ポリ画報通信

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オノ・ヨーコ「私の窓から」

展覧会全体

 現代美術館での個展は二度目。すでに前回が代表作を集めた大規模な個展だったので、いったいどうしたらこれだけの空間を使った展示が再び成立するのだろうと不思議に思っていましたが、作家の出身地東京との繋がりをキーワードに資料的な要素を前面に押し出すことで、前回展示された作品でも違った側面が見えてくるようにするという工夫がなされていました。

 

私の窓から セーラム1692

 表題作『私の窓から』(2002)は計16枚の写真を用いた4つの連作で構成されています。壁一面を一つのタイトルに充てた独立性の高い空間で、時計回りに連続で鑑賞することを念頭に設計されているようでした。強制こそされないものの、鑑賞における正当な順序、いわば映像におけるタイムラインの存在が仄めかされているということでしょう。

 一つ目の壁面、『私の窓から セーラム1692』は三枚の写真パネルでできています。いずれも①開け放たれた窓、②セーラム魔女裁判、③作家自身の幼少時代を映した肖像写真、という三つの画像が重ね合わされたもので、三枚ともに同一の構図が採用されています。

 ①の「開け放たれた窓」はどれもはっきりした濃度で、遠くから眺めてもすぐに部屋の中から見た窓及びそこから見える景色であるということがわかりますが、対照的に②「セーラム魔女裁判」はモノクロ加工されている上、三枚全てが薄く出力されており、ともするとパネル全体にかかった靄かシミ、ノイズなどのエフェクトに見えてしまうといった塩梅で、よくよく目を凝らして見ないと裁判の喧騒を描いたと思しき絵画の存在を認めることはできません(事実、展覧会ポスターに使われていたのはこの作品ですが、私は実作を目にするまでこの靄を解読しようとは思いませんでした)。

 さらに③「作家自身の幼少期」は左から順に一枚ずつ濃度を濃くしてあります。複雑な構図の②とは異なり、おかっぱ頭にセーラー服の子供の姿を捉えることは難しくありません。もっとも濃度の低い一枚目の写真から窓を見上げる愛らしい少女の存在に着目しつつ、未だ透過する影を持った二枚目を通り過ぎ、三枚目の前に立った時、あることに気づきます。

 おかっぱ頭の少女と「セーラムの魔女」は、目を合わせている。ここがどこかもわからない時間の中で、互いに目配せしあっているのです。『イエス、アイム・ア・ウィッチ、トゥー』とは間もなく発売されるオノ・ヨーコ氏のアルバムタイトルですが、氏が「魔女」との悪口を転倒し肯定的に受け入れたとき(「yes」)、この時間も空間も超えたコンタクトは成立したのかもしれません。

 

「イマジン」の終わり

 『私の窓から』シリーズはさらに三作続きます。そこには笑顔のジョン・レノンと二人で囲む幸せそうな食卓や、彼が凶弾に倒れたときにかけていたために左目部分が血に染まった眼鏡、きっかり半分だけ水が注がれたコップが映り込んでいます(半分のglassとglass)。窓は次第に閉じられて行き、あるいは「日の出」と題されているのにも関わらず、画面は徐々に暗くなって行きます。

 

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 オノ・ヨーコと窓の組み合わせで思い起こされるのは『イマジン』のPVですが、この映像における彼女の役どころといったら、暗くて真っ白な部屋にある四つの窓を開けていくこと、それだけでした。対して『私の窓から』は大きさこそ違えど『イマジン』のそれと同じような作りの窓を閉じていくホワイトキューブの写真作品であり、この点から見ても彼女がこれを『イマジン』の続きとして構想していたとしてもおかしくはありません。

  それでは仮に、「イマジン」が閉じられたとしましょう。イメージが終わった後には、何が残るのでしょう? 想像が実現しなかったことへの失望でしょうか? そうではないはずです。ほとんど設計とも呼べるほどに十全な空想の後には、「行動すること」、言ってみれば実制作の工程が残されているからです。

 

(佐々木つばさ)