ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

8月メモ

涯の詩聲 詩人吉増剛造展 (松涛美術館

  吉増さんだけでなく、つながりある人たちの作品や資料も展示されている。亡くなっている人がほとんどだが、この場によばれている感じ。また、これまで出版された吉増さんの本を、手に取って読むことができる。落ち着けるところになっている。回顧展のような展示形式ともいえる。この美術館の建築が作用しているのが感じられる。生者のためだけの建築でないような。想起の実在性がつよい。

 スライドショーにもなっていた『長篇詩 ごろごろ』が示唆的だ。奄美・沖縄の旅のなかで書かれたという。日本語といわれているものの遠い記憶が呼び起こされるような。複線的・重層的な表記。何というか音文一致又は声文一致みたいな物質性。日本語の限界ということを考えてみたくなる。

 

頭山ゆう紀写真展『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』 (スタジオ35分)

  中島岳志さんの『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』(2018、筑摩書房)は、過去の人物を扱っているけれど、超国家主義(的なもの)は過去のものではないという動機で書かれた。かつての現場だったところへ行って撮られた写真は、現在が写されているが、見えない過去が写されているようにも思えてくる。作品の写真から四点選ばれて小さな丸いシールにされている。『華厳ノ滝』『ダンスホール新世紀』『大磯の海辺』『青山霊園の一角に佇立する頭山満の墓石』。いずれも人はいない。ダンスホールの写真は内部空間で、光の幻のようだ。滝や海辺は自然の風景で、人間的な歴史と関係なくあるようにもみえる。頭山満は頭山さんのご先祖。この世界この現実を否定あるいは救済する、自然や霊性のようなもの、それらは意識や観念の内部的なものとして敗北し続けてきたが、それでも終わっていない、ということだろうか。

 

内藤礼 明るい地上には あなたの姿が見える (水戸芸術館現代美術ギャラリー)

  感じられるのは繊細な意識で、それはまた、純粋志向というか完全主義的でもあるようだ。会場内全て作品。キャプションもないし、椅子・ベンチ・台座のようにみえるものも作品としてつくられている。小さな窓は、このために壁に穴を開けたのだろうか。自然光だけなのでライトもない。それができる美術館建築をいかしている。全体として、空間にしるしだけがあるような、希薄さとか微かさの演出になっている。現像(develop)されているもののような、潜在的なもののための空間なのかもしれない。特に奥の展示室は、光が静かに行き渡っている感じがした。傾けて並べられたキャンバスが開かれた本のようにみえる。

 

(原牧生)