雨で、そういう雨の午後に言葉のもの思いをしているムード。言葉の意味をたどろうとしてもはぐらかされるような、隣の席の人はねてしまっていたが、アンビエントな朗読。エコーみたいなエフェクトが必要だったのか疑問だったけど、アンビエント朗読というものの可能性を思った。

 

 巻上さんは声と身体表現の即興。例えば、抽象画がただのなぐり描きでなく抽象画と認められるためには、何か条件がある。それは客観的なものではない。かといって自分における確信だけでもないはず。

 声の即興詩はさらに困難だ。一口にボイスパフォーマンスといっても、音響である度合い、言語的分節に近い度合い、など違いがある。後者を使えば音声詩になるとも限らない。巻上さんの場合、それらを次々と組み替えるひらめきの回転力、スピード感、それらひとつひとつのユニークさの強度・完成度、などが感じられる。それは個人的な突破だ。他のやり方もありうるだろう。声の即興詩はマイナー芸術だ。

 

 白石かずこさんは、出てくるとまず英語であいさつしたのだが、この人がpoetryポエトリーというと、poetryポエトリーという言葉がリアルだ。長い紙に縦書きで詩を書いたのが巻物になっていて、それを広げながら朗読。呼びかけ、回想、台詞語りの挿入などが聞き取れる。高齢ということもあるが、浮世離れというか余計なことを気にせずに自分の詩をやっている感じ。でもそこにすごさがある。エゴイズムを超えた詩的自己感の強さ。JAZZ ARTというイベントにふさわしい、もはや歴史性のようなものを感じさせる、ポエトリーリーディング

 

9/16 坂本弘道ディレクション

ローレン・ニュートン(ボーカル)、ハイリ・ケンツィヒ(ベース)/山崎阿弥(声)、ヒグマ春夫(映像)、花柳輔礼乃(日本舞踊)、坂本弘道(チェロ)

 

 ローレン・ニュートンの声の使い方は割と音楽的に感じられた。だからボイスというよりボーカルなのだろう。音楽といってもいろいろあるけれど、西洋近代的音楽というようなもののなかにある。即興の基礎に声楽的トレーニングがある。

 山崎さんは声をより音響的に使っている感じ。発声のテクニックが予想以上だった。

 坂本弘道さんによる舞台設定がよかったようだ。舞台背面いっぱいに映像、舞台中央後ろ寄りに山崎さんが立ち、坂本さんは上手端の方で、日本舞踊が舞台上を動く。特に日本舞踊がここに出てくるのは不思議な感覚で、ミスマッチなのか普通にマッチしているのか分からなくなってくる。山崎さんの声は自律的・自立的なものだ。それが活かされる舞台設定だった。さいごに設定が変わってセッションになったが、そこではセッションなのに一人でやってるような感じにきこえてしまう。

 

9/15 巻上公一ディレクション

SAICOBAB[YOSHIMIO(ボーカル)、ヨシダダイキチシタール)、濱元智行(ガムラン/パーカッション)、秋田ゴールドマン(ベース)] ヒカシュー巻上公一(ボーカル/コルネット/テルミン/尺八)、三田超人(ギター)、坂出雅海(ベース)、清水一登(ピアノ/シンセサイザー/バスクラリネット佐藤正治(ドラムス)]

 

 SAICOBABは、初めて聴いたが、一曲目からインパクトがあった。特にボーカルの声の使い方。センスとパワー。音楽も気合だなと思った。基本的にフレーズの反復なので、やや単調にきこえるときもあった。

 

 ヒカシュー一騎当千という感じ。かつてテクノポップという言い方があったが、テクノポップらしさは、サウンドもそうかもしれないが、歌詞にあった、とヒカシューを聴いて思う。例えば普通のラブソングみたいな生活感レベルで共感されるようなものとは違う、モダニスム詩のセンスみたいなもの。さいごにSAICOBABのメンバーと一緒にやったが、巻上さんはセッションを仕切るとか共演のステージをつくるみたいなことも上手い。

 

 今月末は、「ユーラシアンオペラプロジェクト2018」の公演も行なわれているが、次に書ければと思う。

 

(原牧生)

