ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

2月(タイトルされるもの/タイトルするもの)

岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ (豊田市美術館

 

 答えを出す、というのが四谷アートステュディウムのテーゼのようなものとしてあったと思う。本展は、岡﨑さんはこのように答えを出してきたということを見せている。答えの出し方は発明的だ。技法、素材、構造、形式等々の。例えばD.ジャッドは自分の作品を彫刻から区別していたが、そういうのも発明的な答え方だったと思う。

 会場に入るとまず、『あかさかみつけ』など初期のレリーフ作品がずらっと並んでいるのに驚いた。最初から答えを出していたのだろうか。レリーフというものの再発明。絵画のように繊細な色使い、壁面に取り付けられ正面性のようなものもある。立体物としては、コンストラクションといえるかもしれないが、発想は建築関係らしい。シンプルな形体で複雑な構造。一つ一つ見ていくと反復をあまり意識しない反復シリーズ。

 一階には1992年に制作された平面作品も展示されていたが貴重な出展だ。その後のペインティングの大きな開花を思えば、このとき大発明があったといえるだろう。偶然のしみのように見える形を型のように扱う技術が発明されたのだと思う。新しい展開。それまでは、服の型紙を手がかりに、形の素のパタンを重ねたりして空間を作る、というような方向だったと思う。三階に、1979年制作の、型紙に基く作品が展示されている。展覧会の文脈にとって意味があるからこそ出展されたのだと思う。本展では90-91年制作の立体作品まで、この原理が見られると思う。それから、一階の一室でプレゼンされていたように、ブルネレスキやマサッチオの発明を今日に蘇らせる再発明が展開する。また、この90-91年の作品には、長い文のタイトルが付けられている。タイトルを、それ自体言語作品といえるほど構造化するという発明も、この頃なされていたのだと思える。

 二階に展示されたセラミック作品も発明的だと思う。どうすればこうなるのかと思ってしまう。いつも絵具を自作しているから粘土に顔料を混ぜ込んで色を出すという発想が湧くのだろうか。異種の技術を越境的に使う。裁縫の技術を使って美術を作るとか。それにはその技術の本質へのセンスが必要と思える。タイルを使うというのもそうだと思う。

 一階に展示されていたドローイングは文人画という言葉を連想させる。だがこれらは、共同開発の発明によって制作されている。その発明とは一種のロボット、というと人間に代わって絵を描く主体のように思われるかもしれないがそうではなく、任意の人にその絵を描かせる装置、だと思う。ひとりでに手が動くみたいな、憑依の感覚を起こさせる、というのが研究課題だったのではないだろうか。作品を作るのは作家の主体というより何か憑依するようなものなのだろう。

 一階のドローイングは反復的で三階のポンチ絵は想起的だろうか。ポンチ絵は支持体の紙が破かれてめくれていたり重ねられていたりレリーフ的でもある。イメージの現前性が障害されるような感じ。

 ポンチ絵の近くにあるタイル作品は水平面で流動感があり、うち一点は2011年の制作でタイトルをみても洪水を思わせるものだ。本展の作品はいずれも自律性が高いが、これだけは震災との関係を感じる。

 言葉にも(にこそ)カイソウがある。タイトルと作品の写像的関係。タイトルの言葉(テキスト)の構造と作品構造の同型性。構造(言葉と言葉の関係)だけでない。言葉の意味にも意味がある。そういう作品のあり方は、やはり発明的だ。詩画一体のような自律性。高度な言葉の技術、マニエリスム的とでもいえそうな。タイトルは、一般的には、それが何なのかの表明、あるいは、名・名付けになる。そのことは社会的・政治的でありうる。こういうタイトルのあり方は、答えもしくは答え方の発明だと思う。

 三階に、「マルチアクティビティ」という括りのコーナーがあったが、岡﨑さんの仕事をトータルでみれば、マルチアクティビティこそが本領だといえるだろう。灰塚とか四谷とか、そのほか様々なプロジェクトへの関わり、執筆批評活動etc. 近年多分今後は、先月公開研究会がひらかれた「かがく宇かん」が重要なのだろうと思う。

 

(原牧生)

1月(音声詩の上演)

工藤あかね&松平敬 Voice Duo vol.2 あいうえお (近江楽堂)

