9月(過去を見直す)
連続対談「私的占領、絵画の論理」第3回 (ART TRACE GALLERY)
永瀬恭一/辻可愛(パネリスト) 一人組立(永瀬恭一)×ART TRACE(共同企画)
企画の永瀬さんが、辻さんの作品紹介、彼による見どころの説明、ポイントに関することのインタビュー、をしていくもので、2013年の展示から順に作品を見ていった。通して見ていくと、何を描こうとしていたか、あるいは、何をやろうとしていたか、作家の考えが絵の描き方とか絵の雰囲気になっているように思える。
例えば、(目に見える対象として)対象化されないもの、されないことを描く、ということがある。
人物のポーズそのものというより仕草などの動きの前後を感じさせること。
物語としての時間の長さのない予兆のようなシーン。
事件・出来事を扱う場合、一つの物語に回収されないように描く、異なる複数の空間・異なる時間を描く(永瀬さんがとりわけ評価されていたところ)。
日常にあるちょっとした感覚(視覚だけでない)をいろいろ捉えること。
空気中のちりの見え方(光が当たると見える)とか虫の毛に触って何か感じられるかとか自分で捉えられない感覚。(抽象。)
辻さんの制作に関係するエッセイというか喩え話によるステートメント(出来事とその描写をテーマとしていたような文章)の朗読もあった。また、それがあったら出来事が起きたかもしれないが、なかったので出来事は起こらなかった、その、それがなかったことを描く、ことについて考えた、みたいな話など。
これまで壁画の取り組みがあったが、今も、大きいものを描きたいとのこと。
俳句の活動も取り上げられ、余白や(情報の)圧縮などは絵と共通しているそうだ。
他には、色使い、染み込ませるような描き方のことなどが話された。
辻さんの絵をまとめて振り返り見直すことができたし、永瀬さんがそれらの絵を独自に見出されたということは価値あることだったと思う。
あらわれているそれではない何かを感じさせるということは、(広い意味での)言語の問題を考えさせる。予感とか予兆とかが、物語未然のシーンのように描かれうるとしたら、思い出せない物語、忘却、記憶喪失、何かあった(はず)と思うのに思い出せない、といったことと言語の関係も考えられるだろう。(失語症はそういう関係の一つかもしれない。)暗示というほども示されない、余韻、余情、余白のようなもの。思い出せない夢、想起から逸れていく感じ、意識をかすめる動き、かろうじてわずかなイメージが意識できる記憶に残る。それは比喩という表現手段になるだろうか。
映画の襞をめくれば 第3集 第1回 (Art×Jazz M’s)
ぱくきょんみ(講師) 佐々木智子・中涼恵(企画)
ぱくさんの講座は、四谷アートステュディウムからつながるもので大事にしたい企画だと思う。今度の参加者はこれまでとは違う人が多かったと思う。
映画は、殺害事件を実行した元マンソン・ファミリーの三人の女性が、事件の後刑務所で教育係の女性と対話していく、いわばその後の彼女達と、それまでの彼女達、事件に至るまでのコミューンでの彼女達の経験(回想のようであったりなかったりする)を、交互に描いている。
映画を思い出して振り返ると、カーリーンという教育係の存在感も大きく、どうしてあそこまで深く関わった(関われた)のだろうとも思うし、彼女達との関わりにおいてマンソンと対比的に描かれていたようにも思えてくる。
ぱくさんや他の人達の話を聞いていると自分では見落としていた多くのことに気付くことができて、こういう会のよさを感じる。
マンソンは、ビーチボーイズのメンバーとの付き合いから、自分の音楽でビートルズのようになるという誇大妄想的な期待をもつようになる。それが現実(プロデューサー)に否定されて、反動的に自分の思い込みを強める。それからコミューンの人達を巻き込んで集団的な狂気とでもいえるような事態へ進んでいく。
