ポリ画報通信

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12月(感想「映画の襞をめくれば」)

映画の襞をめくれば 第3集 (Art×Jazz M’s)

 

 この企画は、講師のぱくきょんみさんが選んだ映画と詩を参加者で鑑賞し話し合う、ということをしている。全四回のうち三回が行なわれ、四回目はこれからだが、ここまで通しての個人的な感想などのこしておきたいと思う。

 詩は、英語圏から女性詩人とその人の詩一篇が選ばれている。詩と映画と直接的な関係があるわけではない。

 映画は、女性の生き方に関わるものといえるが、三回にわたり三本の映画を観てきて、そこに傾向というか絞り方が出ているように思った。欲望とかエロスとかのあり方が扱われ、欲望は社会であり政治であり経済であることが出ている。一人の人の生き方は、個人をこえた欲望の力関係としてある。それで今回は映画の感想を中心にした。

 映画と登場する女性達は以下のようだった。

第一回『チャーリー・セズ / マンソンの女たち』(メアリー・ハロン監督)

マンソン・ファミリー(チャールズ・マンソンのコミューン)に加わり、マンソンの信者のようになった女性たち。

第二回『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ監督)

日本の女子大生。彼氏には隠して、あっせんされた男性の相手をしてお金を得たりもしている。

第三回『愛の嵐』(リリアーナ・カヴァーニ監督)

少女の頃収容所で一人のナチス将校に気に入られ、倒錯的あるいは残酷に扱われていた女性。

 

『チャーリー・セズ / マンソンの女たち』

 彼女達がマンソン・ファミリー(コミューン)と出会ったとき、マンソンは魅力的な人に感じられ、そこは自由な感じがしたのかもしれない。マンソンは人の弱みにつけこむのが上手かったようだ。彼女達は、いわば裸の関係を経験する。傷を隠し合わないとか、自我の防衛が解除されていく。しかしその関係は、マンソンからの一方的なものだった。ファミリー(家族)は、欲望の制度的な場といえるだろう。彼女達は、自由なあたらしいファミリーをもとめたのかもしれなかったが、閉じたマンソン・ファミリーの中で、自ら望んでマンソンに支配されているような状態になっていく。

 自由をもとめた人が隷属をもとめるようになっていく欲望の力関係。

 マンソン・ファミリーは、当初は、同時代のヒッピーのコミューンと似たように、なるべく働かず、セックス・ドラッグ・音楽などをしていた。しかしマンソンは、もともと家族や家庭に恵まれず孤独で犯罪を繰り返して生きてきたような人で、いい意味でのヒッピーらしさと思われるポジティブ性は弱かった。次第に彼はネガティブな妄想を強めパラノイア的になっていく。ファミリーはカルトのようになる。

 信じるということは、良くも悪くも非人間的なことなのかもしれない。

 映画の流れでは、大物プロデューサーに認められて音楽で世に出るという願望が現実に否定されてから、マンソンは敵意を投影する妄想と周りを巻き込む行動に追い込まれていく。ドラッグの影響も示唆されていた。彼女達はマンソンに指示されるまま殺人の実行に加わる。エロスの欲望が生を破壊する欲望に転化する。

 

ライク・サムワン・イン・ラブ

 彼女は彼氏に隠し事をしているが、彼は何かおかしいと勘付いていて猜疑的になっている。あっせんされた男性はちょっと年をとっていて妙に彼女に気をつかう。それは年齢差の不自然という現実のごまかしなのだろうと思う。偶然の出会いから事態はこじれていくが、それはごまかしが破れて現実が明らかになる過程ともいえる。彼氏は彼女と対照的といえるようなキャラクターで、二人はどういう経緯で付き合うようになったのか興味深いほどだ。

 彼は、自分には何がいいのかをはっきりできる人だ。中卒で自動車整備という物に即した実直な仕事を誇りと自信をもって生き生きとやっている。若いのにすでに一人前に自立して自分の仕事場をもっているようだ。価値観はまっとうな人だ。保守的ともいえるが。自分でこうだと思い定めたら、そうしたいし、柔軟になりにくいこだわる傾向もある。多分車が好きだから車の仕事に打ち込めるのだろうし、彼女とは結婚して(家父長的になるかもしれないが)家庭をもちたいと思っている。

 彼女は彼と違って欲望について主体的になれない人のように思える。彼女は、今どきの日本の資本主義社会における欲望のあり方ってこういう感じなのかなと思える人だ。彼女の相手となった男性も、同じような社会層に属している同類の人と思える。

 彼氏の欲望は現実的と思えるが、その現実的ということは、伝統的みたいに欲望が制度化されているということなのだろう。とはいえ彼には力強い荒々しさがあって、何かそれだけでない可能性が感じられた。今どきの日本の資本主義社会は、そういう荒々しさを抑圧あるいは矯正する。彼女達は、その社会に適応している側だ。あるいみ欲望が非現実的だ。

 

『愛の嵐』

 この映画にはオペラの音楽などが出てくるが、ナチスの将校達は芸術を愛好していたようで、審美的態度は彼らのエリート意識の態度でもあったのだと思う。美は人間から距離があるものだ。距離化は疎外にも通じる。ナチスの審美的態度には、疎外されたエロスというのが感じられる。自分は科学のように冷静なポジションで相手をはずかしめるというような、権力と倒錯的エロスの結び付き。

 目を付けられた女性は被害者としか思えない。しかしこの映画は、戦後ナチスの権力はなくなっているはずの時代に二人を再会させ、二人の関係の反復ということを考えさせる。

 元ナチスの将校だった男性は戦後過去を隠して暮らしているが、元ナチスの仲間どうし秘密結社的につながっている。再会した女性は過去を知る人物なので組織的には生かしておけない。しかし彼はそれを受け容れられない。

 収容所では、彼は個人的な欲望のために国家権力を濫用していた。再会したとき、時代も立場も変わっていた。だが彼らにとって、死のプレッシャーは戦中も戦後も変わっていなかったのだろう。彼女は再会した初めは彼を怖れていたが、それは危険という誘惑だった。この危険は死の不安だ。

 死の近さにさらされて、二人は二人の関係に巻き込まれていったように思える。彼らは愛し合っていたといえるのだろうか。私には分からない。彼は裏切り者とみなされ二人とも組織にマークされる。

 監視、包囲(閉じ込め)、銃(暴力)、元ナチスの組織は、ナチス国家のミニチュアのようなところもあった。これも反復だ。この映画には、家族とか家庭とかは登場しない(彼女に夫はあるけれど)。個人どうしのエロスのようにみえる。しかし個人は国家(的なもの)から逃れられない。国家(的なもの)と死の関係をエロスとして体験しているように思える。

 

 欲望とは外部で、欲望は、憑くとでもいうようなあり方なのかもしれない。憑くということは社会的メカニズムだ。そういうものとしての欲望の犠牲に人はなることがあるし、過去から現在まで、欲望の犠牲は女性の方が多いのだろうと思う。

 

(原牧生)