工藤あかね(ソプラノ)、松平敬(バリトン、物体)

 

 音声詩的なところのある作品が集められた興味深い企画。音声詩そのものというより、言葉が素材となっているものが多かった。

 一曲目『物体を伴ったオペラ』(アルヴィン・ルシエ)。鉛筆二本を軽くぶつけ合わせて音を出す。さらに、その一本を紙箱やびんや缶や皿などの物に当てて、もう一本で軽く叩く。物によって異なる響きの音が出る。音の高さも変わる。音の出方によって叩き方を変えながら、物の音を試していく。そういう音響詩だ。微音の即興演奏でもあったと思う。

 二曲目『セクエンツァⅢ』(ルチアーノ・ベリオ、詩:マルクス・クッター)。即興のボイスパフォーマンスにちょっと似た感じもあるがそうではなく、作曲の通りに詩の言葉を歌う作品だ。早口でいうとか、逆に語の音を延ばすとか、それらに節回しのような音の動きをかけ合わせるとか、そういう操作だったのかもしれない。言葉としては聞き取れなかった。それに笑いやあえぎのような身体的な音声も混じっている。歌唱技術が感じられた。

 五曲目『母韻』(高橋悠治、詩:藤井貞和)。「水牛」のサイトに譜面が出ている。それを見て何となく邦楽の譜面を連想した。語り物とか唄い物のような。いくつか椅子があって立ち歩きながらパフォーマンスするものだったが、そういう指示も書いてある。詩の言葉が母音に替えられているが、言葉が残っているところもある。音声詩のようでもあり唄い物のようでもあるところが面白いのだと思う。

 六曲目『ホウライシダⅠ』(ハヤ・チェルノヴィン)。これは多分言葉は使われてはおらず、声と息づかいだけの作品だったと思う。耳を澄まして聴いていた割にはよく思い出せない。

 八曲目『ザンゲジ・ザーウミ』(高橋悠治、詩:ヴェリミール・フレーブニコフ)。標題のようなものが六つあって、それぞれに、日本語訳された詩の言葉があり、ザーウミがある。ザーウミは、超意味の言語ということで、音声詩のようなものといえると思う。ザーウミは超意味のはずだが、詩の言葉と一緒にあると、その言葉の意味に影響されると思う。言葉とザーウミと、別の次元にあるものを、同じ次元で聴いてしまう。フレーブニコフの詩の宇宙が示されるためには、言葉の導きがある方がいいのだろうが。アカデミックな声楽の発声とは別の声で歌われたらどうだったろう。均質でない色々な声。音声詩的なものがヴォカリーズ的に歌われると、自分が求めているものとは違うという感じがする。

 松平さんは『シュトックハウゼンのすべて』という本を出している。読むと、シュトックハウゼンの作品に彼の人生上のことが反映されているものが意外とあって面白かった。彼は倍音発声の曲も作曲していた。興味深い。シュトックハウゼンにとっての音楽のあり方は、ユニークだが、生や宇宙の全体性のようなものを実現しようとしていると思える。ネット上にシュトックハウゼンの音源があったとして、それを端末で聴くだけでは満たされないものがあるようだ。

 

(原牧生)

12月(詩の機会)

Fushigi  N°5 の大追跡  ( Café&Bar Kichi )

橘上、永澤康太

 

 詩を読むことは詩を経験することになるが、必ずしもそうなるとは限らない。詩を経験するとは、詩の機会に恵まれるというようなことなのだろう。

 今回このユニットは二人で、何をやるかを決めたうえでの即興のセッションだった。前半はそれが五つ。①「つまらない話」を交互にして突っ込みを入れ合う。②架空の答えの(ナンセンスのような)クイズ、その答えを当てようとするやりとり。③自由について交互に話す。まわりくどい喩え話のようであったりする。④しみる話、名言のように語られる話を交互にする。ひねられている。⑤推理バトル。相手を犯人に仕立て上げあう。後半は、壁に貼った大きな紙に、詩を一行ずつ二人で話しながら書いていく。これも即興だが書き直しはできる。

 演劇的といえるパフォーマンス。レトリックのようなロジックのような言葉の飛躍・推進力がスリリングだ。コントのように面白いともいえるが、言葉で真剣に遊ぶとでもいうようなことに詩を感じる。

 

