ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

作品の境界――レディ・メイドの先に

1.作品と、作品ではないもの

■三つの展覧会

 6、7月頭まで開催されていた、「線を聴く」、「シンプルなかたち」、「マグリット」。どれもさしたる選り好みをしたわけでもなく最終日直前に転がり込む格好になった展覧会でしたが、奇しくも共通点を読み取らずにはいられないようなチョイスになっていました。

 メゾンエルメスの「線を聴く」は表題通り線をテーマとする展覧会で、めのうのスライスに出現する色とりどりのラインやアルゴリズムによって生成される線のパターンが作家の手によって引かれた線と併置されています。同様に、森美術館の「シンプルなかたち」展でも、比較的加工の度合いの少ない石や壷などの道具類、また石膏による幾何学形態の模型が作品と混じり合うようにして展示されていました。中でも1912年のパリ第4回航空ショーに出品されたプロペラは、デュシャンが「絵画は終わった。このプロペラに勝るものをいったい誰が作れるか。」というコメントを残したいわく付きの品で、一緒に見に行ったブランクーシにも大きな影響を及ぼしたものだそうです(《空間の鳥》(1926))。

 

■〈作品〉ではないものの強み

 ここでは便宜的に習慣的な振り分けを援用しましたが、当然、なんとなく設けられている「作品」と「作品ではないもの」の境界はどこにあるのか、つまり、「線を聴く」「シンプルなかたち」という展覧会の特異性を際立たせた要因である、通常作品として展示されるものと、そうではないものの違いとは、そもそもどういったものであったのか、という疑問が生じます。

 デュシャンも言う通り、外観ということであれば、幾何学形態や道具や結晶も観賞に適うほど充分に、いわゆる美的な形態を備えているように思われます。その上、模型や道具、自然石といった「作品ではないもの」は、しばしばそれがただ石であり、道具であり、公理に基づいているという疑いようの無い事実をもって、そのかたちを生み出した必然、すなわち自然環境・数式・用途と使用にかかる力学的法則などというような、形態の生成条件を否応無く突きつけて来るのです。観賞者は言うかもしれません。「なるほど、これは美しい。自然の力による精錬の賜物である」あるいは「用の美こそがすべてだ」。景観の賛美にあてがわれる「自然の芸術」という言い回しに至っては、ほとんど慣用句になっているほどです。

 上記と同等の条件が必ずしも同程度に美的な形象を産出するとは限らないのにも関わらず(したがって美の発生には今一歩踏み込んだ別の位相による要件の介在が仮定されうるのにも関わらず)、これらの物品の美に紐付けられた逆向きの合目的性は、ときに正統主義の身振りさえもって、当の形態に抗い難い説得力を与えてゆきます。

 

 

2.作品の価値はどこにあるのか

■レディ・メイド

 それではデュシャンの言うように、この美しいプロペラを前にした造形作家は絶望する以外に他ないのでしょうか。そうではありません。かの発言はデュシャン自身によって乗り越えが計られて行くこととなります。デュシャンはレディ・メイドの発明によって、作家が仕事としてかかずらう、オブジェとして「どのように顕すのか」という課題の領域から、オブジェが「何(の説明)である(ありうる)のか」という要項を鮮やかに取り出してみせました。マグリットもまた、描かれたものが「何であるのか」という問題、およびそれらの併置によって生じる齟齬で絵画を練り上げていったのです(《イメージの裏切り》(1929))。

 

