ポリ画報通信

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新内

柳家小春 新内ノ会  (アーリーバード・アクロス)

 

 この日の新内の演目は、「明烏後正夢」(作 富士松魯中、安政四年、1857年)。「明烏夢泡雪」(作・鶴賀若狭掾、安永元年、1772年)の後編ということで、設定を受け継いでいる。春日屋時次郎は、吉原の遊女浦里に入れ揚げて、お金の工面のため不義理を重ね行き詰っている。浦里も、時次郎への情を深めるあまり廓の亭主に逆らい、自分の立場を捨てることになる。実際にあった情死事件をもとに脚色されたそうだ。「夢泡雪」では、浮世に二人の出口はないが、心中はしない。最後に二人とも脱出するがそれは夢であったかのように語られる。「後正夢」では、二人は現実に廓を抜け出たことになっていて、連れ立って吉原から深川猿江の慈眼寺へ、そこで心中するつもりで向かう。道行きという筋立ての型のようなものにのっとって語られる。

 江戸時代のその頃、民主主義的な自由や平等は考えられず、身分差と貧富の差は当然のようにあったと思う。貨幣経済は発達していて、人間は(多分都市であるほど)お金に縛られていた。浦里は社会構造の犠牲だと思える。時次郎は、富裕商人の息子が勝手にお金を使い込んで破綻したと思えるのだが、彼は身の程をわきまえられずに愚かだったのだろうか。しかしどうしてそうなるのか。

 「夢泡雪」は新内を代表する名作とされている。多くの人の心に適う物語だったのだろう。心中は、借金を残して身近な人に被らせるとか、親に先立つ不孝といった、現世の規範や道徳に無責任になることだ。浮世や世間のしがらみからアウトローになること、反社会的といえるかもしれない。それでいて孤独でもなく相互依存的な相手がいる。それゆえに、人々にとって心中は気になることだったと思う。

 新内では、言葉が語られ、うたわれるが、節付けによって、音が引き伸ばされたり、話し言葉とは異なる動きの大きな抑揚が付いたりする。そのために、言葉の音(声)が、文字通りの意味を伝えるだけでなく、むしろそれ以上に情動を喚起する。情動は記憶と隣接している。

 ある程度言語化される想いとしての感情センチメント、身体的ともいえる情動エモーション、感覚的な感じフィーリング、仮にこのように捉えると、新内の声じたいに何か感じるのはフィーリング、物語をしみじみ感じるのはセンチメント、ぐっとくるのはエモーション、といえるように思う。新内語りにはこれらまるごと含まれている。それに細棹の三味線の音色・音楽は「いき」ということの記憶を感じさせると思う。

 人は社会を作って生きているが無意識は反社会的かもしれない。社会の矛盾に対して、死ぬ自由しかないとしたら、無意識の願望はタナトスのようであるだろう。しかしそれはちょっと観念的のようにも思われる。新内のような芸能というものは、観念だけでもなければ心中のような行動だけでもない、心の現実に情動および美意識として働きかける実践なのだろうと思う。

 

(原牧生)