排他的な思い込みを強め外部に憎しみを投影するようなことは一般的なことでもある。この映画は、対話によって、思い込みに生きている人に自分で考えさせようとするカーリーンの努力を描いていた。自分で考え始めると不安や虚無感のような苦しみが生じるし、考えさせる方も苦しめることに心が痛み悩む。救われなさを生きる尊厳のようなことを考えさせる映画だったと思う。
(原牧生)
8月(聴くことと夢みること)
ポスト・インプロヴィゼーションの地平 (Art×Jazz M’s)
久し振りにライブ演奏の場に行くことができた。出演者の津田さんも、演奏後の細田さんとの対談のさい、ライブやイベントが生活のめりはりになっているからライブをできないのが一番危機的、というようなことを言われていた。演奏はギターとディレイのようなエフェクターで音色音響じたいが扱われている。弓で弾いたり。ミニマルともいえる。ディレイを使うのは他者と共演するように自分の音と共演するため、というような話があり、音のモアレ効果みたいなことだけではなかったのが参考になった。
一方津田さんはフィールドレコーディングもメインの活動にされている。いわゆる音の風景みたいなものとは違うそうで、実存的という言葉を使っていた。何かサウンドスケープ的な音が実存的なこととして経験される、ということはあるだろうと思う。しかし考えてみるとその場合、そこにいるだけでなくそこでそれを録音する・録音しているわけだから、そういういわば再生産的な行為の実存性というのも考えられるべきかもしれない。
学生の頃はコンテンポラリーダンスとか身体表現に関心があったそうだ。ジャズの文脈とはそれほど関わりがないところから始まっている。環境/音響/即興というテーマのイベントもされている。津田さんの活動を知って、民族音楽もフィールドレコーディング的にとらえる可能性など考えることができて、ヒントになった気がする。
2020年
7月
2日 イベントが終わった後に居合わせる
3日 競馬当たったから少し出さなくちゃ
4日 ちゃんとした人の家に入れてもらう
4日 転がって転がすものはベアリング
5日 カラスの巣から父が卵集める
6日 やれない理由やって見せてやらない
8日 只でもらえたけど大変な未来
9日 私の家に行きたいと言われたら
11日 十円玉の中の五百円玉
12日 トマトだけ外で食べてる人がいる
13日 プラカップコーヒーもう持ちきれない
13日 大雨の後の大水バスの外
14日 遠い窓くもりガラスに父の影
14日 突然の力でいっちまったひと
15日 白球を向こうに投げて届かない
15日 母が残したスフィンクス開かれる
16日 将来は自衛官希望九歳
17日 弓がしなる音を聞いて矢を放て
18日 アイドルが実家で料理姉も歌手
20日 P.R.P.のプラカード持つ人
21日 いくすじの白髪にみえて染めた白
21日 われらの水鉄砲複合機械
22日 彼らは彼らのやり方で始めた
22日 いない人青紫の朝顔か
25日 つまようじパンにはさんでよくかんで
26日 言わなくていいことまでもごあいさつ
27日 あいさつもすれ違い本門寺墓地
28日 次は天体の話に深入りか
29日 ごとり琵琶が置かれる始めるために
30日 尋問する人や袋詰めの人
31日 しんとくは新しいからとくなのか
(原牧生)
7月(夢と物語)
Dreamboardというアプリがあるそうで、検索すると、Dreamboard,the safe and secure self-tracking dream journalという書き出しで紹介がある。Dreamboardというウェブサイトがあってそこにつながっている。日々の夢の話を、そのさいの気分や感情と一緒に記録していくと、解釈ではなく、何かデータ分析してくれる。夢は、ある種のセラピーやアートなどのかたちで扱われるだけでなく、コンピュータで扱われるようになったということか。そういうアプリが他にもあるようだ。夢を書きためてもそのままになることは多いと思うので、データとして扱いやすいかたちになるのなら、これまでできなかったことができるようになったのかもしれない。
