言葉とパフォーマンス
幽霊、他の、あるいは、あなた ( DANCE BASE YOKOHAMA )
振付・テキスト・出演 西村未奈、山﨑広太 音楽 菅谷昌弘
当日リーフレットには以下のように紹介されている。
”本作品では、自然の複雑で静的な世界の中で、異なる歴史、知覚、細分化された内部の風景を受け入れることができるフラクタルで気象のような身体の在り方を、山﨑が西村と共有し、それぞれが思う、枠からこぼれ落ちた身体、見捨てられた身体、見えていない身体、そして老いる時間における原風景を模索します。生と死、明と暗、時空間のあわいを隔てなく彷徨うことができる日本人的身体の可能性を再考する第一歩です。”
この作品には言葉が使われていて、言葉を使う(話す)ことが使われているともいえる。作品の外の言葉は作品を暫定的に先取りする。作品の中では、詩として言葉を使うように言葉を使っている。
例えば、散歩先で見かけるおばあさんを語ったりする。語り手は私で、場面を見ていること語ることは私の行為だ。作品の中で話していることは、即興性があるのか分からないが、あらかじめ書かれたテキストをしゃべっているということだろうか。余白が大きいというかテキストがずい分削られて残したところだけ使われているような感じ。
おばあさんと私が同じタイミングでベンチから立ち上がったりする。私(自分)は語るものでおばあさんは語られるものだったが、このとき、私(自分)も語られるものになっている。と思ったら、おばあさんは下を向いて座って本を読んでいる。
錯覚だったのだろうか。しかしその錯覚というのは、私とおばあさんのシンクロ、入れ替え可能性の錯覚だった、と思わされたりする。舞台上の語り手西村さんは女性なので、私とおばあさんの関係は投影のような幻覚(幻視)的みたいなゆらぎも含まれてくる。
それからおばあさんは花だんにいつまでも水やりをしている。それは何というかシュールな感じもするけれど、認知症みたいな老いのリアリズムといえなくもない。
これらは作品の割と始めの方だった。テキスト上演みたいなものではない。言葉と身振りとそれほど付いてない(付けてない)という感じ。言葉とダンスの関係が抽象的。
それから作品の中ほどで、音として聞こえるほど強く息をするところもあった。言葉で伝えられる意味とは異なる意味がある。そのように声を使える。
それから、聴き手に向かって話しかけている話し方があった。客席の観客に向かって。しかし一人で話し続けていると架空の相手へのひとり言のように感じられもする。話の内容は、地衣類だったかの独特な生態。在り方のイメージとして分かりやすかったがちょっと説明的であるような気もした。語りは語りとして相対的に独立しているようにも思える。もしかしたら、およそ話したいことはあったとしても、即興的に話していたのだろうか。
即興の言葉で即興で踊ることが成り立ったら、それはパフォーマンスとしての即興詩だと思うが、すごいと思う。
(原牧生)