ポリ画報通信

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3月(社会の不自由を生きる)

背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和  (練馬区立美術館)

 

 閉まっている美術館が多いなか津田青楓展を見に行った。背くとは上手い言葉を見つけたと思う。タイトル通りの内容で、展示資料によって時代的理解が深まる。

 まず、図案画、刺繍、装幀など、デザイン・工芸的な仕事がある。図案をしていたのは十代から二十代だ(刺繍は三十代)。図案画はモダンだったと思う。職人的な染織図案の技術と、小美術、レッサーアートという近代芸術的な感覚。この時代にこのような達成があったのだ。見ることができてよかった。

 青楓が日露戦争の体験を書いた『白樺』(1915年)。また、1920年代のポスター(「反軍国主義週間」「現行検閲制度反対週間」etc.)など歴史を語る資料が貴重だ。晴楓は、日本画を学び、さらに洋画を学び、渡仏もして二期会の創立メンバーになり、1920年代には四十代だが洋画家として有力だったようだ。自分の画塾も始めている。そういう時期に河上肇と交友したりもしていた。1931年には『ブルジョワ議会と民衆生活』という絵を描いてタイトルを変えさせられる。

 津田晴楓画塾の展覧会ポスターや塾生の絵の展示も興味深い。この頃は五十代だ。下郷羊雄は抽象画を描いている。北脇昇やオノサトトシノブの絵もある。教育者というだけでなく教育事業家としても手腕があったのかもしれない。

 『犠牲者』を描いた1933年、晴楓自身も取り調べを受ける。その当時の新聞記事(下郷羊雄スクラップブック)の展示もある。生々しい資料だ。プロレタリア芸術・文学などはどんどん弾圧され、晴楓は洋画をやめ画塾もやめて南画・文人画的な方向に向かい良寛にはまる。とても考えさせられる展開だ。南画や文人画に政治性がないとはいえない。むしろそういう伝統がある。だがそれも考えさせられるところだ。良寛は宗教者だが世俗を離れただけでない民衆性がある。そういうのは示唆的なのだろうと思う。晴楓は98歳まで生きた。本展の問題提起は実に今日的だと思う。

 

夜空文庫 - 『プロジェクト宮殿』によせて (路地と人)

 

 人が集まるという社会生活の基本が、今大きく制約されている。いつまで続くのか先が見えない。「路地と人」に「夜空文庫」が開かれたのは、お彼岸の連休の前、何かと中止や延期が多くなった時期だった。企画の紹介は「路地と人」のサイトに出ているが、閉塞感の状況に対して、変えるための提案をした。短期間でも意味あることだったと思う。

 場所を開く、文庫を開く、とはいえ、イベントと違って人を集めない。人が行けるところを開いたが人が集まらなくていい、という両義性がポイントだと思う。ツイートを見ると、無人の場所というイメージもあったようだ(企画者の原田さんがいるのは別として)。無人状態で本の貸出しもできるようになっていた。人類学でいう沈黙交易(共同体と共同体の境界)の場所を連想するようなところ。人が、想像や思考、物語的なものを贈与する、社会のなかの裂け目のようなトポス。架空の拠り所。

 二週間前がずっと前に思える。三月末現在ではこのような企画ですら難しい自粛の状況。新型コロナ以降の社会において、このような試み・発想には、別の現実を開く可能性があるような気がする。

 

(原牧生)