夢の読み方は、夢をどう読むかという枠組みにしたがっており、その枠組みは物語ともいえる。このアプリでも、目的や意義として提示されているが、ヘルスケアという物語とか、よりよいライフについての物語というような枠組みがあって、そういう物語として夢が読まれ語られるのではないかと思う。夢は、夢をみていることと夢がみえていることの関係、自己と非自己の関係など、単純には扱い難いが、こういうアプリはある程度単純化されているのではないかとも思う。それでも、こういうアプリがどう発達していくかは分からない。
2020年
6月
1日 トイレに置くべき本ですねと話す
3日 丸いものに線を刺して組み立てる
4日 頁めくるように手が服をめくる
5日 字を間違いかけてインク出ず書けず
6日 リーディングカバー二重の本として
7日 おぞましさに屈服発狂漫画
7日 使い過ぎを楽しんだに言い換える
8日 路上葬儀かどこかからの人達
10日 瞳から意識下を撮る新兵器
11日 紙切れに手書きでもやはり原稿
14日 山かげから田んぼ通って来ました
15日 ラジオの声芝生をひざで感じる
15日 捨てられる漫画の山に手を付けよ
16日 知らないひとにとっては知らない人
17日 メモは誰かの言葉で期待知らず
18日 押される人に押し方リードされる
19日 しつこい束ね方外すの大変
20日 伝えるというより浮かび上がらせる
20日 余計なものが多過ぎますよと言う
21日 pee何とかって覗きかおしっこか
22日 それぞれの風呂に浸かって動きなし
23日 間違ってきてたの誰か開けちゃった
24日 再会ツアー先は寝過ごした後
24日 ゴキブリを紙でつまんで放り出す
25日 こんな書き方でいいのかと言われる
25日 生活記事みる生活したい人
26日 女の人の傘を玄関に置く
27日 頭からかぶってシャンプーシャンプー
29日 介護とかアメリカとかオレンジとか
30日 台詞を知らない演劇の練習
30日 生垣の陰に自分をかくまえる
30日 アパートでブレヒト君たちに会えた
(原牧生)
6月(夢生活)
睡眠中の脳の活動が夢としてあらわれる。内臓など諸器官は、人が眠っているときも覚めているときも、ひとりでに活動している。生きるという目的に適った活動をしている。脳の活動もそうだろう。そういう点では、毎日体温を測って値を書くようなことと、夢を思い出して書くことは連続している。
昨晩は、ビニルの浮き輪のようなものを頭からかぶって頭を洗う、横に別の人がいてその人の頭を洗う、という夢をみた。このことを思っていると、二日前にある人がシャンプーがもろに目に入ったという話をしていたのを思い出した。こんなことの記憶が夢になるのだろうか。でもそういう気がする。脳はひとりでに思い出したいことを連想的に思い出し、それだけでなく都合良く換えていたりするのだろう。そういえばシャンプーハットというものがあったと思う。そしてハットという語には、昨日思い当たることがある。だから何なのか説明しがたいが、自分のことなので自分ではそうかと思う。
夢を俳句にするときは、そういう経験レベルの意味のためでなく、言葉をつくるために言葉を工夫する。いかに長さの制約を活かすか、いかに夢の説明をしないですますかなどを考える。視覚的に印象的であったりいかにも変わっていたりすることを、いちいち描写しない言い方を考えることもある。そして大事なのは定型の音数で自由律的な韻律感を出すことだ。夢になる記憶には社会的なこと、例えばいわゆるコロナ対策の影響が出ているものもある。また、個人的に古い記憶の雰囲気、イメージと感情が一体化した記憶のようなものもある。夢の深さの違いといえるものがあると思う。
2020年
2月
2日 新聞の言葉のようで書き込みだ
3日 殻をかみ砕く一粒確かめる
5日 できそうに思えぬ企画どう言うの