ながさわ合唱団×カゲヤマ気象台『これからのことばたちへ』 ( Art Studio Dungeon )

カゲヤマ気象台(guest)、ながさわ合唱団(山田亮太、関口文子、カニエ・ナハ、永澤康太)

 

 詩を歌にしていく過程も、映像(カゲヤマ気象台)と実演でみることができた。楽譜に書くことはなく、一人がこう歌いたいというのを口ずさんで、他のメンバーは真似して斉唱にしていく。初めにメロディの完成形があるとは限らず、皆で確かめながら共同で作っているような面もある。主催の永澤さんだけでなくコアメンバーも継続しているので、まとまりがよくなっているのだと思う。また、会場は天井が低いコンクリ壁の地下室のようなところで、響きもよかったかもしれない。

 永澤さんの詩は少年期が黄金期という気持ちを感じるところもあり、以前は、歌としての詩に童謡的な感じもあったと思う。中原中也的ともいえたのかもしれないが。今では、ラップというスタイルに、私が思っていた以上に意識的で実践されているようだった。より多くの人への訴求力、言葉の活力など思うと、いわゆる現代詩はラップのカルチャーを無視できない。ラップと合唱という組み合わせはユニークだと思う。

 

坂田一男 捲土重来 (東京ステーションギャラリー

 

 絵画形式の内部で絵画形式の制約を超える。優れた絵画というのはそういうものかもしれないが。第二次大戦後のいわゆる現代美術以前の絵画に、現代美術とはこういうもの(だったはず)と思わされる。思考操作の写像というようなたくさんのデッサン類。それを一つの絵にする。思考操作とは、まずキュビスム(分析)とコンポジション(構成)だったと思うが、そこから進んで多次元的な絵画空間が探究されていたと思う。

 

詩の朗読会 年の瀬編  ( TABULAE )

  

 佐々木智子さん企画の「詩の朗読会」に参加した。参加者それぞれ自分が読みたい詩を持ち寄って順に読む。朗読会というと詩の書き手が自作を読むことが多いかもしれないが、ここでは他の人が書いたものから選んだものを読んだ。自分で書く人もいたかもしれないが、読み手の立場で好きな詩を朗読する集まりといえると思う。自分からは読まないような詩に出会うこともできるし、ちょっと感想を話し合ったりするのを聞くと、他の人達は自分よりずっとよく聞いていると思ったりもする。

 橘さんや永澤さん達は、いわゆる詩の朗読とは別のやり方で、詩としての言葉のパフォーマンスを実践している。そういうやり方に私も共感する。でもこういうオーソドックスな朗読会でも成り立つ、ということに詩への心強さのようなものを感じた。

 

(原牧生)

11月(作品にしない倫理)

DECODE/出来事と記録 – ポスト工業化社会の美術 (埼玉県立近代美術館

 

 やろうとしたことがいろいろあって、詰め込まれた企画だ。

・作家関根伸夫の、もの派だけでない文脈を示す。

・実物が残っていない作品を、記録や資料によって展示する。

 そのために、写真、映像、あるいは再制作を展示する。作家の展示というだけでなく、

 研究プロジェクト(もの派アーカイヴ)の展示という面もある。

 また、写真については、写真が紙のような物であることを前景化した展示もある。

・もの派という文脈を捉え直す作品展示。もの派という文脈に対して、より大きなポスト工業化社会という文脈を提案する。

 関根伸夫が、個人の空想的ともいえる思考をノートに書きためていたのが印象的だった。「位相-大地」は、地面に穴を掘って地表の内側のものを外側に出していくと最終的には内側と外側が入れ替わる、内と外が裏返される、という思考実験に基づいていたそうだ。トポロジカルな操作だから、位相というタイトルだったのだ。もの派の文脈とはちょっと違うものが含まれていたと思える。そういうことを初めて知り、また、映像版で実際の大きさや穴と土塊の位置関係などもよく分かった。

 もの派といわれる作品の多くは、作品として残されなかった。だから記録や資料の展示になるのだが、そもそも作品として残っていないということ自体が、何か考えさせると思う。その頃は、作品として残そうとしていなかったといえるのではないか。そこに、今では忘れられた可能性があったかもしれない。作らない。作者性や、芸術に関わる制度的なものを問題化する。ひとりで考える手作りの思考。作品というより状況。ものによる行為のような。本展と直接関係はないが、そういう可能性は保存されてほしい気がする。

