ポリ画報通信

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2月(タイトルされるもの/タイトルするもの)

岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ (豊田市美術館

 

 答えを出す、というのが四谷アートステュディウムのテーゼのようなものとしてあったと思う。本展は、岡﨑さんはこのように答えを出してきたということを見せている。答えの出し方は発明的だ。技法、素材、構造、形式等々の。例えばD.ジャッドは自分の作品を彫刻から区別していたが、そういうのも発明的な答え方だったと思う。

 会場に入るとまず、『あかさかみつけ』など初期のレリーフ作品がずらっと並んでいるのに驚いた。最初から答えを出していたのだろうか。レリーフというものの再発明。絵画のように繊細な色使い、壁面に取り付けられ正面性のようなものもある。立体物としては、コンストラクションといえるかもしれないが、発想は建築関係らしい。シンプルな形体で複雑な構造。一つ一つ見ていくと反復をあまり意識しない反復シリーズ。

 一階には1992年に制作された平面作品も展示されていたが貴重な出展だ。その後のペインティングの大きな開花を思えば、このとき大発明があったといえるだろう。偶然のしみのように見える形を型のように扱う技術が発明されたのだと思う。新しい展開。それまでは、服の型紙を手がかりに、形の素のパタンを重ねたりして空間を作る、というような方向だったと思う。三階に、1979年制作の、型紙に基く作品が展示されている。展覧会の文脈にとって意味があるからこそ出展されたのだと思う。本展では90-91年制作の立体作品まで、この原理が見られると思う。それから、一階の一室でプレゼンされていたように、ブルネレスキやマサッチオの発明を今日に蘇らせる再発明が展開する。また、この90-91年の作品には、長い文のタイトルが付けられている。タイトルを、それ自体言語作品といえるほど構造化するという発明も、この頃なされていたのだと思える。

 二階に展示されたセラミック作品も発明的だと思う。どうすればこうなるのかと思ってしまう。いつも絵具を自作しているから粘土に顔料を混ぜ込んで色を出すという発想が湧くのだろうか。異種の技術を越境的に使う。裁縫の技術を使って美術を作るとか。それにはその技術の本質へのセンスが必要と思える。タイルを使うというのもそうだと思う。

 一階に展示されていたドローイングは文人画という言葉を連想させる。だがこれらは、共同開発の発明によって制作されている。その発明とは一種のロボット、というと人間に代わって絵を描く主体のように思われるかもしれないがそうではなく、任意の人にその絵を描かせる装置、だと思う。ひとりでに手が動くみたいな、憑依の感覚を起こさせる、というのが研究課題だったのではないだろうか。作品を作るのは作家の主体というより何か憑依するようなものなのだろう。

 一階のドローイングは反復的で三階のポンチ絵は想起的だろうか。ポンチ絵は支持体の紙が破かれてめくれていたり重ねられていたりレリーフ的でもある。イメージの現前性が障害されるような感じ。

 ポンチ絵の近くにあるタイル作品は水平面で流動感があり、うち一点は2011年の制作でタイトルをみても洪水を思わせるものだ。本展の作品はいずれも自律性が高いが、これだけは震災との関係を感じる。

 言葉にも(にこそ)カイソウがある。タイトルと作品の写像的関係。タイトルの言葉(テキスト)の構造と作品構造の同型性。構造(言葉と言葉の関係)だけでない。言葉の意味にも意味がある。そういう作品のあり方は、やはり発明的だ。詩画一体のような自律性。高度な言葉の技術、マニエリスム的とでもいえそうな。タイトルは、一般的には、それが何なのかの表明、あるいは、名・名付けになる。そのことは社会的・政治的でありうる。こういうタイトルのあり方は、答えもしくは答え方の発明だと思う。

 三階に、「マルチアクティビティ」という括りのコーナーがあったが、岡﨑さんの仕事をトータルでみれば、マルチアクティビティこそが本領だといえるだろう。灰塚とか四谷とか、そのほか様々なプロジェクトへの関わり、執筆批評活動etc. 近年多分今後は、先月公開研究会がひらかれた「かがく宇かん」が重要なのだろうと思う。

 

(原牧生)