ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

ここはだれの場所? ミルクイーストパブナイト

 最近みた展覧会やイベントの感想を書きたいと思います。

 

おとなもこどもも考える ここはだれの場所?

東京都現代美術館、2015年7月18日~10月12日

 

 この展覧会の岡﨑さんや会田家の展示をみていくと、こういうことをできたんだということに驚けると思います。この展覧会は「ここはだれの場所?」というタイトルの疑問形が印象的で、来た人が何だこれはと考えることをもとめています。人は、何をもとめて美術館に行くのでしょうか。会田家の作品に対する撤去要請が話題になりましたが、展示状態と作家側と美術館側との力動的関係は他にもあるようで、観客としても教訓のようなものをえました。何というか徴候的なものを見逃さないような見方をしたいものです。たんに裏事情があるというレベルだけでない、小さなことから大きなことを見通すようなことを学ぶ機会でした。文化は、権力的な構造に抑圧されたり妥協させられたりそれに抵抗したりしていると思います。「はじまるよ、びじゅつかん」は、美術展という制度のもとで、そこに「別の場所」をつくることができましたが、それを認めない人や認めたくない人もいるかもしれません。その緊張関係に、この展覧会の問いかけと「別の場所」の現実性がかかっていると思いました。

 

 ミルクイースト パブナイト – イン・タヴァン・エールハウス

 4組の出演者によるダンス・演劇・コントetc.

 milkyeastミルクイースト、2015年8月14・15日

 

Whales

 この演劇の設定では、名絵画探偵だけでなく普通の人も、絵画空間に行くことができて、その絵画の空間とは、その絵として描かれた当時の現実の空間のことでもあるようで、そこに行くためにはタイムマシンに乗ることになっています。過去における現実のパンの消失は現在のこっている絵のうえにあらわれ、現在におけるパンの消失は現実のパン屋のパンの消失としてあらわれています。とすると、このパン屋を描いた絵がどこかにあるのではないでしょうか。劇中、台の上にパン以外は絵の通りに静物が置かれて、絵画の空間が現実の空間として再現され、探偵が何か調べにきています。そこは過去の空間というわけです。しかしまた、絵画の空間といっても実際に出てくるのは絵画の映像です。ですから、絵画、イメージ、過去の現実、が同等の現実のようになっている、イメージというものはどこにあるものなのか分からなくなってくる、というようなことを考えさせます。それから、パン屋の看板や動物たちなど、案外童話的抒情性があるのが感じられました。

 

神村恵

 前もって決めておいたいくつかの要素からなる動きをして、少し移動してまたして、段々、壁面を床面に変換してそれをして、空間をねじったようにみえたりすることもありますが、基本的に動きは繰り返しなんだなと見ている方は思う、動きのパタンとか身体の自動性として見るようになる、というやる側の仮定のうえで、後半の、観客を引き込んでとりついたように動いたり等々の展開がある、と考えてみると、30分足らずらしい時間のうちに、身体を媒介化していく試みだったのかなと思えてきます。

 

ラストソングス

この演劇は、やくざ映画の断片を引用・構成したもののようでした。せりふの方言が虚構的に感じられます。しかし、その演技はテンションがあって、何となく小劇場演劇を思い出しました。やくざ映画は時代に対して時代錯誤的であることによって反時代的でもあったのかもしれませんが、物語が解体してしまえば時代錯誤的な力もうしなわれます。スタイルの遊びなのかシリアスなのかどちらでもあるようなものなのだろうかと思ったりしました。

 

O,1、2人

 このユニットの自己紹介文に、“一人でできることを二人でやったり、二人でできることを二人でやったりします”とあります。以前にみた公演では、その通りのコントもありました。二人の主体が分裂というか、くい違っているとか、離脱のように主体が同時に客体であるとか、一人一人の個人が二人のパフォーマーとしてギャグやコントをするというだけでなく、パフォームする主体が自己同一的な個人ではないということがギャクやコントになっている、そういう構造性みたいなものが、特長のひとつだったような気がします。(それと、何かをみて即興で返す、というのも前からありましたが、それは今回も後半にありました。)今回のは、言葉じたいから発想していること、言葉の意味というより形式的な関係(あつい-さむい-つめたいetc.あるいは、音を逆さにするとか)を扱っていること、に共感しました。それから、死体でありながら成仏しないでしゃべっているという設定は、上記の特長に近いと思いますが、例えば粗忽長屋とか死体が出てくる落語のような、狂気に近いかもしれない笑いの可能性?があるかもという気もしました。

 

(原牧生)