 

subjunctive mood lesson(仮定法のレッスン)vol.2 (三谷公園)

前後(神村恵+高嶋晋一)

 

 TERATOTERA祭り2019参加のパフォーマンス。ホワイトボードにいくつか書かれた言葉から観客が一つを選ぶ。それをやってみるというもの。今回は「存在」だった。他の言葉も観念をあらわすようなもので、本当は分かっていなくても割とよく使われる言葉だ。「存在」を選んだ人は、ある人が何かについて、意味なんかないただの存在だよ、と言ったのが印象に残っていて、「存在」を選んだそうだ。それにしても、現代美術のパロディのようになりかねない、扱いが難しい言葉だ。だが、それに正面から取り組んでいた。用意してきた物を置いたりいじったり。そして行為と並行して考えを話し合う。共同の探究。

 何かをやってみて、それを見直して、そこで見つけたり気付いたりする。その言語化にスリルがある。例えば、一人は単体で置き、もう一人は二つ重ねて置く。二つ重ねた方が存在が意識化されるかもしれない。しかし、単体といっても地面の上に人工物を置いている。それだけで十分意識化されるのではないか。というようなことを話し合ったり。地面に対して置く物が人工物か自然物(野菜など)かの違い、異質な物を間にはさんで浮かすという置き方、重ねた物の類似と相違に関する観察。などが話されたり。即興で進めていたと思うが、話を急に変えて、自分(という身体?)の存在を持ち出したことによって、パフォーマンスとして展開(転回?)した。ひらけていること、隠されていること、むき出しにすること、隠すこと、などに関わる対話があり、存在と存在感の違いが問題になったりした。パフォーマンスは知覚感覚を介在させるものなので、存在感と切り離して存在を扱うのは難しいような気もする。最後に、たわしとはけをすり合わせて、打ち消し合わせる、というパフォーマンスで存在が示された。道具として使われていてかつ使われていない、というようなことだろうか。答えを出す、というところまでいちおういったと思う。

 ホワイトボードには「問題」という語もあった。あらためて思えば、ホワイトボードの語はいずれも、いわばお題のような、問題だったといえる。問題としての語群の中に、「問題」というそれだけ他とは立場が違う語が混じっているのが面白い。もしこの語が選ばれたら、「問題」が問題になったら、観客に問題を選んでもらってそれをやるという、つまり問題の語をタスクのようにすることによって恣意性や無根拠性が回避されている、このパフォーマンスの設定自体に関わるパフォーマンスになるだろうか。

 

(原牧生)

10月(文脈を再編成する)

岸田劉生展 (東京ステーションギャラリー

 

 岸田劉生の絵は昔からスタンダードに見ることがあったが、以前の印象は何だか暗い感じで、どこがいいのかつかみかねていた。天才を理解できるのは天才だけだという意味のことをガートルード・スタインが書いていたが、そういうことなのだろう。年譜的なことを知り、時代的歴史的なことを思いながら、今見ると、38年の間に一人で何周も先を走って次々やっていたのかと思えてくる。デューラーや北方ルネサンスにしても東洋絵画にしても。伝統回帰というようなことではなく。

 今回の展示では、一連の油彩静物画に感銘をうけた。写実絵画の次元の高さを感じられる。宗教・信仰としてもとめることと芸術・創作としてもとめること、その関係を考えさせる。直接聖書にもとづいて描かれたもの、W.ブレイクを連想させるようなものもある。だが一方、絵が売れるようになってお金ができると道楽で遊んだりコレクションしたりしていたようで、そういう人間性も興味深く思えた。

 

東京計画2019 vol.4  scratch tonguetable (GALLERY αM )

ミルク倉庫+ココナッツ

 

 ギャラリーの中に鉄パイプでやぐらのようなものが組まれ、その上に仮設の調理場が設営されている。調理台、流し台、調理器具等々そろえてあり、上下水道の塩ビ管がギャラリーの床をはい、壁を突き抜けて外に通じている。まわりの壁面に様々な料理のレシピ、実際に作ったその料理が展示されている。

