ポリ画報通信

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11月(作品にしない倫理)

DECODE/出来事と記録 – ポスト工業化社会の美術 (埼玉県立近代美術館

 

 やろうとしたことがいろいろあって、詰め込まれた企画だ。

・作家関根伸夫の、もの派だけでない文脈を示す。

・実物が残っていない作品を、記録や資料によって展示する。

 そのために、写真、映像、あるいは再制作を展示する。作家の展示というだけでなく、

 研究プロジェクト(もの派アーカイヴ)の展示という面もある。

 また、写真については、写真が紙のような物であることを前景化した展示もある。

・もの派という文脈を捉え直す作品展示。もの派という文脈に対して、より大きなポスト工業化社会という文脈を提案する。

 関根伸夫が、個人の空想的ともいえる思考をノートに書きためていたのが印象的だった。「位相-大地」は、地面に穴を掘って地表の内側のものを外側に出していくと最終的には内側と外側が入れ替わる、内と外が裏返される、という思考実験に基づいていたそうだ。トポロジカルな操作だから、位相というタイトルだったのだ。もの派の文脈とはちょっと違うものが含まれていたと思える。そういうことを初めて知り、また、映像版で実際の大きさや穴と土塊の位置関係などもよく分かった。

 もの派といわれる作品の多くは、作品として残されなかった。だから記録や資料の展示になるのだが、そもそも作品として残っていないということ自体が、何か考えさせると思う。その頃は、作品として残そうとしていなかったといえるのではないか。そこに、今では忘れられた可能性があったかもしれない。作らない。作者性や、芸術に関わる制度的なものを問題化する。ひとりで考える手作りの思考。作品というより状況。ものによる行為のような。本展と直接関係はないが、そういう可能性は保存されてほしい気がする。

 

subjunctive mood lesson(仮定法のレッスン)vol.2 (三谷公園)

前後(神村恵+高嶋晋一)

 

 TERATOTERA祭り2019参加のパフォーマンス。ホワイトボードにいくつか書かれた言葉から観客が一つを選ぶ。それをやってみるというもの。今回は「存在」だった。他の言葉も観念をあらわすようなもので、本当は分かっていなくても割とよく使われる言葉だ。「存在」を選んだ人は、ある人が何かについて、意味なんかないただの存在だよ、と言ったのが印象に残っていて、「存在」を選んだそうだ。それにしても、現代美術のパロディのようになりかねない、扱いが難しい言葉だ。だが、それに正面から取り組んでいた。用意してきた物を置いたりいじったり。そして行為と並行して考えを話し合う。共同の探究。

 何かをやってみて、それを見直して、そこで見つけたり気付いたりする。その言語化にスリルがある。例えば、一人は単体で置き、もう一人は二つ重ねて置く。二つ重ねた方が存在が意識化されるかもしれない。しかし、単体といっても地面の上に人工物を置いている。それだけで十分意識化されるのではないか。というようなことを話し合ったり。地面に対して置く物が人工物か自然物(野菜など)かの違い、異質な物を間にはさんで浮かすという置き方、重ねた物の類似と相違に関する観察。などが話されたり。即興で進めていたと思うが、話を急に変えて、自分(という身体?)の存在を持ち出したことによって、パフォーマンスとして展開(転回?)した。ひらけていること、隠されていること、むき出しにすること、隠すこと、などに関わる対話があり、存在と存在感の違いが問題になったりした。パフォーマンスは知覚感覚を介在させるものなので、存在感と切り離して存在を扱うのは難しいような気もする。最後に、たわしとはけをすり合わせて、打ち消し合わせる、というパフォーマンスで存在が示された。道具として使われていてかつ使われていない、というようなことだろうか。答えを出す、というところまでいちおういったと思う。

 ホワイトボードには「問題」という語もあった。あらためて思えば、ホワイトボードの語はいずれも、いわばお題のような、問題だったといえる。問題としての語群の中に、「問題」というそれだけ他とは立場が違う語が混じっているのが面白い。もしこの語が選ばれたら、「問題」が問題になったら、観客に問題を選んでもらってそれをやるという、つまり問題の語をタスクのようにすることによって恣意性や無根拠性が回避されている、このパフォーマンスの設定自体に関わるパフォーマンスになるだろうか。

 

(原牧生)