ポリ画報通信

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勉強会その後

 7月22日に第4回(発表川原さん)、8月26日に第5回(発表辻さん)の勉強会を行ないました。第4回では、Ⅵ章「三位一体」が取り上げられ、事前にていねいな要約とリンクが付いたレジュメがありました。発表はなかでも記憶術が着目されていました。時間や空間を経験するとはどういうことかという問題として。

 またそれに関して、六義園についての四谷アートステュディウム講義録(岡﨑ゼミ)も参照されました。六義園の問題(課題)は、庭園内をどのような経路でたどるか、庭園経験をどのように組織するかを考えることだったと思います。それは六義園という庭園のいわば設計思想と密接に関わることでもありました。

 タブラエでは、6/24・25 7/1・2に「小さな家が見る『Vampyr』」という上映会を行なっていますが、私個人的には、そこに六義園の問題と近いものもあったような気がしました。しかし、企画者当人の川原さんや辻さんから上映会の話をきくと、そういうものとはまた別のものだったかもしれません。

 一般に上映会は、たいてい、上映会自体の形式より、何を観るか(観せるか)という内容の企画としてあると思います。映画は始めから終わりまで上映時間があり、観客はその時間中席に座ってあまり動かないで前をみている、という感じです。タブラエでの試みは、そういう身体の体制化に対して、たんなるマルチスクリーンという以上に、建築(的要素)を介在させることによって、映像と身体の関係(時空間的な)を観客に再組織させるものだったのではないかと、自分としては思いました。

 記憶術は、結局よく分かっていませんが、そういう庭園や建築で経験される(経験できる)ことを、頭の中だけでやろうとする術(思考システム)なのではないかと思えてきます。

 第5回では、「アンリ・マティス」(Ⅰ章)が取り上げられ、特に壁画的な空間が扱われました。例として『スイミング・プール』という大きな切り絵の作品を図版や画像で見ながら話し合ったりしました。また、ピラネージの版画の内部視点的な建築空間も参考にされました。問題としてあったのは、分裂的な空間、あるいは、経験としての分裂、ということだったように私としては思います。

 分裂していればいいということではないのでむしろ分裂の限界を考えるべきという話もありました。それは多分、どこかで止まるというより分裂を高次にのりこえることを感じさせる(予感させる)動的な経験なのではないか、そういう力(のはたらき)といえるのではないかと(私には)思えました。

 それから、4回目に出た話題として、ネット上で服の写真を見て柄の色が何色に見えるか人によって言うことが違う、というトピックがありました。勉強会参加者どうしでも一致せず、面白いことだと思いました。実物と写真の違い、色の補正といった技術的なことでもあるかもしれませんが、そもそも他人の経験と自分の経験と較べようがあるのか、という感じになってきます。

 この場合、違いは何なのか考えてみると、①感覚・知覚レベル、②言語レベル、とがあると思います。①は、光の感受性みたいな生理的感覚の違い、ここでは地の色と柄の色との組み合わせ(差異)として各々の色が現象していますから、感じ分けて感じる知覚の違い。②は、どう見えているかをどう言うか、いわば個人的な文化の違い。色を言葉(名称)で言おうとすると、大ざっぱにならざるをえないと思います。そのため、これを何色というか、ちょっとした判断の違いでも、大きく違うかのようにあらわれると思います。実際に起こったことはどちらなのか、何か実験を工夫すれば分かるかもしれませんが、(自分たちの場合は)何となく②の方なのではないかという気もしました。

 ところで、この場合、①は経験自体、②は経験の認識、なのでしょうか。そういえるような気もしないでもないですが、私としては、そうとらない考え方に興味があります。言葉にしない・していない・できないことと言葉にする・した・できることと二つに分けるとらえ方とは別のとらえ方、別の言語観があるのではないかと。

 いちおう予定していた5回の勉強会を終了しました。『経験の条件』を読んで発表したり話し合ったりするのはやはりそれなりに難しいことでしたが、あらためて大事なところを見直すことができました。

 今後に向けて汲み取ったことは秘密です。というと冗談のようですが… 例えば、社会性や公共性や政治性が「秘密」にはあると思います。

(原牧生)