■観賞の位置づけ

 レディ・メイドは通常芸術作品とはみなされない物体も作品となることを示しました。良く知られていることですが、改めて確認しておきたいのは、しかしこの手法の確立が、何でも無条件に作品となりうるということを意味したわけではないということです。作家が「何か」を指し示す方法の選択を手腕として問われることとなったように、また観賞者も、作中に込められた意図の解凍に必要な法則を読み取る眼力をいっそう厳しく問われることとなりました。例えばひっくり返された便器の意図を汲み取ろうとしない人にとっては《泉》(1917)が機能不全のがらくたでしかないように、「それが何であるのか」というオブジェの語りを聴き逃す人にとっては、どれほどの価値が認められている物体も、決して作品とはなりえないでしょう。また逆に、謎の作者R・マットの正体がマルセル・デュシャンであって、《泉》こそが20世紀美術を書き換えた歴史的作品であるという史実を前提にするからこそ、この単なる白い小便器をこれ以上無い崇敬の対象とみなすこともできるのです。そしてそうある限りにおいて、〈作品〉という言葉は特定の物体それ自体を指すというよりも、観賞という読み解きの行為を媒介しうる物体として、感受を含めた現象の一部にこそ銘打たれたものだということになるでしょう。

 

 

3.手法のレディ・メイド

■レディ・メイドのゆくえ

 これらは何でありうるのか、何を説明しうるのか。再びデュシャンの眼を伴って模型たちの前に戻ると、名付けられもせずに並んでいるそれらの物体は、ほとんど画材店に並んだ素材の見本市のように見えてきます。道具としての機能の転用とそこに内在する幾何学形態の応用。これらもまた等しく「何か」を言明しうるのです。制作開始から100年を迎えた《大ガラス》(1915/1923)の読解もこの辺りが鍵になるのでしょう。デュシャンの立ち上げた「何(の説明)であるのか」という課題は、「何を説明するか」、つまり「何であれば説明するに値するだけの価値を持つか」という問題と平行しつつ、滑らかにその重心をシフトさせて行ったのではないでしょうか。

 

■語られるべき事柄

 それでは仮に、ある作家が説明に値するだけの事柄を発見したとしましょう。またしても作家の役回りは変容することとなります。語るべき事柄が動機として先立つ以上、この作家は語られる事象の内容に合わせて都度適切な話法を選択するようになるのであり、このとき作家は既製品のみならず、伝統的な工法や、既存の論法までもをレディ・メイドの素材として比較、検討することになるのです。ひとりの作家に固有の手法として認知されるスタイル、トレードマークともなりうる人目を引く外観さえ、この作者にとっては、もはや執着するだけの意義を持ってはいません。方法にあっては、それが領域横断的であってもいいし、なくてもいい。内容が重視されるからこそ、既存の様式を援用することも、また逸脱することも、作家の目標ではなくなります。デュシャン最後の作品である《与えられたとせよ:(1)落ちる水、(2)照明用ガス》(1946-1966)も、写実的な描写技法を採用し、少なくとも後世の誰もが思い浮かべるようなデュシャンらしい外観を顕すことはありませんでした。

 

■作品と引用

 注意しておきたいのは、今取り上げた形式の参照が、必ずしも既存の手法の応用に終始するとは限らないということです。引用される作品はその手法の自律性、つまり解読にかかる文法としての完成度を試されることとなり、文法として成立していない作品はあらかじめ引用元から除外され、また意味の独自性を持たない作品はその内容を止揚されてゆくこととなります。むろん、新たに作られることとなる作品も同等の条件下におかれ、旧作に及ばない成果物はそれを更新することなく、再び引用元へと収斂して行くこととなるでしょう。非常に厳しい条件と言わざるをえませんが、このような見方をとることで、引用に耐えうることが認められた作品は、いわば後世における使用価値のあるものとして、その価値の理由をはっきりと明示されることとなります。したがって引用それ自体は手法および内容の独創性という旧来の価値観を貶めるものでも、無効化するものでもなく、むしろ明確に裏打ちし、単純な継承以上の意味を付加するものです。論文が参考文献を持つように、作品もまた、参照されることによって価値を持ちうるのではないでしょうか。

 加えて、語られるべき事柄の複雑さや新規性に比例して増大する負荷の存在は、後に引用されうる新たな形式を惹起する要因となるものでしょう。ときにやりつくされてしまったかのようにすら語られることのある芸術表現ですが、新たに語られるべき事柄さえあれば、作品の境界は容易に拡張されうるのです。内容と形式は分たれつつも不可分のものですが、ここでは――しかし、そうであるがゆえに――参照されたスタイル以上に、言い表される内容が意義を持ってくるのです。

