ポリ画報通信

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制作のための勉強会 第1回

 第一回は、原がレジュメを準備して発表し、話の流れでその都度話し合いをしました。この文章を書きながら、発表したかったことを考え直してまとめ直したり、後からの補足をしたりしています。

 『ルネサンス経験の条件』には、実作者の書きものらしさがあると思います。筆者の、絵画や建築の体験に基づく作品論から書きおこされ、書くことによって作品経験に還ろうとするものだと思います。例えば、どこをどう見ているのか、あるいは、見るということは何をしていることなのか、について示唆深いものがあると思います。本書を読んでいくプロセスは、その人の作品経験を変えていくと思います。そのように読みたいものです。

 今回の発表では、おもに、フェルメール『信仰のアレゴリー』(付論)、マティス『十字架の道行き(ロザリオ礼拝堂)』(Ⅰ章)、イコン(Ⅶ章)、について語られた議論を順に取り上げました。これらにはいずれも、こちらを見ている顔の絵があります。問題の共通性もありますが、論点は移動しています。

 付論「信仰のアレゴリー」は、まず、ヴィトゲンシュタインの引用、宗教改革マニエリスムについての考察があります。自分の経験の確実性、自分の確信と自分が内心にいう言葉との同一性を観察すること、自分の経験のリアリティについてのマニエリスム的懐疑(不安)、というようなことが、論のはじめにあります。

 宗教改革マニエリスムから、様式についての意識はあるが様式自体はないこと、不確実性、無根拠、といった問題、間接性や暗示といった手段が考えられています。その手段は、不自然さ、わざとらしさ、わざとわざとらしくすること、でもあります。そう思うと現在に通じるものでもあります。

 フェルメール『信仰のアレゴリー』は、いくつか解説書や研究書をみましたが、低い評価が定着しています。本書の議論は、一般的な見方をくつがえそうとするもので、何か書いて世に出すということは、それくらいのことをするということなのだと思ったりもしました。

 フェルメール作品については、間接性ということがありました。一般にフェルメール作品の美点とされている光や迫真性は、暗箱カメラに映った映像を絵に写したもので、メディアが介在していたという見方です。

 一方『信仰のアレゴリー』は、信仰という言葉を絵にしたものですが、『イコノロギア』という辞書みたいな本があって、そこに信仰という言葉を言い換えた記述があって、その記述が絵のイメージのリソースにされています。対象の実在性をもたない、言葉をいいかえた絵にすぎないような絵、そういう絵によって宗教改革以降の信仰を絵にすること、そのやり方が、この絵の特長でした。この絵は、室内に座っている女性が主役で、後ろにある絵は背景であるように描かれています。しかしこの絵を見て、背景の画中画に描かれた女性(聖母マリア)がこちらを見つめているのに目がひかれると、見え方が変わります。画に描いた餅は実在的価値が低いというような、通常の現実性のレベルが反転して、室内の女性はそらぞらしく、画中画の女性がいきいきと見えます。そこには、絵を見る人が見られていることを見る、という視線の交換があることが指摘されています。それだけでなく、そのまなざしは別の次元からきているように感じられます(絵の中の女性が絵の中で見ているのは絵を見ている私たちではなく絵の場面にいる人)。画中画の女性には超現実的といいたくなるようなリアリティがありますが、それが間接的に生じているリアリティで、本書でいう表象の使われ方(現実性の反転を表象の交換といえるのかもしれません)によって、信仰を本当に絵にするということが間接的になされているということなのだろうと思いました。

 付論を読んでからⅠ章を読むと、マティスと信仰の関係という書き出しに思考がつながるような感じがします。

 『十字架の道行き』は、14の場面が並べて詰め込まれており、素描のようともいえるような黒一色の線描だけなので、全体に混じり合って一つの絵にまとまっているようにも見えます。しかしその中で、ヴェロニカのハンカチーフだけがういて見えています。ハンカチーフ上の顔は一種の奇跡として絵ではないとされていますが、ここでも、画中画のようなものの方がはっきりした実在感をもっています。

 本書に自己引用されている文章(「助動詞的空間」1993年)では、ハンカチーフを見ることを通し、イエス受難の様々な場面が同時に回想されている《いま、ここ》という瞬間、という見方が考えられていました。特定の時に属さない、ハンカチーフを介した、間接的な想起といえると思います。そしてⅠ章の本文では、ゴンブリッチのいう感情移入(描かれた場面を見て、特定の時と場所の出来事が、いまここでリアルに再現されているように感じる)という概念を検討し、以前の考えを見直しています。感情移入の同一化の原理、いまここの経験はいまここの経験である、ということに対して、分裂している、ということについて考察が進められています。ハンカチーフはそれ以外の場面とは位相が分裂していますが、ただ分裂しているだけではなく、ハンカチーフが(を)画面全体を(が)写像している、自己言及的と思えるような写像(反復ともいわれている)として見られていると思います。そして、ハンカチーフの方に実在感があることが、《いま、ここ》に対して《現前する反復》といわれているのだと思います。

