ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

4月メモ

ルドン展(三菱一号館美術館

 幻視というのは自分の中の想像や夢想が自分の外に見えるということだろうか。幻覚はおそらくもっと受動的で、視覚的空想力のはたらきの度合いの違いがあるのだろう。壁画に描かれたひな菊など見ていると、サイケデリックという言葉も連想される。そもそもサイケデリックのグラフィックは、(19C)世紀末芸術を参照して影響を受けていた。何となくサイケデリックの方が、受動的であるような気もする。それは大衆化と関係あるのだろうか。

 ゴヤへの尊敬や共感。ゴヤは病気で耳が聞こえなくなったが、そのため内的集中力が強まったのだろう。奇想という言い方もあるが、それは想像が勝手に?動いていくことなのかもしれない。画家の仕事をみていると、描くことが見ることかと思えてくる。

 ルドンの作品は、タイトルが詩の断片みたいに感じられ、この人は視覚イメージだけでなく言語センスの人でもあったのだと思える。マラルメとの親交など知られている。象徴主義というとまさにファインアート、芸術のための芸術という感じもする。それが壁画とか家具とかタブローと別のかたちになっていると、視覚芸術であるだけではない総合性のようなことが実感される。トポスというような感じがする。

 

小林耕平個展(山本現代

 映像出演の山形さんが面白く(もちろん小林さんも面白いが)、二人のコントのようだった。もとが落語や小噺だからか。言葉と現実(もの)の対応が言葉の独走によってずれていき、言葉は言葉じしんの論理で動いていく。詩的論理ともいえるような言葉で対話が続く面白さ。しかし上手すぎるとスノッブに感じられるかもしれない。分かっている人の言葉でなく、共同で探究するような、セッションであるのがよいのだと思う。ものと言葉のセッション。もの(現実)から言葉はずれていくが、その言葉はナンセンスではない。比喩のリアリティというようなことも考えさせる。

 

梅津庸一キューレーション展(URANO)

 「共同体について」。個々の作品が、というより出展作家たちの文脈、それを集めている。例えばパープルームにしても既存の美術大学や教育制度から自らを区別することによって成立した面があったはず。例えばそういった排除の力関係みたいな共同体の条件が、この展示にあるだろうか。

 

wwfesそかいはしゃくち(BUoY)

 4日間の会期の最終日、「ライブ」「クロージング・パーティー」に行った。このフェス(のテーマ)は、「共同体について」という問題設定をさらに更新したものといえそうだ。そこにずっといたらそう思えてきた。パフォーマンスの内容的には、言葉の比重が大きいのが印象的だった。それが、ラップとかブレイクダンスとかヒップホップ的なものともつながっている。ヒップホップは主張が強い文化だ。アメリカ的な、対決によって自己を確認していく共同体形成力がある。即興力が魅力だが、案外様式的にもなりかねない。

 ところで、梅津さんがキューレーションした展示には、ヒップホップ的な強さ(の原理)とは異なる価値観というか、テイストがあったと思う。そこに、「共同体について」のビジョンがあるのかもしれない。

 

(原牧生)