8月メモ

涯の詩聲 詩人吉増剛造展 (松涛美術館

  吉増さんだけでなく、つながりある人たちの作品や資料も展示されている。亡くなっている人がほとんどだが、この場によばれている感じ。また、これまで出版された吉増さんの本を、手に取って読むことができる。落ち着けるところになっている。回顧展のような展示形式ともいえる。この美術館の建築が作用しているのが感じられる。生者のためだけの建築でないような。想起の実在性がつよい。

 スライドショーにもなっていた『長篇詩 ごろごろ』が示唆的だ。奄美・沖縄の旅のなかで書かれたという。日本語といわれているものの遠い記憶が呼び起こされるような。複線的・重層的な表記。何というか音文一致又は声文一致みたいな物質性。日本語の限界ということを考えてみたくなる。

 

頭山ゆう紀写真展『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』 (スタジオ35分)

  中島岳志さんの『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』(2018、筑摩書房)は、過去の人物を扱っているけれど、超国家主義(的なもの)は過去のものではないという動機で書かれた。かつての現場だったところへ行って撮られた写真は、現在が写されているが、見えない過去が写されているようにも思えてくる。作品の写真から四点選ばれて小さな丸いシールにされている。『華厳ノ滝』『ダンスホール新世紀』『大磯の海辺』『青山霊園の一角に佇立する頭山満の墓石』。いずれも人はいない。ダンスホールの写真は内部空間で、光の幻のようだ。滝や海辺は自然の風景で、人間的な歴史と関係なくあるようにもみえる。頭山満は頭山さんのご先祖。この世界この現実を否定あるいは救済する、自然や霊性のようなもの、それらは意識や観念の内部的なものとして敗北し続けてきたが、それでも終わっていない、ということだろうか。

 

内藤礼 明るい地上には あなたの姿が見える (水戸芸術館現代美術ギャラリー)

  感じられるのは繊細な意識で、それはまた、純粋志向というか完全主義的でもあるようだ。会場内全て作品。キャプションもないし、椅子・ベンチ・台座のようにみえるものも作品としてつくられている。小さな窓は、このために壁に穴を開けたのだろうか。自然光だけなのでライトもない。それができる美術館建築をいかしている。全体として、空間にしるしだけがあるような、希薄さとか微かさの演出になっている。現像(develop)されているもののような、潜在的なもののための空間なのかもしれない。特に奥の展示室は、光が静かに行き渡っている感じがした。傾けて並べられたキャンバスが開かれた本のようにみえる。

 

(原牧生)

7月メモ

ゴードン・マッタ=クラーク展(東京国立近代美術館

 この人の仕事を美術館の中で紹介するというのは矛盾したことなのかもしれない。いわば美術館に穴を開けるような、現実の空間秩序と別の空間を経験させることをしていたのだから。

 作品というだけでなく行為じたいをアートとするような、アクションとかイベントとかいわれていたものに近い感じがした。

 ごみのようなもの、役に立たない空間、そういう、お金がかかる経済システムや制度的な管理の周縁にあるものを扱っている。

 食堂の経営のように有用なことは、この人個人のアートの仕事とはちょっと違うのではないか。本展の説明では、“豊かな生活やコミュニティの創出に貢献する方法を模索”とあるけれどそうだろうか。このいい方は誘導的なのでは。

 

メルド彫刻の先の先(Maki Fine Arts)

 本展は、白川昌生さんが1983年に企画した「日本のダダ-日本の前衛1920-1970」展から35年たったことを契機に企画された。メルド彫刻あるいはメルドアートは、白川さんがシュビッタースのメルツにならって提唱したもの。メルドは、素材と方法がDIY的なものらしいがそれだけでははっきりしない。本展は、白川さんからみてメルドっぽいことをしている又はしてくれそうな作家を集めたのだろう(豊嶋康子、冨井大裕、橋本聡、麻生晋佑)。

 会場には「日本のダダ-日本の前衛1920-1970」展の資料があり、白川さんの文章を読むと、マヴォ、具体、60年代の前衛などが、政治・社会との関係から歴史的に考えられている。それが本展企画の文脈とすると、本展は、日本のダダや前衛という過去の出来事のようなものたち(にあった可能性)につなげられている。今日の前衛的なもの(前衛性のようなもの)を可視化しようとしたといえるのかもしれない。