 そもそも「十字架の道行き」とは、イエス受難の苦しみを霊的に想起する信心の一形式のことでした。場面ひとつずつに黙想と祈りの場(石製の標示や小聖堂)が設けられていて、イエスが耐えた苦しみを歩いて辿り直す、という信心の行為があるようです。

14の場面とは、1、死刑を宣告されるイエス、2、十字架を負うイエス、3、イエスの最初の転倒(歩きながらよろめき倒れる)(3C以降の伝承)、4、イエスが母マリアと(道端で)出会う、5、キレネのシモンに助けられる(シモンは途中からイエスの代わりに十字架を担わされる)、6、ヴェロニカが布でイエスの顔を拭うとそこに顔が写る(15C以降の伝承)、7、イエスの2度目の転倒(伝承)、8、イエスが(嘆き悲しみながらイエスについていく)エルサレムの女性たちに語りかけ慰める、9、イエスの3度目の転倒(伝承)、10、イエス、衣を剥がされる、11、イエスの磔刑、12、イエスの死、13、十字架から降ろされるイエス、14、イエスの埋葬、です。(『キリストの受難 十字架の道行き|心的巡礼による信仰の展開』、アメデ・テータールト・ドゥ・ゼデルヘム、関根浩子訳、勉誠出版、2016)

 マティスはこうした信心のあり方を絵にしたと考えると、この壁画を見る(向かい合う)ということに近付ける気がします。

 ヴェロニカのハンカチーフはイコンと関係あるといえます。イコンのことはⅦ章で扱われています。イコンを知ると、東方教会(正教)をそれなりに知ることにもなります。正教を意識すると、カトリックプロテスタントという二項図式だけではない、その内部対立で考えられていることとはだいぶ異なる発想がある、と思わされます。イコンは神の絵(イメージ)ではなく、キリストのからだが刻印されたもの、直接的なものだという解決の仕方、その根拠に神が人間になったという考え(教え)があることなど、とても正教的と思われます。

 イコンを通して神が見ている、イコンを見ることは、そのことを見る(観照する)こと、とされています。イコンはそういう宗教的生活のための用具のようなものなのだと思います。私のようにキリスト教の信者でない人がイコン(の図版)を見て感じるものを、圧迫感といえるかもしれません。私たちの方がイコンに見られている、そういうものと知らなくても、無意識的に圧迫してくる視線のようなものがあるのかもしれないという気もしました。

 ‟人間は自分が手本にすることのできる神聖なものを見なければならない。罪によってゆがんだ人間の顔を鏡のようにイコンに映すことで、人間の顔は本来の「像(イコン)」をとりもどす。”(イコンという語は、聖像をさすだけでなく、かたちという意味をもつ。)(『ロシア正教のイコン』、オルガ・メドヴェドコヴァ、監修黒川知文、訳遠藤ゆかり、創元社、2011)

 ここではイコンが鏡にたとえられています。鏡を自分の前にかざせば、鏡を見ることによって鏡から見られることになります(自分が自分の鏡像から見られる)。しかし、鏡においては、鏡を見る視線と鏡から見られる視線は同じ次元にあるのに対し、イコンにおいては、イコンから見られる視線(神)はイコンを見る視線(人間)とは次元が異なります。イコンを絵として見ると、内からの視点と外からの視点が重なり合っているということになります。ただし次元の違うものが重ね合わされていることになります。先の引用で、顔をイコンに映す、といわれていたのは、この、次元の異なる重ね合わせをいっているのだろうと思いました。

 以上三つのトピックを取り上げましたが、それぞれから、異なる次元どうしで起こっている、交換、写像、重ね合わせ、ということを見出しました。そこから逆に、例えば想起と記述(メディア化)の、交換、写像、重ね合わせ、によって、異なる次元を経験する(させる)ことができるだろうか、ということも考えられるかもしれません。

 ただ、取り上げたトピックはいずれも宗教に関わる芸術についての議論であり、異なる次元というのは宗教(信仰)としてリアルである次元だといえると思います。宗教文化というベースの上で成り立っているような。ですから、今の自分にとっては、そこを補って見ていたといえますし、翻訳を介した経験みたいな感じではありました。

 今日でも信仰をもつ人たちはいますし、宗教芸術もあるかもしれません。例えば現代音楽としての宗教音楽とか。しかし、本書を読むことによる可能性のひとつには、宗教芸術的なもの(経験)から、その限界(境界)みたいなものを取り出す、ということがあるのだろうと思います。そう考えてみると、異なる次元というのは、いわば限界宗教とでもいえるような、既存の宗教的文脈に拠らない分裂的な経験、それこそ何らかの作品経験にあるのかもしれないようなもの、それを語り直すことによってあらわれるようなものなのかもしれないという気もしてきます。

 

(原牧生)