 本展は「東京計画2019」というシリーズの一つとしてキューレートされたもので、展示のレシピにはその問題意識に応答するようなアイデアやコンセプトが文章化されている。そこに作品性があるといえるかもしれない。しかしそれ以上に、料理を展示するためにギャラリー内に調理場を設営し会期中そこで料理をする、というやり方がいいと思う。

 料理の技術、工事の技術、それらの技術じたいはアーティストでなくても多くの人がもっている。だが、それらの技術をこのように使う、というのはアーティストの立場だ。「ミルク倉庫+ココナッツ」は、それらの技術を自分たちでもっていて、料理作りを、それを支えるインフラ作りからやってみせた。料理とか工事とかアートとは限らない技術を展示する、展示の技術はアートの技術であろう。みせる/みせない、のやり方など。期間中ギャラリーで料理(展示物作り)をしていても、それは作品の公開制作とは違うであろう。アートの枠にとらわれない、技術の再編成のようなことを考えることができた。

 

Strange Green Powder  (豊島区立目白庭園赤鳥庵)

神村恵(振付・演出、出演)、武本拓也(出演)、高木生(音楽)、ミルク倉庫+ココナッツ(美術)

 

 茶室は、障子・ふすま・ガラス戸に囲まれ、仕切られていて、それらを開けたてすることによって、場が開いたり閉じたり、空間が変わる。場所の使い方が効果的。途中から、パフォーマー相互の距離が大きくなり移動も増えて、それまで畳に座って見ていた観客たちも立ち上がってあちこち動くようになる。視点あるいは視線の不確定、というだけでなく、何か空間をトポロジカルに経験しようとするような感じがあって、そのへんがいちばんよかった。ダンスの即興とか音楽の即興とか前もって名付けられるようなものではなく、何といったらいいか分からないようなものが即興されることが、即興の面白さの可能性なのだろうと思える。登場時の三人の衣装も印象的で、かっこよくしないかっこよさのセンスのようなことを思った。

 

ガッシュケラント  (楽道庵)

山本謙、津田犬太郎、姫凛子、大隅健司、吉松章

 

 身体を使い、声を使い、言葉、衣服、その場にある物なども使っての、集団即興パフォーマンス。他の人に絡むことが場を展開させていく。絡みの距離感が近いことが多く、他人との安全を確保できる心理的あるいは身体的距離みたいなものを越えていく。存在の過剰さのようなものが感じられる。それがあれば即興は成り立つのだと思う。とはいえ、絡み方の即興、発想力や実行力、にはパフォーマーの経験知が感じられる。こういうレアなものをできる人の集まりを作れたというのがすごい。

 

即興音楽の入門と応用  (ART×JAZZ M’s)

工藤遥、仲山ひふみ、細田成嗣

 

 『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』(ジョン・コルベット工藤遥訳、カンパニー社)の刊行にちなんだトークイベント。即興について考える手がかりを期待して行ってみた。前半は本書の内容紹介やコメント、後半はそこから展開させた話。レジュメや話の感想だが、本書は、啓蒙的あるいは教育的とでもいえるかもしれない。能動的に聴くということが具体的に提案されていたと思う。文脈を知る、相互作用のあり方に注意する、途中で聴くのを止めることもできる… (こういう本の助けをかりたりして)自分で聴く。(自動的に感情移入されるような音楽とは異なり)自分で聴くことができるということは、聴く自由なのだと思う。

 コーネリアス・カーデューらの集団即興が取り上げられたのが印象的だった。そこから、文脈を再編成するというようなことについて考えさせられる。即興はもともと昔から普通にあったし今もあるものだと思う。だが一方、20世紀の芸術の前衛や実験という文脈において、即興はそれじたいに自律・自立した。そして、即興(音楽)は、人間が楽器を演奏することだけでなく、装置、インスタレーション、フィールド(レコーディング)といった領域へまたがっていく。すでに文脈は変わっているともいえる。即興(音楽)の今日的な政治化はありえるのだろうか。1960・70年代には可能性があったみたいだが。ありえるとしたら、多分まるで別のもののようにみえるのだろう。

 

(原牧生)

9月(現実に関わるとは)

坂本繁二郎展 (練馬区立美術館)

 