 

O,1、2人「おれのPC(パーソナル・コレクトネス/ポリティカル・コンピューター)」(TAILON GALLERY)

 演劇・コントのかたちで、「おれのPC」というテーマを、主張的でなく暗号的というか暗黙に扱っている。はじめにカフェの場面で、注文をダイレクトに言わず(言えず)、言い換えている。言おうとすると言えなくなってしまう、「おれのPC」とはそういうものなのだろう。無意識的なもので、それを表現しようとすると、夢の作業のように変換され、ずらされる。例えば、ムーンウォーク地球の歩き方→実は木星にいる、という連鎖のコントがあった。多分、「おれのPC」と関係あるのはマイケル・ジャクソンなのだ。しかし、それはそれとしては扱われず、ずらされていく。というような見方ができるのではないかと思った。

 また例えば、女、男、という語を使ったコントは、コントとしていってることと同時に別のことをいっている、というふうにできたらもっとよかったのでは。ファッションショーをひねった「パソ・コレ」は、性別とPCに関わることをうまく扱えてた気がした。それから、~狩りといって、言葉がいわば分裂的変奏をして、演劇的演出もエスカレートしていくのも面白かった。

 

(原牧生)

6月メモ

テニスコートのコント「浮遊牛」(ユーロライブ)

 

 いくつかのコントで構成されている。個人的によかったのは例えば次のようなもの。

① 三人いて、それぞれ一人で過ごしている。うち一人が、ふとひとり言をいう。他の二人が、その言葉につっこみを入れる。

② ①と同じ人が、またひとり言をいう。①よりわざとらしいので、他の二人は関わろうとしない。①の人は声を大きくしたりして無理やり関わらせる。

③ ①と別の人がひとり言をいう。それはわざとだが、思いがけないひとり言らしさを出すのは難しいというような話になる。

④ ひとり言をいってつっこませるのが一種のゲームになっている。つっこみも、それがどうできているかという方にメタ化している。

⑤ 三人それぞれひとり言をいおうとしてぶつかる。いう人の決め方など調整を試みてもうまくいかない。

⑥ 三人それぞれ他の人に関わらずひとり言をいい始め、いい続けている。暗転。

 場面や人物(役)など舞台設定がほとんどなく、言葉じたいに引っかかる面白さが抽出されているように感じられた。またあるいは、SNS的コミュニケーションを連想させなくもない。

 

「絵と、」展vol.2藤城嘘(gallery αM)

 

 PCの画像では分からなかったが、実物をみると力というか勢いのある絵に感じられた。ギャラリーの本棚に作家が選んだ本があり、どういう文脈で制作しているかが分かる。そのいわば戦略性は筋が通っているように思えた。もしかしてこういうのが(日本の)現代アートのど真中なのだろうか?…という気も少しした。

 日本語の文字を描き込んで絵にできているのが、やり方の参照はあるにしても、特長だと思えたし参考になった。「ポストモダニスム」を平がなで描いたものなど、コンセプチュアル・アートというわけでもない絵として、海外の作品ではありそうだけど日本語でやるのは難しそうなことがなされていたと思った。

 

白井晟一の「原爆堂」展(Gallery5610)

 

 「原爆堂」の建設実現を目指すプロジェクトが模索されているということで、本展は、白井晟一の仕事をアクチュアルに活かそうとする動きのなかにある。7月には晶文社から『白井晟一の原爆堂 四つの対話』という本が出されるそうだ。

 原爆堂についての白井晟一の文章があり、造型のピュリティ(英文ではformal purity)という言葉がつよく心にのこる。この建築は、広い意味での宗教と芸術が本質で一体であろうとする施設、という感じだ。超越的というか人間レベルとは別の次元(の経験)を、物質的に実現させようとする。造型のピュリティformal purityは、そういう(建築の)理念であるように思える。

 

(原牧生)

5月メモ

ハロー・ワールド 展 (水戸芸術館

説明的に思える作品が多い。

あるいは、どういう作品か説明がついてしまうような作品。

(本展の)アーティストは分かっている立場だ。

そうでなくてもよいはず。徴候的なもの、それじたいが徴候であるような事物や事象、発見的価値はそれら(又はそれらを見出すこと)にある。

(本展の)作品から情報社会という物語を除けば人間的欲望に変わりない。

昆虫(的)というのはポスト・ヒューマン的かもしれない。

 

