ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

11月(無意識の触覚)

伊藤隆介「Domestic Affairs」 (児玉画廊kodama gallery)

 

 これらの作品は、特撮セットを精巧に作動している模型にしたようなものなのだろうと思う。撮影で得られる動画イメージを見ることと、そのイメージを作っている装置が作動しているのを見ることを、同時に体験させるものだ。模型工作の技術とアイデアが現代美術になっていることや、何というか映像作品にしない映像の使い方みたいなことが、自分としては興味深く思えた。

 展示作品は二つシリーズがあって、一つは、前面から覗き込むようになっている家の模型。奥面が小さなモニタ画面で、それには室内調度と男女二人が映っていて、そして家の中は火事のように火が燃えている。観客からは二人は火の中にいるように見えるが、映像の二人にとっては、炎は存在していないような感じだ。観客にとっては、何か男女の心理的ドラマの無言劇みたいなシーン、それが炎の中という異常なイメージ、になっている。このシリーズは三点あって同じ人物が映っており、ストーリー性があるのかもしれない。内閉したあきらめみたいな雰囲気。だが同時に、火が燃えているように見せる模型の仕掛け、水蒸気を煙のように見せる仕掛け、あるいは、映像の炎と模型の炎がそのまま並んでいるギャップ、いわば現実の継ぎ目があらわにされてもいる。そういう分裂的な感じがよかった。

 もう一つのシリーズは、カメラの素子みたいなものが組み込まれたセットで、ギャラリーの壁面に映像が映されている。モーター仕掛けで工場のロボットみたいに規則的な動きを繰り返し、セットが自動的に展開して映像が移り変わる、というのが繰り返される。これも何というか自己分裂的な不気味さのようなものが感じられた。このシリーズも三点あり、セットにはそれぞれ何かあらわしている意味があるのだろうが、機械による繰り返しは意味を超えた無意味さを感じさせて、それもよかったと思う。

 

 

ジェイ・レヒシュタイナー Jay Rechsteiner 「Bad Painting」 (KOTARO NUKAGA)

 

 人間の人間に対する残虐さを描いている作品だ。一つ一つは比較的小さい(22.7×30.5cm)アクリル画のシリーズで、それぞれに様々な残虐な場面、エピソードが描いてある。プリミティブというかちょっとグロテスクにデフォルメされたようなペインティングで、その上に手書き文字の短文(英語)でその絵の残虐な話が書き(描き)込まれている。二作品(二シリーズ)の一つは七点横並びで、女性への暴行虐待がモチーフ。登場人物は日本人のようだ。もう一つは、七十点以上が大きな三角形になるように並べられている。そのことに特に意味があるのかは分からなかった。日本人から見れば海外の、残虐な出来事が次々並んでいる。背景に戦争状態や暴動状態があるものも多いようだった。

 これらの作品は、UNLEASHED SPEED UNLEASHED SPEECH (MISFITS) という展覧会の出展作品でもあった。その文脈を意識して見ると、見え方が変わってくるかもしれない。この展覧会は、ステファン・ブルッゲマン(1975年、メキシコ、メキシコシティ出身)がキューレーションして、オリオール・ヴィラノヴァ(1983年、スペイン、マンレサ出身)、ジェイ・レヒシュタイナー(1971年、スイス、バーゼル出身)、ガーダー・アイダ・アイナーソン(1976年、ノルウェーオスロ出身)が参加している。現代資本主義・政治システムへの問題意識を感じさせる展覧会だった。

 よく見ると、描かれているのは、集団的になった人間の残虐行為、また、組織になった人間の残虐行為、などであるようだ。個人の暗い欲望としての残虐性みたいな捉え方とは違う。これら全てがノンフィクションに基いているかは分からないが、ドキュメント集という感じはする。手描きの絵と言葉は、映像にありがちな真実性の装いとそのあやしさを、いわば回避している。何というか現代の民話(言い伝え)みたいな残虐物語集。物語のようで、これらはみな本当にあったことだと思われる(思える)語り方だ。

 人間の残虐性は様々に描かれてきた。美術史的にはゴヤなど思い付く。社会問題の残虐性をシュルドキュメンタリー(シュルルポルタージュ)の手法で描いた山下菊二の絵画などもあった。レヒシュタイナーの作品にも現代美術のパワーを感じた。

 

 

岡﨑乾二郎 「TOPICA PICTUS きょうばし」 (南天子画廊)

岡﨑乾二郎 「TOPICA PICTUS てんのうず」 (Takuro Someya Contemporary Art)

 

 このサイズの絵画作品が複数の場所で展示されているということで、そのうちの二ヶ所だけ見に行った。絵の外縁に額のようなものが付いているが、四辺囲んで閉じているのでなく、空き(開き)がある。それによって、絵はそれぞれ独立していても、それだけでないように見える。絵画の空間が限定されない。そして、もっと実体的な、作品の場所も、ここだけではない。空間や場所についての感覚・考えは、著作の仕事でも扱われているが、かなり以前からあったのだと思う。例えば、岡﨑さんがキューレーションに共同で関わった「アトピック・サイト展」(96年)でも、場所は会場だけではないということを行なっていた。ユートピー(どこにもない場所)に対するアトピー(どこであるかを問わない場所)とは、離散的な出現というようなことだったのではないかと思う。

 

(原牧生)