 一貫したことをやっている感じが心に残る。作家は1882年生まれ、1969年に亡くなっているが、戦争中でも戦後でも、やっていることにブレが感じられない。若い頃すでに洋画も日本画も何でも描ける技量があった。そのうえで、自分がやることについての確信のようなものをもち続けていた、としたらそれが才能というものだろうか。

 例えば、同郷の友人(本展に作品が展示された)青木繁の絵にみられる物語的テーマ性のようなものとは無縁だ。モデルというか実物実景を見てそれを描いていた。似たようなモチーフが繰り返し描かれている。それを見ていると、絵が、この現実に拮抗あるいは対抗する現実であると思えてくる。

 明るい感じの色彩で、絵によっては、ぼんやり見ていると色斑の集まりのようにも見えてくる。視覚的には全ては光かもしれない。けれども、感覚だけではない。彼はフランスに留学したが、すでに印象派・ポスト印象派を後から眺められる時代だった。そういうのも見ていたと思うが、独自の道を進んでいる。

 詩人の蒲原有明三木露風らと付き合いがあって、三木露風とは能を観に行ったりしていた。彼らの詩は象徴主義といわれたりする。画家と詩人の交友があったのだ。

 彼の絵の、例えば、水から上がってきた馬とか、象徴的なイメージといえなくもない。後から見れば象徴性があるように見える絵は、他にもあるかもしれない。でも、解釈されるような象徴性が問題ではない。感覚と超感覚(メタ感覚)の関係。例えば、じゃがいもの絵とか印象的(超印象的)だった。

 

グロトフスキ研究所 / 劇団テアトル・ザル 『アンヘリ-呻き-』 ( シアターX )

 

 シアターXはもともとポーランドと縁が深く、ポーランドの作家の作品、ポーランドの劇団・演劇人の公演をこれまでいくつもつくっている。今年は日本とポーランド国交樹立100年ということだ。

 一篇の詩をもとに作られた舞台作品。出演者は11人いる。演劇というよりダンスのような身体表現、歌(各地の古い聖歌のコーラス)、詩の朗読(朗詠というべきか)、シンプルなセット、から成る。

 舞台の上に、演技エリアと同じくらい大きな布が水平向きに張って(吊って)ある。それは動かせて下ろしたりできる。舞台上には人が横たわれる台のようなものがあったり、舞台面の高さの違いがつけてあったりする。また、人間より一回り大きい長方形の枠が立てて置いてある。それは何かの境界なのだろう。そこをくぐり抜けたり、それにぶら下がったり、あるいは倒して引きずったりもする。

 聖歌は、どこの地域かどういう宗教のものかなど分からないが、コーラスの声は別の次元を感じさせる。聖性というのだろうか。死の位相。人が死ぬことは魂がどこかへ行ってしまうことだという感覚あるいは想像と感覚が一緒になったようなもの。声は身体から発せられる身体的なもの、しかし一方声は身体にとって自分にとって外部的なものでもある。声が別の空間を実現させる。

 詩は、ポーランドの詩人ユリウシュ・スウォヴァツキ(1809-1849)の最後の詩篇『アンヘリ』。現実的な身体、潜在的な身体、というようなことを考えさせる。訳は上演前にもらえる。訳者名がなかった。

 

 ・・・

 そして見よ!立ち上がってくる

 死者から立ち上がってくる

 ・・・

 魂ある者たちを 立ち上がらせ給え!

 彼らを生かし給え!

 ・・・

 自分の似姿を見るときは 幸せである

 だが 生まれる前の自分の姿を目にしたとき

 現れず 消えもしないイメージに

 どれだけ耐えられるか?

 ・・・

 天上界のからだや この世のからだもある

 ・・・

 栄光のなかで ひとつの星は

 別の星とも異なるのである

 蘇るときも 同じである

 ・・・

 恐ろしい記憶が立ち上がった

 ・・・

 爬虫類がとぐろを巻いて 額を冷やす…

 

 そして 天使は昇っていく 息づく

 

(原牧生)

8月(文化とお金)

 

 8月11日から21日にかけて、トゥバへのツアーに参加した。トゥバ共和国ロシア連邦の中の共和国の一つで、大まかにいえばモンゴルの北側にある。このツアーは、音楽家巻上公一さんが行なっている。巻上さんは90年代からトゥバとの交流を続けている。そのため、トゥバのホーメイ関係などの人たちとのコネクションができているようで、それでツアーは成り立っている。

