9月メモ
このイベントは今回で最後といわれている。詩、声の表現に関心をしぼって行ってみた。
9/15 「詩×音楽」
三角みづ紀(詩)、近藤達郎(ピアノなど)/巻上公一(詩)、ヴェルナー・プンティガム(トロンボーンなど)、有本羅人(トランペット)/白石かずこ(詩)、沖至(トランペット)、藤原清登(ベース)
三角さんは何も持たずに立って、慎重に言葉を発している感じ。この詩は即興だろうか。途中で靴を脱いで立っている。外はしとしと雨で、そういう雨の午後に言葉のもの思いをしているムード。言葉の意味をたどろうとしてもはぐらかされるような、隣の席の人はねてしまっていたが、アンビエントな朗読。エコーみたいなエフェクトが必要だったのか疑問だったけど、アンビエント朗読というものの可能性を思った。
巻上さんは声と身体表現の即興。例えば、抽象画がただのなぐり描きでなく抽象画と認められるためには、何か条件がある。それは客観的なものではない。かといって自分における確信だけでもないはず。
声の即興詩はさらに困難だ。一口にボイスパフォーマンスといっても、音響である度合い、言語的分節に近い度合い、など違いがある。後者を使えば音声詩になるとも限らない。巻上さんの場合、それらを次々と組み替えるひらめきの回転力、スピード感、それらひとつひとつのユニークさの強度・完成度、などが感じられる。それは個人的な突破だ。他のやり方もありうるだろう。声の即興詩はマイナー芸術だ。
白石かずこさんは、出てくるとまず英語であいさつしたのだが、この人がpoetryポエトリーというと、poetryポエトリーという言葉がリアルだ。長い紙に縦書きで詩を書いたのが巻物になっていて、それを広げながら朗読。呼びかけ、回想、台詞語りの挿入などが聞き取れる。高齢ということもあるが、浮世離れというか余計なことを気にせずに自分の詩をやっている感じ。でもそこにすごさがある。エゴイズムを超えた詩的自己感の強さ。JAZZ ARTというイベントにふさわしい、もはや歴史性のようなものを感じさせる、ポエトリーリーディング。
ローレン・ニュートン(ボーカル)、ハイリ・ケンツィヒ(ベース)/山崎阿弥(声)、ヒグマ春夫(映像)、花柳輔礼乃(日本舞踊)、坂本弘道(チェロ)
ローレン・ニュートンの声の使い方は割と音楽的に感じられた。だからボイスというよりボーカルなのだろう。音楽といってもいろいろあるけれど、西洋近代的音楽というようなもののなかにある。即興の基礎に声楽的トレーニングがある。
山崎さんは声をより音響的に使っている感じ。発声のテクニックが予想以上だった。
坂本弘道さんによる舞台設定がよかったようだ。舞台背面いっぱいに映像、舞台中央後ろ寄りに山崎さんが立ち、坂本さんは上手端の方で、日本舞踊が舞台上を動く。特に日本舞踊がここに出てくるのは不思議な感覚で、ミスマッチなのか普通にマッチしているのか分からなくなってくる。山崎さんの声は自律的・自立的なものだ。それが活かされる舞台設定だった。さいごに設定が変わってセッションになったが、そこではセッションなのに一人でやってるような感じにきこえてしまう。
SAICOBAB[YOSHIMIO(ボーカル)、ヨシダダイキチ(シタール)、濱元智行(ガムラン/パーカッション)、秋田ゴールドマン(ベース)] ヒカシュー[巻上公一(ボーカル/コルネット/テルミン/尺八)、三田超人(ギター)、坂出雅海(ベース)、清水一登(ピアノ/シンセサイザー/バスクラリネット)佐藤正治(ドラムス)]
SAICOBABは、初めて聴いたが、一曲目からインパクトがあった。特にボーカルの声の使い方。センスとパワー。音楽も気合だなと思った。基本的にフレーズの反復なので、やや単調にきこえるときもあった。
ヒカシューは一騎当千という感じ。かつてテクノポップという言い方があったが、テクノポップらしさは、サウンドもそうかもしれないが、歌詞にあった、とヒカシューを聴いて思う。例えば普通のラブソングみたいな生活感レベルで共感されるようなものとは違う、モダニスム詩のセンスみたいなもの。さいごにSAICOBABのメンバーと一緒にやったが、巻上さんはセッションを仕切るとか共演のステージをつくるみたいなことも上手い。
今月末は、「ユーラシアンオペラプロジェクト2018」の公演も行なわれているが、次に書ければと思う。
(原牧生)