 

 

4.終わりのない対話

■意味への傾聴

 話を戻しましょう。作品は何かを語っている。この囁きを聞き取ろうとしない限り、〈作品〉など無いも同然です。ひとまずはそこに何かがあると認め、聞き取ろうとする態度だけが、作品を〈作品〉たらしめることができるのです。そして言うまでもなく、〈作品〉のないところに批評は存在しえません。とすれば批評とは、ひとまずそこに〈作品〉があると仮定しつつ見る、そうした肯定的な態度によってのみ、可能となるものなのでしょう。

 それでは、先入観に基づく誤解や、意図的な曲解、新しいものを認めない態度によって理解のシャッターを降ろされて、深層に込められた意味を閉め出されてしまったらどうでしょう。人の評価は、ともすると一時的な感情や思い込み、短期的な利害関係などという間違った見込みに振り回され、多く不安定なものです。とすると、不運にも観者が「わからない」以前に「わかろうとしない」態度を決め込んでしまったとしたら、この〈作品〉は、史実に書き込まれて参照可能となる以前に、はじめから存在しないも同然になってしまうではありませんか。様々な工夫をこらし、厳しい条件にも耐えて今日まで語り続けて来た作家は、皮肉にもあの絶望的な言葉が発せられた瞬間へと、立ち返らざるをえないのでしょうか。

 

 「シンプルなかたち」展のラストは、腹に響く不快な低音でしめくくられます。《メレンコリアⅠ》アルブレヒト・デューラー、1514)の前で、作中の「デューラーの多面体」を立体化したカールステン・ニコライの《アンチ》(2004)が、巨大な体躯をもって不機嫌な唸りをあげているのです。ここに希望があります。《メレンコリアⅠ》は意味の計り難さで有名な作品ですが、意味が特定できないからといってその価値が低く見積もられることはなく、今日に至るまで新たな解釈を生み出す源泉となってきました。例え作家の意図のすべてを理解できるわけではなく、また解釈の真正性が保証し難いものだったとしても、人はこのようにして語られるべき事柄の内在を、あたかも見えない水の流れのごとく聴き分けてきたのです。

 

■対話としての制作

 制作と観賞という意味の付与と回答のゲームは、デュシャンの打ち込んだチェス以上に難解です。作品ごとに異なるルールが別途明記されることはなく、作品自体に内包されている上、観衆も審判も観賞者であり、また競技者となりうるのも観賞を経た作り手自身なのですから。けれども有史以来無数に錯綜する回路を整理し、繫ぎ変え、直接的接触としてはいかなる空間的・時間的な連続性も要さない意味の交歓を、〈作品〉の中で終わりの無い対話として甘受しえたとき、生の意味は実感を伴って変容するでしょう。世界はより不思議で、複数の出入り口を持つ、豊かな解読の可能性を畳み込んだ存在へと変貌します。翻って、作品の価値とは、そういった新たな展望を切り開くものにこそ、与えられて来たのではなかったでしょうか。

 

 ときに、作品の保存は負担のかかる仕事です。場所をとるし、劣化もする。私たちが今日も作品たちを目にすることができるのは、少なくともその一部が命をすら賭けて維持されるべき価値を持っていると見なされて来たがゆえです。この絶え間ない尽力の背景には、先に挙げたような思想が通底しているように思われてなりません。あるいはまた、これ以外のどのような方法で、〈作品〉、ないし芸術と呼ばれるものの価値を説明付けることができるでしょう。

 

 論評としては多くの仮定を重ねることができない以上、今はまだこれ以上を語ることはできません。けれどもこの話を閉じることもしないでおきます。ここにも必ずその先が、あるはずだからです。

 

(佐々木つばさ)