 今回のツアーの目的の一つは、首都クズル(別の表記もある)で開催される国際ホーメイフェスティバル(といってもトゥバで使われる言葉はトゥバ語かロシア語が主で英語ではない)。ホーメイは、トゥバの伝統的な唱法で、倍音の響きとテクニックが驚異的。もう一つは、伝統的なノマディックスタイルの円型のテント(組み立て式で本来は移動できる家屋)に宿泊するキャンプ体験。トゥバ文化センターでいただいたパンフレットをみると、トゥバにはそういう、多分外国人観光客を対象とした、ツーリズムがあるようだ。私たちが体験できたのは、そういう中でもおすすめのキャンプ(宿営地)だったようで、クズルから西方400kmくらい離れたところにある。

 フェスティバルは、パレード、開会式、コンテスト、コンサート、表彰式、閉会式など4日間にわたる。コンテストは、ホーメイを本格的にやっている人たちが多数参加し、レベルが高い競い合いだ。トゥバの他、中国やモンゴルからの参加者も目に付く。ロシア、アメリカ、ヨーロッパなどからもきている。多分外国人向けに、コンテスト以外の文化プログラムもオプションで体験できる参加プランがあって、私たちはそれに申し込んでいた。これは、巻上さんのあっせんと、お金を払えば参加できるということで、参加できたわけだ。今回のツアーでは、文化とお金(商売、資本主義的なもの)についていろいろ考えさせられた。

 トゥバについては、いくつかの本やネットの記述は読めたが、分からないことだらけだ。例えば、どういう経済なのか、どういう産業でお金を回しているのかなど。畜産業や鉱業が主なのだろうか。アスベストの鉱工業がある話はきけた。そういえば畑はほとんど見なかった(気付かなかった)気がする。買い物をすると、表示価格のみの支払いだったが、消費税みたいなものはどうなのだろう。日本車にも人気があるらしいが、見かける車は中古車のようなのが多い。へこんだり傷んでもそのままというのもみられる。高いビルはあまりなく、首都から離れた町は平屋の家屋が広がっている。家屋は、多分木造でしっくいを塗ったようなつくりかもしれないと想像される。窓の周りの彩色など独特な色彩感があり(車で移動中運転手さんのお宅で休ませてもらえる機会があったが壁紙の色柄など内装も印象的だった、色使いはテントの内装のセンスと通ずるものがあったと思う)、町の景観はとても味わい深い、というか文化的だ。ここにはこういう生活文化があるという感じがする。そして、比喩的にいえば、枠あるいは直線軸としてあらかじめある時間と、それとちょっと違い未来を先取りしない現在のような時間と、異なる時間の様相を同時に生きているような感じもある。

 そういうトゥバに日本からきて、トゥバ語もロシア語もできなくて人に頼りながら、ホーメイどしろうとにも関わらずフェスティバルに参加することにしてしまって、自分は何をしているのだろうと思わざるをえない。日本人はお金を出すお客さんだと受け取られていたのではないだろうか。卑屈な考えかもしれないが。普段あまりお金をつかわない生活なのでギャップがあった。だが、とはいえ、このツアーは手作り的なので、市場原理とそれだけではないものとが混ざっている。トゥバの大陸的自然、異文化の伝統、市場経済的には周縁的な体験など、お金をかけなければ出会えない。それでも、そこでの出会いにはお金にかえられないものがある。そういう割り切れなさによって、今どきの文化は保たれているのかもしれない、とも思う。

 今回は、成田からまずロシアの都市ノボシビルスクへ行き、そこで一泊してトゥバの首都クズルへ行った。ロシアからトゥバへくると、トゥバの人たちは、顔つきとか外見が、日本人と似た感じというか近しい感じがあり、風景は外国なのに子どもの頃の光景を連想させるような、あえていえば、幼児期に田舎の親せきのところに行った虚偽記憶の感じみたいな、不思議な感じもあった。

