ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

9月(過去を見直す)

連続対談「私的占領、絵画の論理」第3回 (ART TRACE GALLERY)

永瀬恭一/辻可愛(パネリスト) 一人組立(永瀬恭一)×ART TRACE(共同企画)

 

 企画の永瀬さんが、辻さんの作品紹介、彼による見どころの説明、ポイントに関することのインタビュー、をしていくもので、2013年の展示から順に作品を見ていった。通して見ていくと、何を描こうとしていたか、あるいは、何をやろうとしていたか、作家の考えが絵の描き方とか絵の雰囲気になっているように思える。

 例えば、(目に見える対象として)対象化されないもの、されないことを描く、ということがある。

人物のポーズそのものというより仕草などの動きの前後を感じさせること。

物語としての時間の長さのない予兆のようなシーン。

事件・出来事を扱う場合、一つの物語に回収されないように描く、異なる複数の空間・異なる時間を描く(永瀬さんがとりわけ評価されていたところ)。

日常にあるちょっとした感覚(視覚だけでない)をいろいろ捉えること。

空気中のちりの見え方(光が当たると見える)とか虫の毛に触って何か感じられるかとか自分で捉えられない感覚。(抽象。)

 辻さんの制作に関係するエッセイというか喩え話によるステートメント(出来事とその描写をテーマとしていたような文章)の朗読もあった。また、それがあったら出来事が起きたかもしれないが、なかったので出来事は起こらなかった、その、それがなかったことを描く、ことについて考えた、みたいな話など。

これまで壁画の取り組みがあったが、今も、大きいものを描きたいとのこと。

俳句の活動も取り上げられ、余白や(情報の)圧縮などは絵と共通しているそうだ。

他には、色使い、染み込ませるような描き方のことなどが話された。

辻さんの絵をまとめて振り返り見直すことができたし、永瀬さんがそれらの絵を独自に見出されたということは価値あることだったと思う。

 あらわれているそれではない何かを感じさせるということは、(広い意味での)言語の問題を考えさせる。予感とか予兆とかが、物語未然のシーンのように描かれうるとしたら、思い出せない物語、忘却、記憶喪失、何かあった(はず)と思うのに思い出せない、といったことと言語の関係も考えられるだろう。(失語症はそういう関係の一つかもしれない。)暗示というほども示されない、余韻、余情、余白のようなもの。思い出せない夢、想起から逸れていく感じ、意識をかすめる動き、かろうじてわずかなイメージが意識できる記憶に残る。それは比喩という表現手段になるだろうか。

 

 

映画の襞をめくれば 第3集 第1回 (Art×Jazz M’s)

ぱくきょんみ(講師) 佐々木智子・中涼恵(企画)

 

 ぱくさんの講座は、四谷アートステュディウムからつながるもので大事にしたい企画だと思う。今度の参加者はこれまでとは違う人が多かったと思う。

 映画は、殺害事件を実行した元マンソン・ファミリーの三人の女性が、事件の後刑務所で教育係の女性と対話していく、いわばその後の彼女達と、それまでの彼女達、事件に至るまでのコミューンでの彼女達の経験(回想のようであったりなかったりする)を、交互に描いている。

 映画を思い出して振り返ると、カーリーンという教育係の存在感も大きく、どうしてあそこまで深く関わった(関われた)のだろうとも思うし、彼女達との関わりにおいてマンソンと対比的に描かれていたようにも思えてくる。

 ぱくさんや他の人達の話を聞いていると自分では見落としていた多くのことに気付くことができて、こういう会のよさを感じる。

 マンソンは、ビーチボーイズのメンバーとの付き合いから、自分の音楽でビートルズのようになるという誇大妄想的な期待をもつようになる。それが現実(プロデューサー)に否定されて、反動的に自分の思い込みを強める。それからコミューンの人達を巻き込んで集団的な狂気とでもいえるような事態へ進んでいく。

 排他的な思い込みを強め外部に憎しみを投影するようなことは一般的なことでもある。この映画は、対話によって、思い込みに生きている人に自分で考えさせようとするカーリーンの努力を描いていた。自分で考え始めると不安や虚無感のような苦しみが生じるし、考えさせる方も苦しめることに心が痛み悩む。救われなさを生きる尊厳のようなことを考えさせる映画だったと思う。

 

(原牧生)