ポリ画報通信

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共にいることの可能性、その試み

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

共にいることの可能性、その試み

2016.2.20-5.15  水戸芸術館現代美術ギャラリー

田中功起

 

 このプロジェクトは、一般性がある大きなテーマをストレートに考えてやってみたものという感じがします。しかし、そのやり方はストレートではないです。美術館での展示は、たんに宿泊の実践を報告したものではなく、再構成ですし、別のプロジェクトの映像も別の場にあるのでなくそこにはいり込んでいます。会場あちこちに説明文があって、反省的なコメントや問題となりそうなことを自分で指摘しているようなコメントもみられます。このプロジェクトには自意識みたいなものが組み込まれていて、入り組んでいるのではないかと思います。

 参加者(とスタッフ)がしたことは、共にいることや協働することといったこと自体を問題(または目的)意識としてもった合宿のようなことでした。そのことはミクロなレベルの実践です。が、その中にワークショップやディスカッションの時間が設けられ、ここだけでない一般的な共同体や社会を問題にして考えたり話したりして、マクロなレベルにも関わろうとしています。

 1 共同の行為や作業などをしている場でのふるまい・発話、2 共同で話し合うという場でのふるまい・発話、という二つの位相があるともいえます。2は、1について話すということも含みます。参加者の感想みたいな話とか。さらにそのうえに、個々人のインタビューがあります。インタビューは、プロジェクトの中のことでありながら、個人として話していると、個人としての意識があらわれ、プロジェクトの外をみているような感じもしました。それもまた異なる位相だと思います。展示はこれら異なる位相で撮られた映像が相互参照されるようになっていて、それらのずれやつながりが示されていることによって、記録された出来事・現実の多元性というか多次元性がみえるようになっていたと思います。

 このプロジェクトをみると、現代アートのあり方とかアーティストがやることとは何なのかとか、あらためて考える参考になりそうです。私は、これとは逆に、やり方はストレートで考えは入り組んでるというのがいいのではと思ったりします。例えば、自分で(も)やってみるというような。そうするとあまり大規模なプロジェクトにはできないかもしれませんが、例えばコンセプチュアルなパフォーマンスのアートみたいなものはそういうものではないでしょうか。

 ファシリテーターという役も何なのかあいまいな感じもしますけど、粟田さんや狩野さんが用意されたワークショップは、ミクロな実践とマクロな視野を両立させようとするような考えが感じられました。音声詩を取り上げたり、声を使うことや、ある種の演劇のようにみえることなど、興味をひかれました。

 私にとっていちばん発見的だったのは、インタビューというものの可能性でした。本展で、共にいることの可能性に最も踏み込んだのは、インタビューという接近法によるインタビュー(している・されている)という状況だったのではないかと思えてきます。インタビューには、受ける人を傷付けるおそれもあります。しかしそれゆえに、インタビューがうまくいくとカタルシスがあるのではないかという気もします。それは何なのか、ということは、(二者の)共同性(なぜ共にいるのか)の核心に関係あるように思えます。

 

(原牧生)