上映会「イヨマンテ-熊おくり」 (路地と人)

アイヌは、日本国内のマイノリティというより、ユーラシアのひろがりでとらえられる存在だ。

(かつての)狩猟民の暮らし、文化、共同体のこころ。

いまある国境や国家の歴史と別の世界が潜在する。

 

ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん’18 (あうるすぽっと)

神村さんの振付に、十数人の出演者全員が舞台前際に一列横並びで、舌で口蓋を弾き(?)、ランダムにあちこちで舌の音が響く、というのがあった。自分の体での一人遊びみたいなことが集団の表現になっている。ユニークでユーモラス。

福留さんは、出演者が自己振付したものを構成・演出した。その人が選んだ言葉(動詞)が元にある。言葉から体の動きへ、それは言葉のイメージというものだろうか(違うような気がする)。言葉の意味から連想を連鎖。意味伝達の(媒体の)抵抗。

 

(原牧生)

4月メモ

ルドン展(三菱一号館美術館

 幻視というのは自分の中の想像や夢想が自分の外に見えるということだろうか。幻覚はおそらくもっと受動的で、視覚的空想力のはたらきの度合いの違いがあるのだろう。壁画に描かれたひな菊など見ていると、サイケデリックという言葉も連想される。そもそもサイケデリックのグラフィックは、(19C)世紀末芸術を参照して影響を受けていた。何となくサイケデリックの方が、受動的であるような気もする。それは大衆化と関係あるのだろうか。

 ゴヤへの尊敬や共感。ゴヤは病気で耳が聞こえなくなったが、そのため内的集中力が強まったのだろう。奇想という言い方もあるが、それは想像が勝手に?動いていくことなのかもしれない。画家の仕事をみていると、描くことが見ることかと思えてくる。

 ルドンの作品は、タイトルが詩の断片みたいに感じられ、この人は視覚イメージだけでなく言語センスの人でもあったのだと思える。マラルメとの親交など知られている。象徴主義というとまさにファインアート、芸術のための芸術という感じもする。それが壁画とか家具とかタブローと別のかたちになっていると、視覚芸術であるだけではない総合性のようなことが実感される。トポスというような感じがする。

 

小林耕平個展(山本現代

 映像出演の山形さんが面白く(もちろん小林さんも面白いが)、二人のコントのようだった。もとが落語や小噺だからか。言葉と現実(もの)の対応が言葉の独走によってずれていき、言葉は言葉じしんの論理で動いていく。詩的論理ともいえるような言葉で対話が続く面白さ。しかし上手すぎるとスノッブに感じられるかもしれない。分かっている人の言葉でなく、共同で探究するような、セッションであるのがよいのだと思う。ものと言葉のセッション。もの(現実)から言葉はずれていくが、その言葉はナンセンスではない。比喩のリアリティというようなことも考えさせる。

 

梅津庸一キューレーション展(URANO)

 「共同体について」。個々の作品が、というより出展作家たちの文脈、それを集めている。例えばパープルームにしても既存の美術大学や教育制度から自らを区別することによって成立した面があったはず。例えばそういった排除の力関係みたいな共同体の条件が、この展示にあるだろうか。

 

wwfesそかいはしゃくち(BUoY)

 4日間の会期の最終日、「ライブ」「クロージング・パーティー」に行った。このフェス(のテーマ)は、「共同体について」という問題設定をさらに更新したものといえそうだ。そこにずっといたらそう思えてきた。パフォーマンスの内容的には、言葉の比重が大きいのが印象的だった。それが、ラップとかブレイクダンスとかヒップホップ的なものともつながっている。ヒップホップは主張が強い文化だ。アメリカ的な、対決によって自己を確認していく共同体形成力がある。即興力が魅力だが、案外様式的にもなりかねない。

 ところで、梅津さんがキューレーションした展示には、ヒップホップ的な強さ(の原理)とは異なる価値観というか、テイストがあったと思う。そこに、「共同体について」のビジョンがあるのかもしれない。

 

(原牧生)