あなたは誰でしたっけと声かかる
7日 出来事は隣に起こる音を聞く
10日 人が群衆になる時いつのまに
12日 虫たちが飛び回る春の密室
透明裸電球光わずか
13日 水洗から食べ物出て皆食べる
15日 教室無人小さな机と椅子
つながらない差し込むとこ違うから
17日 助成取れと言われたと女性が言う
三人の外れに座る誰か来る
18日 大ひらきの足運ばれひだが巻く
19日 口から正方形金属のかす
20日 古い記事その人のこの頃思う
21日 やわらかな重さパン生地のたうって
22日 来られては困ったけれどうれしさも
23日 開いた口から話すパンの袋
24日 見ても見られても眼差しは裏切る
25日 ゴーンという大通りがパリにある
27日 あふれ出すひじき炒め煮床はあお
28日 内向きにマイク通した耳ざわり
29日 細枝の幼虫動く葉は遠い
白い部屋裸足の足跡ひとすじ
3月
1日 地図、印、私たちの名前の場所
4日 のどを鳴らす練習またできるかな
5日 調べ物なんてしてこなかったから
高円寺おーい数式授賞式
6日 道をたずねたらまた間違えていた
残骸の車排泄の鉄くず
合宿終えた人たちの輪に入る
7日 ハムスターぎっしり動き回る顔
ハムって今もあるんですねと話す
8日 シールが多く字が少ないノート
9日 手作りの袋はらんだ猫が来る
10日 画像と物体持って人形劇
12日 独語する彼の声色変調す
13日 つたない手てきとうか音楽の中
15日 言われたように坂を上るとあった
16日 言われない隣の人に気付いたら
17日 中庭的近道裏から入る
18日 少しずつ違うお菓子の作り方
19日 愛想良く話す向こうでは検査
20日 一人二千円そんなものだろうか
21日 ぶら下がる電燈を引く仕掛けあり
22日 他人の間子どもに話しかける
23日 部屋に来て踊り出す人ありがとう
24日 東洋堂治療院子どものあと
25日 黒ヤモリ二匹が酒の中にいる
27日 ほめてもらい物の言葉かけられる
蒲田とカーテンの陰の女たち
28日 皆で逃げる木造階段上る
29日 流し台の中でしゃがんでいた人
2020年
4月
1日 参加しにきたところが流れている
銅版画をプレゼンする銅版画
2日 一仕事七万円の話聞く
3日 詩人の家大きい横から見ても
4日 チューリップ花びら模様見て描いた
5日 公園の山道歩く固い土
6日 科目迷う少年にじゃあ社会だ
パティ・スミス歌う弦ぎざぎざし
7日 寝過ごした失敗さらに欠勤か
8日 肌に寄せてくるものもう離れよう
9日 地下道行く隊列手に手に光
対戦待ちすべるローラーブレード
11日 音空間演出距離で録音
つかまえたって何ですかその通り
13日 取り調べ入る涙の里のこと
映画初日迎え行く女性達と
給茶機がお茶漬けの味海苔あられ
14日 胸起こして歩もう横見れば花
15日 池袋でカンディンスキーのカンで
16日 上った階段陰遡る部屋
17日 参加型企画見ていて眠くなる
18日 夜中寝ぼけながら腹筋運動
19日 風に飛ばされた本裸で拾う
20日 普通の点数隠す良い点数
21日 いつの間にか窓辺手伸ばして拾う
22日 撮ったのは自分なのか誰なのか
23日 ふさわしい人だったのかもしれない
足重く間に合わない路で雨も
24日 まだ顔も洗ってないと声がする
25日 近付いても応えは分からない向き
27日 こう見えてやることがある私達
28日 絵の奥から穴トンネル工事中
教会を見るそして追いはぎを見る
29日 面接で憲法きかれ落とされる
雨の中水鉄砲で水かける
30日 外国のホテルにいるように遠い
集まって弧の外側を向いたまま
5月
1日 締めても閉まらない古板戸いじる
再会の集まり重い荷は椅子に
2日 移り行く地図東京後の東京
進めたこと止められ話を伸ばす
3日 田を作るか畦を作るかみたいな
ホームラン打った人みんなにタッチ
4日 ローラーの間でボール転がらず
問いかけて答は軽い種明かし
5日 こたえずに自転車に乗りとんでるよ