 キャンプ地は人里離れたところで、広々として、きれいな小川が流れている。牛の群れが放牧されていて、牛たちは地面に生えている草を食べながら、時間帯によって移動していたようだ。朝方には私たちのテントのすぐ近くにいたりする。足かけ4日間のキャンプの間に、伝統的なやり方の羊の屠り・解体を見学し羊料理を食べさせてもらったり、別のテントでしている乳製品作りを見学・試食したり、ホーメイのうまい人(このキャンプの運営者でもある)からホーメイのレッスンを受けたりした。それぞれ料金が設定されたコースだともいえるが、それでも、いってみれば、(民族的な)芸能を学ぶために(その人たちの)ライフスタイルから学ぶ、ということに近いことを体験できたのではないかと思える。夜は寒いので、テントの中のストーブというか炉というか鉄製の箱型のものの中でたきぎを燃やし続けていた。(フェスティバルのプログラムでも牧場見学があり、乗馬体験などもできた。)

 フェスの期間中には、シャーマン訪問と仏教寺院見学というのもあった。トゥバの仏教はラマ教チベット仏教)だ。チベットの声明は倍音の響きでも知られているので、もしかしたらホーメイと関係あるのではと思ったこともあったが、やはりそういう関係はないようだ。(それはそれとして、トゥバの仏教は民衆的に感じられた。日本のお寺には墓地があり、家々の墓は、日本人にとっては一種の拘束力のようなものをもっていると思う。トゥバのお寺には墓地がなく、日本のお寺とはやっていることがちょっと違うような感じだ。墓地は別のところにあり、棺に入れて土葬だが、日本にあるような祖霊信仰はうすいらしい。それが遊牧的なのかもしれないという気もした。)

 ホーメイのレッスン中に、牛の鳴き声を真似るというのがあったが、むしろそういうのを真に受けるべきであるようだ。後日思ったことだが、真似といわれていたことは、模写とか再現(リプリゼンテーション)ではなく、それになることだ、と考えてみたらどうだろう。牛になること、あるいはヤクとか熊とか。動物になることだけではない。風になり、川のせせらぎになり…というのが、何というか、ホーメイの無意識なのかもしれない。フェスの開会式に踊りの演目があり、踊り手たちは、鳥、トナカイ(?鹿?)、熊、になっていた。それらはハンティングのサクリファイスであるらしかった。トゥバでは、シャーマニズム的なものが、深いところにあるのかもしれない。

 限られた日数だが集中的に滞在できて、ホーメイはトゥバの伝統文化に根差したものであることがはっきり感じられた。日本で、倍音唱法のかたちはできていてもホーメイになっていない場合が少なくないのはもっともだ。トゥバの文化を尊重し、ホーメイの伝統に入る、あるいは入ろうとする、いわば、ホーメイの人になろうとしなければ、ホーメイ(の文化コミュニティのようなもの)では認められないのかもしれない。巻上さんは独特で、ホーメイだけでなく自分の何というか声だけでない全身的なボイスパフォーマンスも一緒になった人間性のようなもので、(トゥバで)独特な認められ方、立場、人気をえているようだ。日本の文化というのでもない。人はどんなものを面白いと感じるかの共通性のようなもの。あるいみ前衛的でユーモラス。それはそれとして、日本の中でホーメイをやることにはどういう可能性があるのだろう。日本人のトゥバの人になることか、文化折衷的というかフュージョン的な試みか、あるいは、倍音を抽象的に音響として扱うようなことだろうか。

 コンテストには、周りの人の助言や援助のおかげで、5分くらいのソロ・パフォーマンスをつくることができた。本番では肝心のホーメイが練習時よりうまくいかなくて残念だった。自作詩の朗読に声のパフォーマンスが付くかたちで、短く簡単な詩だが、急きょ通訳の方にトゥバ語訳をお願いし、カタカナ書きにしていただいてそれも読んだ。もとの日本語詩は、1行ひらがな6字が8行で、4行ずつ二つに分けた。読み方は、複数の意味の流れを意識するようにして、語が音に分解され気味な音響詩的ともいえるような発声。あるアメリカ人の方から、サウンドポエトリーのように聞こえた(らしい)という感想もいただけた。トゥバ語の発音はあやしいものだったが、パフォーマンスの後で、僧侶とか仏教と関係あるのかというような質問をしてくださった方もあった。

 旅行のリアリティは日常の中に埋もれていくが、詩の朗読と音響詩と声のパフォーマンスとが関係し合うなかから何かをつくるという方向性、トゥバのホーメイに潜在するもの、そういうことを考えながらやっていけたらと思う。

 

(原牧生)