ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

10月(文脈を再編成する)

岸田劉生展 (東京ステーションギャラリー

 

 岸田劉生の絵は昔からスタンダードに見ることがあったが、以前の印象は何だか暗い感じで、どこがいいのかつかみかねていた。天才を理解できるのは天才だけだという意味のことをガートルード・スタインが書いていたが、そういうことなのだろう。年譜的なことを知り、時代的歴史的なことを思いながら、今見ると、38年の間に一人で何周も先を走って次々やっていたのかと思えてくる。デューラーや北方ルネサンスにしても東洋絵画にしても。伝統回帰というようなことではなく。

 今回の展示では、一連の油彩静物画に感銘をうけた。写実絵画の次元の高さを感じられる。宗教・信仰としてもとめることと芸術・創作としてもとめること、その関係を考えさせる。直接聖書にもとづいて描かれたもの、W.ブレイクを連想させるようなものもある。だが一方、絵が売れるようになってお金ができると道楽で遊んだりコレクションしたりしていたようで、そういう人間性も興味深く思えた。

 

東京計画2019 vol.4  scratch tonguetable (GALLERY αM )

ミルク倉庫+ココナッツ

 

 ギャラリーの中に鉄パイプでやぐらのようなものが組まれ、その上に仮設の調理場が設営されている。調理台、流し台、調理器具等々そろえてあり、上下水道の塩ビ管がギャラリーの床をはい、壁を突き抜けて外に通じている。まわりの壁面に様々な料理のレシピ、実際に作ったその料理が展示されている。

 本展は「東京計画2019」というシリーズの一つとしてキューレートされたもので、展示のレシピにはその問題意識に応答するようなアイデアやコンセプトが文章化されている。そこに作品性があるといえるかもしれない。しかしそれ以上に、料理を展示するためにギャラリー内に調理場を設営し会期中そこで料理をする、というやり方がいいと思う。

 料理の技術、工事の技術、それらの技術じたいはアーティストでなくても多くの人がもっている。だが、それらの技術をこのように使う、というのはアーティストの立場だ。「ミルク倉庫+ココナッツ」は、それらの技術を自分たちでもっていて、料理作りを、それを支えるインフラ作りからやってみせた。料理とか工事とかアートとは限らない技術を展示する、展示の技術はアートの技術であろう。みせる/みせない、のやり方など。期間中ギャラリーで料理(展示物作り)をしていても、それは作品の公開制作とは違うであろう。アートの枠にとらわれない、技術の再編成のようなことを考えることができた。

 

Strange Green Powder  (豊島区立目白庭園赤鳥庵)

神村恵(振付・演出、出演)、武本拓也(出演)、高木生(音楽)、ミルク倉庫+ココナッツ(美術)

 

 茶室は、障子・ふすま・ガラス戸に囲まれ、仕切られていて、それらを開けたてすることによって、場が開いたり閉じたり、空間が変わる。場所の使い方が効果的。途中から、パフォーマー相互の距離が大きくなり移動も増えて、それまで畳に座って見ていた観客たちも立ち上がってあちこち動くようになる。視点あるいは視線の不確定、というだけでなく、何か空間をトポロジカルに経験しようとするような感じがあって、そのへんがいちばんよかった。ダンスの即興とか音楽の即興とか前もって名付けられるようなものではなく、何といったらいいか分からないようなものが即興されることが、即興の面白さの可能性なのだろうと思える。登場時の三人の衣装も印象的で、かっこよくしないかっこよさのセンスのようなことを思った。

 

ガッシュケラント  (楽道庵)

山本謙、津田犬太郎、姫凛子、大隅健司、吉松章

 

 身体を使い、声を使い、言葉、衣服、その場にある物なども使っての、集団即興パフォーマンス。他の人に絡むことが場を展開させていく。絡みの距離感が近いことが多く、他人との安全を確保できる心理的あるいは身体的距離みたいなものを越えていく。存在の過剰さのようなものが感じられる。それがあれば即興は成り立つのだと思う。とはいえ、絡み方の即興、発想力や実行力、にはパフォーマーの経験知が感じられる。こういうレアなものをできる人の集まりを作れたというのがすごい。

 

即興音楽の入門と応用  (ART×JAZZ M’s)

工藤遥、仲山ひふみ、細田成嗣

 

 『フリー・インプロヴィゼーション聴取の手引き』(ジョン・コルベット工藤遥訳、カンパニー社)の刊行にちなんだトークイベント。即興について考える手がかりを期待して行ってみた。前半は本書の内容紹介やコメント、後半はそこから展開させた話。レジュメや話の感想だが、本書は、啓蒙的あるいは教育的とでもいえるかもしれない。能動的に聴くということが具体的に提案されていたと思う。文脈を知る、相互作用のあり方に注意する、途中で聴くのを止めることもできる… (こういう本の助けをかりたりして)自分で聴く。(自動的に感情移入されるような音楽とは異なり)自分で聴くことができるということは、聴く自由なのだと思う。

 コーネリアス・カーデューらの集団即興が取り上げられたのが印象的だった。そこから、文脈を再編成するというようなことについて考えさせられる。即興はもともと昔から普通にあったし今もあるものだと思う。だが一方、20世紀の芸術の前衛や実験という文脈において、即興はそれじたいに自律・自立した。そして、即興(音楽)は、人間が楽器を演奏することだけでなく、装置、インスタレーション、フィールド(レコーディング)といった領域へまたがっていく。すでに文脈は変わっているともいえる。即興(音楽)の今日的な政治化はありえるのだろうか。1960・70年代には可能性があったみたいだが。ありえるとしたら、多分まるで別のもののようにみえるのだろう。

 

(原牧生)