ブルガリア女声合唱乱れたら
6日 出かけたはずが別のイエにとどまる
がらんとした外でちらほらあつまり
7日 徹子の部屋電話だけで話してる
8日 あやうい運転交代しない夜
9日 裸足だついて行きかけサンダルはく
11日 フェリーご案内切断の一揺れ
12日 叩きつける繰り返す無駄な怒り
他害自傷取り違えて語るとは
13日 合唱をつくるネット上の会社
雨の中桜の木まで何秒か
15日 ポップスワンダーウーマン不採用
16日 なだらかに緑広がる北海道
階段と部屋の間二重網戸
モデルハウスご飯食べだす父たち
18日 一人の部屋ふとひらけて父がいる
開かれた漫画なぜかまた立ち読み
19日 送り先そこでなければ別のとこ
20日 水面魚カワウソの絵を描いた
床に白い線遊びのための線
22日 水が増え川が激しく流れてる
24日 行きかける奴から話をきき出す
先っぽの形二人で描き直す
25日 二つもらえても一つでいいものは
26日 展示物に父が書き込む感想か
作品忘れてきちゃったという声
『銀の糸』本が一冊残された
28日 自分の歳を十年サバ読んでた
絵を描いた服がまだまだ広がるよ
29日 後ろに倒れながら前に駆け出せ
群馬の町に引っ越す話をした
30日 地面にぐるぐる動いた重ね描き
非難してさとされた人眠る4時
31日 コマ回し坂道下る回るコマ
電話からはみ出すOLメモ書き
(原牧生)
5月(夢の作業と俳句)
睡眠中の夢を起床後ざっと記述して、それから夢を俳句形式でいいあらわすという試みを続けている。夢の全体をいおうとするのでなく、夢を思い出して考えて発見できたこと、いいかえればその夢をどう発見したかということを書く。その夢から何を取り出すか、と同時にそれを言い当てる言葉・言い方をみつけられるかどうか。俳句は、オーソドックスな俳句らしさというのはあるが、短い中でいろいろなことができる形式でもあると思う。
2019年
10月
14日 欠けていたパノラマ塗り絵の男の子
微笑そのひとと名前が同じひと
棚からストリートいってみるものか
15日 便器にうずくまるひと分裂うむ
公園のトイレも掃除するところ
モップ突っ張る横でやらされてる子
17日 自転車リレー自転車おくところなし
19日 動いてる音を聞かせる女の子
本から滴る床を汚している
夜の彼方大川橋のマックで
22日 あとではなくあっとで繰り返し今
24日 読み合わせ返らぬまま帰る仕度
25日 寒イカのびん詰め明晩寒いか
昨日から下向き露出する切身
26日 船室そこは高校生ばかりで
27日 頭をなでうぬぼれさする手の平
28日 同じ人に見える人は同じ人
同じひとに見えないひとは変わった
11月
1日 かすらぬよう離れすべるように行く
2日 されてると意志がゆるむと医師がいう
3日 ひげそりできずつまんではさみで切る
転覆しても大笑いそして消失
すれ違ったところが後ろになって
4日 先取りした権利かき混ぜて曇り
5日 話したような聞こえているみたいな
知らない人とひもは輪に結ぶかな
6日 うつろな体をおおえる木の体
傘をさしてトイレで雨にぬれても
7日 白い器白い骨のプラモデル
知りたい人らに食わせ物を食べて
8日 棒になった浮浪児つま先立ちで
人々とお金持ちの家に入る
9日 亡くなった人が待つ部屋に訪れ
9日 年が分からぬ顔の話を母と
10日 見られたくない出来事はその始末
11日 洗い物するときなのに亀が出る
12日 その人の物がここにある手にする
13日 パイプライン的パイプ標本的
14日 このまま埋まる中でもう目玉焼
枝葉飾りのほこり払いここまで
15日 湯がさめぬうちお茶漬け出さなければ
16日 自作楽器で批判を歌うディラン
いなかったところがいたあとのかたち
けがれにふれることをずらしてほめる
17日 隠しきれずまた歯医者嫌でもない
18日 秋の赤は沈うつの色だそうだ
19日 伸び縮みねじれる糸の束楽器
20日 手が拾う人構文の切れ端に
