ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

『残像』ほか

 先日、アンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』を観ました(岩波ホール)。主人公の芸術家は、国のイデオロギー的な統制が芸術にも及んできたことに抵抗し、そのために社会的な権利を奪われて、困窮のうちに病死します。救いのない話だったといえると思います。話は第二次大戦後のポーランドでのことですが、ひとごととは思えない、アクチュアリティがあると思います。

 以前公開された『沈黙』(マーティン・スコセッシ監督)は、私は観ていませんが、日本のキリシタン弾圧を扱っていて、近いテーマがあったのではないかと思います。どちらの映画でも、国家的な強制力は従わない個人を孤立させて追いつめることが示されていたと思います。また、権力の暴力に対する個人の信念や信仰、というようなとらえ方だけでは、実存的とはいえるかもしれませんが、先行きがくらい、とも思えてきます。

 “イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネによる福音書2.23-25、新共同訳)”

 全体に対する個人の選択といった問題について、イエスの時代にも人は直面していたのだと思います。この個所は、この時信じた人々も結局後にはイエスを見放すので、それを見越して先取りした書き方なのかとも思えます。しかしそれでは、イエスは、人々をシニカルにみていたようになってしまいます。これを書いた人は、あたかもイエスの本心を知っているかのように書いていますが、そんなはずはないわけで、どうしてこういうことを書けたのかおかしいのではないかとも思えます。

 せっかく信じたのに信用されてないということは、神と人間の関係はそういうものだということでしょうか。この個所は、人間の都合には合わない、分かりやすい教訓にもならないことが語られていると思います。ただ、こういうふうにいわれると逆に、絶望ということがナンセンスにみえてくるかもしれないという気もします。

 

(原牧生)