ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

境界 / 高山明+小泉明郎 展、when you are a stranger vol.2

 最近いった展示やイベントから触発されたことなど書きたいと思います。

 

境界 / 高山明+小泉明郎 展

銀座メゾンエルメスフォーラム  7月31日~10月12日

 

 この展示は二人それぞれの個展です。小泉明郎さんのヴィデオ作品は、過去の現実性、現実の過去とはどういうことか、といったことを考えさせるものでした。過去を経験するとは、過去というものがどこかにあってそれが再現や再生されるということではないようです。人間の経験は言語化されている、というかそれによって人間は人間になるのだと思われますが、それゆえに、現実の過去というのは、言語の過去形、何かを過去形で今語っているということにあるのかもしれないと思えてきます。この作品では、映像の男性は、ある物語を思い出しながら語っています。そしてその物語は、彼自身の経験ではないのです。それでも、作品をまじめにみていれば、過去の現実感があるような感じになってきます。そこに作品の仕掛けがあるともいえます。しかしまた考えてみると、いわゆる語り部に似ているかもしれません。誰のものともいえない物語を語って、きく人に物語の時間としての過去を経験させるので。

 高山明さんは、作家の口上のような文章を会場に出していて、もしかしたら演劇の演出家は美術の作家よりそういうことをする習慣があるのかもしれませんが、観客としてはとても参考になりました。高山さんの作品は、本人によれば上演ですが、一枚の絵を映像インスタレーションにうつしかえて、そのシーンを架空の場所のようにしようとした(モニターの間を歩いてその場にいるような想像をすることもできる)ものだと思います。観客は、映像を見ながら別のヴィジョンを重ね合わせて見るような感じになると思います。映像は、福島の被災地にある「希望の牧場」の牛たちが撮られています。そこは(本当は過去ですが)現在だといえます。絵は、最後の審判の日における義人たちのメシア的な宴、が描かれてあります。メシア的というのはよく分かりませんが、とにかく、最後の審判の日の情景ですから、そんな日があるとしたら、そこは、いつなのか…?未来でしょうか?しかし、未来というのは、どこまでも未来があるから未来なわけで、それより先がない最後の審判の日は未来とはいえないような気もします。展示作品は、「現在」の映像を空間的に配置して、そこを「現在」だけでない時間性(未来というよりメシア的ということに関係あるのかもしれません)のある架空の場所のようにしようとしたものだと思います。作品からは最後の審判の日という言葉が削られており、終末論的なイメージが軽くなり、希望と未来との関係のための余地が残されたように思われました。

 

when you are a stranger vol.2

七針  8月22日

 

 ゲストの入江陽さんのライブは聴いているうちに好感がもててきました。スタンダードナンバーはいかにしてスタンダードナンバーになったのかと思ったりします。繰り返し演奏され聴かれているとスタンダードナンバーになるのでしょうか。メジャーというよりポピュラーになるという感じで。しかしスタンダードというのは相対的かもしれません。ふるい映画音楽みたいな曲を聴いてセンチメンタルな気持ちになりましたが、スタンダードナンバーというのは不思議な共有財産だと思います。

 リズムは批評だ、と小野十三郎(詩人)はいっていました、と花田清輝は書いています。そのもとは小野による短歌批判、彼のいう短歌的抒情、人々のメンタリティとしての「うた」の韻律を政治意識から批判したものでした。リズムは批評だ、という言い方は、小野というより花田のアジテーションみたいなものだったかもしれません。tnwhへの感想とは文脈が違いますが、この言葉を思い出しました。今回は四人編成で、印牧さんのボーカルはてにをはの観客層をひろげられるのではないかという気もしました。それと、即興演奏をもっと取り入れるのもいいのではと思ったりしました。ついでですが、「これからの美術館事典」展(国立近美)をみにいったら、常設展の日本画のところに、小野十三郎の文章「奴隷の韻律」が資料として(短歌誌 八雲、1948年)展示されていました。

 

(原牧生)