21日 不在の部屋今ではないものがある
22日 夏の野を制するものは下を見よ
食べていれば何でもおいしいと父
絵とハングルの新聞を渡される
たすけるように動かされ横切って
23日 古本漫画の家が祖母の家に
24日 よし分別その他はその他でよし
25日 消えたトイレがカゴとして現れる
27日 ふるえすぎ立てない人は座らせる
28日 考えていうつもりで考えない
29日 車窓から見る青空かすれている
30日 食べ残り口から出したものお菓子
2019年
12月
2日 宙にずり上げてきて端のは重い
3日 角度が速度それがかわって国土
4日 ごみのようなもの捨てる前に食べる
5日 曲がるところ見つける夜の小道を
親きょうだい歌舞伎のような白塗り
6日 自動車で階段下り外に出る
本立ての本にやかんで湯を注ぐ
7日 人と話しても答は出ないソロ
8日 野菜を切ろうとしてクラスになって
黄色い蝶の群れが頭上を過ぎる
9日 表示してないパネルだけ光ってる
10日 資料をメモ次は米研ぐことから
カーテン引き過ぎ反対側が開く
11日 一行朗読せよ二択で提示
白い疑惑赤い疑惑いいかえて
13日 広がり生えるまつ毛の毛先を刈る
14日 どれでもいいといわれても取り返す
空間うがつ道具が見つけられる
15日 横線で直されたテーマは何に
17日 今行くところで別に行ってるけど
19日 メロンパンひっくり返して焼くとか
床下から公園で蟻がたかる
20日 焼魚いなくなる人いなくなり
みかどうなじを干物でなでる儀式
21日 時間前長い金属管を吹く
22日 世界地図帳乱丁で落丁で
24日 空のひつに布老人たち眠る
25日 やわらかい丸太の上は立てなくて
準備途中無人の会場をゆく
26日 ひとの名前を書いて字を確かめる
27日 ふすまはパーティションではない空間
28日 何もかもどろどろにおいしいおかゆ
30日 ガムテを縦に切って使いましょうか
背中に仏像の絵働く窓辺
31日 言うはずのことを忘れる空に黒
年末に誰かが捨てた木箱たち
風もないのにたこ揚げ狭い空地
2020年
1月
4日 ひもかける手品の足引っ張る口
5日 犬の夜ふんで引かれる線を見る
こわされてクモは優美に枝を上る
6日 新聞と新聞紙の束を捨てる
7日 こぼしながら生卵吸う勢い
8日 農場の仕事勧める文字の声
9日 二つのメロディー二人で歌ってる
10日 止まらない車ブレーキ踏み続け
11日 書き手の名前だけかすんで読めない
ひとの採血のとき感じる痛み
12日 窓がなく動き始めてドアが開く
このあいだヴェイルだったかもしれない
13日 紅茶がはいっている四角い缶に
姉らしくないが姉なんていたっけ
14日 追い抜いてレジの後ろに来てしまう
もう終わりだがカレンダーを見直す
15日 跳びはね踏み鳴らす衝動近くで
18日 押し売りが子どもに代わり部屋消えて
20日 同窓生たちの今もうひとつの
22日 狭く迫る壁と壁にはさまれて
23日 貧しさによってお金を取り返す
24日 更新されない手帳の書きなぐり
くちびるも退けられるひとを見る
25日 知らない歌のカラオケ少し歌う
頼もうとして違う人の名で呼ぶ
26日 消しゴム手彫りそのひとの手がふれる
(続く)
(原牧生)
4月(俳句俳諧一行詩)
区立図書館が急に休館になり、借りていた本が手許に残った。『現代俳句全集 五』(1978、立風書房)。阿部完市の俳句に興味があり、この本を借りていた。
絵本の空(昭和37-43年) より
町への略図にある三日月と白いバス
他国見る絵本の空にぶら下り
起床してすぐに踊って風つくる
ローソクもってみんなはなれてゆきむほん
山々で指をかついでかくれんぼ
鞄に小枝つめて出かけるうれしい旅人
にもつは絵馬(昭和44-48年) より
静かなうしろ紙の木紙の木の林
糸でくくられつくられているAの町
はるかへかえる小さい沼をくるくるまわし
すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる
鶴と白人とおいよひゆーひゆーあらわれる
あおあおと何月何日あつまるか
木から落ちるしずかにびわ湖に落ちる
Aへやまみち葉と葉と花子ちりながら
やくそくのときところともしびいろ松原
分かりやすい特徴として、ひらがなの多用、繰り返しの方法、五七五だけでない韻律感、などが目に付く。そして何か童話的な雰囲気とでもいうような軽さ、モダンな明るさが感じられる。言葉を使うことについての態度や姿勢からきているのだろうか。俳句というかたちでこんなことができるのかという驚き、このかたちの潜在力を感じる。
(原牧生)
3月(社会の不自由を生きる)
背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和 (練馬区立美術館)
閉まっている美術館が多いなか津田青楓展を見に行った。背くとは上手い言葉を見つけたと思う。タイトル通りの内容で、展示資料によって時代的理解が深まる。
まず、図案画、刺繍、装幀など、デザイン・工芸的な仕事がある。図案をしていたのは十代から二十代だ(刺繍は三十代)。図案画はモダンだったと思う。職人的な染織図案の技術と、小美術、レッサーアートという近代芸術的な感覚。この時代にこのような達成があったのだ。見ることができてよかった。
青楓が日露戦争の体験を書いた『白樺』(1915年)。また、1920年代のポスター(「反軍国主義週間」「現行検閲制度反対週間」etc.)など歴史を語る資料が貴重だ。晴楓は、日本画を学び、さらに洋画を学び、渡仏もして二期会の創立メンバーになり、1920年代には四十代だが洋画家として有力だったようだ。自分の画塾も始めている。そういう時期に河上肇と交友したりもしていた。1931年には『ブルジョワ議会と民衆生活』という絵を描いてタイトルを変えさせられる。
津田晴楓画塾の展覧会ポスターや塾生の絵の展示も興味深い。この頃は五十代だ。下郷羊雄は抽象画を描いている。北脇昇やオノサトトシノブの絵もある。教育者というだけでなく教育事業家としても手腕があったのかもしれない。
『犠牲者』を描いた1933年、晴楓自身も取り調べを受ける。その当時の新聞記事(下郷羊雄スクラップブック)の展示もある。生々しい資料だ。プロレタリア芸術・文学などはどんどん弾圧され、晴楓は洋画をやめ画塾もやめて南画・文人画的な方向に向かい良寛にはまる。とても考えさせられる展開だ。南画や文人画に政治性がないとはいえない。むしろそういう伝統がある。だがそれも考えさせられるところだ。良寛は宗教者だが世俗を離れただけでない民衆性がある。そういうのは示唆的なのだろうと思う。晴楓は98歳まで生きた。本展の問題提起は実に今日的だと思う。
夜空文庫 - 『プロジェクト宮殿』によせて (路地と人)
人が集まるという社会生活の基本が、今大きく制約されている。いつまで続くのか先が見えない。「路地と人」に「夜空文庫」が開かれたのは、お彼岸の連休の前、何かと中止や延期が多くなった時期だった。企画の紹介は「路地と人」のサイトに出ているが、閉塞感の状況に対して、変えるための提案をした。短期間でも意味あることだったと思う。
場所を開く、文庫を開く、とはいえ、イベントと違って人を集めない。人が行けるところを開いたが人が集まらなくていい、という両義性がポイントだと思う。ツイートを見ると、無人の場所というイメージもあったようだ(企画者の原田さんがいるのは別として)。無人状態で本の貸出しもできるようになっていた。人類学でいう沈黙交易(共同体と共同体の境界)の場所を連想するようなところ。人が、想像や思考、物語的なものを贈与する、社会のなかの裂け目のようなトポス。架空の拠り所。
二週間前がずっと前に思える。三月末現在ではこのような企画ですら難しい自粛の状況。新型コロナ以降の社会において、このような試み・発想には、別の現実を開く可能性があるような気がする。
(原牧生)