ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

1月(言葉とパフォーマンス)

私の頭の中のメディウム・スペシフィティ (blanClass)

原卓也(パフォーマンス)

 

 藤枝静男の小説『田紳有楽』をテキストとして用い、一部朗読もしている。物が物を演じるという意味として絵具を塗って、川原さんの肉体がメディウムになっている感じがした。パフォーマンスというのはそういうものかもしれないとも思った。

 テキストのもとの小説は、物(陶器)が話したり感じたり経験をしていくという書き方。例えば昔話「さるかに合戦」は、ハチと栗の実と臼が仲間となってカニを助けサルとたたかう。そういうものたち。また、仏教的でもあり、例えば宮沢賢治のいろいろな生き物の童話のような、宗教的な宇宙を語るための寓話のようなお話し。日本の近代文学自然主義的な私小説の私とは別のやり方。

 それはそれとしてパフォーマンスは、物に物を演じさせる私 と 物 との関係から、私と物との関係 と その関係を記述する私 との関係へすすませることを、倫理的問題として扱っていた。それは少し観念的なので表現としては儀式のような感じにみえるかもしれない。

 それから、もとの小説に依存していることと自立していること(パフォーマンスは小説に触発されているが、テキストは台本ではない)、その両面性が未解決な感じもした。

 

Fu  shi  gi  N°5 の居留守 (仲町の家)

向坂くじら、橘上、永澤康太

 

 ちらしのプログラムには、①baby talk ②body to words  etc.とある。①や②は、言葉の手前のようなものだろうか。あるいは言葉にとっての他者性。そういうものを想定し(仮説)、その場でパフォーマンスしてみる(実験)、という趣旨だったのかもしれない。

 実際にやったことは以下のようなこと(だったと思う)。

・二人がディベートのようなことをして、もう一人は離れてそれをみていて時々指示を出して介入する。

・一人が自分のネタのようなことをして、他の二人はそれをみてダメ出しして注文をつけて違うことをやらせていく。

・一人は、テキストをPCで打っていきプロジェクターで見せる。一人は、うたう(歌詞はあってもなくてもよい)。一人は、体を動かして何かする。それらは相互関係があったのかもしれない。よく分からなかったが。

・三人でフリートーク。好きな色を話したりしていたが、急に橘さんが幼児みたいに声を出してふるまい他の二人が応答するという場面もあった。

etc.

 即興の言葉のセッション。わけのわからない主張にわけのわからない主張で対抗する、ナンセンスな議論。言葉と現実のずれを無理やりこえさせる、いわゆる無茶ぶり。等々。言葉がつかわれているということはどういうことなのかが、あぶり出されている気がした。

 

パリドライビングスクール (ユーロライブ)

テニスコート神谷圭介、小出圭祐、吉田正幸)、山口ともこ(ゲスト)

 

 ナンセンスコメディという感じで、演劇として台本と演出があり練習している。即興より出来不出来の評価がはっきりしやすい一方、枠を共有しやすいからより多くの人がみにきやすいとも思う。

 最初の場面はパリドライビングスクールだが、パリという言葉から連想の逸脱を重ねたようなナンセンスな設定になっている。それでも設定というのは意味をもちやすい。途中、そこから逃げ出せない狂気の館みたいになってきて、ほんわかコメディがホラーものになりかけると、パリドライビングスクールは何か寓意のようなものになりかねない。しかし、そうしないように、物語からずれていく。物語に対する非同一性に言葉の技があると思う。

 言葉をつかうことには規則のようなものがある。言葉をつかうこと、つまり規則をつかうことは、規則に導かれるということでもあるだろう。進行と同時に先取りがある。それが文脈の先端だ。先取りを同時に回収することが意味の感覚なのだろう。導かれた先取りを外すと、分からなくなる。だが、そこでおかしくて笑ってしまう場合もある。それが問題だ。とはいえ実際は、コントという文脈でギャグだと思って笑いで反応しているのかもしれない。しかし、演劇という枠の中であっても、いかに予期外にナンセンスできるかは、時間を忘れて笑っていられるかの実験なのだと思う。

 

邦楽番外地vol.7  (シアターX)

土取利行(歌・演奏・トーク)、いとうせいこう(ゲスト)

 

 土取さんの三味線弾き唄い、いとうせいこうさんのポエトリーリーディング、さらに土取さんのパーカッションといとうさんのラップとのセッション… トークの時間も長く、唖蝉坊の時代の芸や文化を担った人間関係など、土取さんの歴史の造詣が深い。そして、(関東大震災前の)社会主義者アナーキストに言及することが多かった。舞台での演奏も、政治的メッセージ性があるものが多い。デモの現場でやるようなラップを舞台で成り立たせられた、そういう場を土取さんがつくれていたといえるのだろう。インプロビゼーションアナーキズムの関係について考えさせられる。

 

(原牧生)