Waiting No Word(ポリ画報vol.2発行関連イベント)
Waiting No Word
ポリ画報vol.2発行関連イベントとして、去る6/6、井の頭公園でイベントを行いました。
しゃべらないイベント
ルールは(ほとんど)ひとつ。言葉を使わない、ということです。言葉を使わず夕方の森に2時間いるので、必然的に何かを待っている感じになっていました。
林の中という環境が良かったのでしょう、話をしないというルールが適用されていたことが、私にはかえって快かったです。話をしていないことに悪意がないということがあらかじめ了承されているばかりか、そこにいる人への配慮でもあるいうことがわかっている状態――こう書くと実は満員電車も同じことになってしまうのですが、無理やり押し込められているのではなく、ある程度自由に動き回れる状態であるということの違いは、言うまでもなく大きいものです。自らの意思でそこにいる、ということ。そうしている人々の集合である、ということ。
「頭の中でも言葉を使わないようにする」
それにしても話をすることが嫌いではないのにも関わらず、普段どれだけ無理して喋っているのだろうとも思います。いっそのこと苔にでもなりたい。
「頭の中でも言葉を使わないようにする」とはこの企画を考えた原さんの言ですが、タイトルからもわかる通り、原さんの念頭にはベケットがあったようです。アイルランドつながりということで、イエイツから引用を。
Fergus. I see my life go drifting like a river
From change to change; I have been many things --
A green drop in the surge, a gleam of light
Upon a sword, a fir-tree on a hill,
An old slave grinding at a heavy quern,
A king sitting upon a chair of gold --
“Fergus and the Druid” William Butler Yeats, 1892
言葉を使わないで自他を把握すること、がもし出来るのであるとすれば、それは実のところそれほど難しいことではないのかもしれません。
Ille. By the help of an image
I call to my own opposite, summon all
That I have handled least, least looked upon.
Hic. And I would find myself and not an image.
“Ego Dominus Tuus” William Butler Yeats, 1917
私は音楽について何ら詳しいわけではなく、その都度耳に入ってくるものに興味を持つ程度ですが、こうして見ると、ColdplayのViva la Vidaなども、類似した関心から作られたものではないかと思えて来ます。世界を把捉する手法に、別の記述体系があること。そしてそれはおそらく通常用いられる言葉の用法よりもメタな方法であること。私たちはその地点にアクセスしやすくなりつつあるのかもしれません。おそらくはツールの発展によって。
なんだかこの記事自体が意識の流れと化して来たので、この辺りで閉じておきましょう。途中いらしてくださった方が非常に話し掛けづらそうだったのが申し訳なく、また印象的でもありました(その節は申し訳ありません…)。
(佐々木つばさ)