ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

新内

柳家小春 新内ノ会  (アーリーバード・アクロス)

 

 この日の新内の演目は、「明烏後正夢」(作 富士松魯中、安政四年、1857年)。「明烏夢泡雪」(作・鶴賀若狭掾、安永元年、1772年)の後編ということで、設定を受け継いでいる。春日屋時次郎は、吉原の遊女浦里に入れ揚げて、お金の工面のため不義理を重ね行き詰っている。浦里も、時次郎への情を深めるあまり廓の亭主に逆らい、自分の立場を捨てることになる。実際にあった情死事件をもとに脚色されたそうだ。「夢泡雪」では、浮世に二人の出口はないが、心中はしない。最後に二人とも脱出するがそれは夢であったかのように語られる。「後正夢」では、二人は現実に廓を抜け出たことになっていて、連れ立って吉原から深川猿江の慈眼寺へ、そこで心中するつもりで向かう。道行きという筋立ての型のようなものにのっとって語られる。

 江戸時代のその頃、民主主義的な自由や平等は考えられず、身分差と貧富の差は当然のようにあったと思う。貨幣経済は発達していて、人間は(多分都市であるほど)お金に縛られていた。浦里は社会構造の犠牲だと思える。時次郎は、富裕商人の息子が勝手にお金を使い込んで破綻したと思えるのだが、彼は身の程をわきまえられずに愚かだったのだろうか。しかしどうしてそうなるのか。

 「夢泡雪」は新内を代表する名作とされている。多くの人の心に適う物語だったのだろう。心中は、借金を残して身近な人に被らせるとか、親に先立つ不孝といった、現世の規範や道徳に無責任になることだ。浮世や世間のしがらみからアウトローになること、反社会的といえるかもしれない。それでいて孤独でもなく相互依存的な相手がいる。それゆえに、人々にとって心中は気になることだったと思う。

 新内では、言葉が語られ、うたわれるが、節付けによって、音が引き伸ばされたり、話し言葉とは異なる動きの大きな抑揚が付いたりする。そのために、言葉の音(声)が、文字通りの意味を伝えるだけでなく、むしろそれ以上に情動を喚起する。情動は記憶と隣接している。

 ある程度言語化される想いとしての感情センチメント、身体的ともいえる情動エモーション、感覚的な感じフィーリング、仮にこのように捉えると、新内の声じたいに何か感じるのはフィーリング、物語をしみじみ感じるのはセンチメント、ぐっとくるのはエモーション、といえるように思う。新内語りにはこれらまるごと含まれている。それに細棹の三味線の音色・音楽は「いき」ということの記憶を感じさせると思う。

 人は社会を作って生きているが無意識は反社会的かもしれない。社会の矛盾に対して、死ぬ自由しかないとしたら、無意識の願望はタナトスのようであるだろう。しかしそれはちょっと観念的のようにも思われる。新内のような芸能というものは、観念だけでもなければ心中のような行動だけでもない、心の現実に情動および美意識として働きかける実践なのだろうと思う。

 

(原牧生)

写実絵画

第97回白日会展 (国立新美術館2A・2B・2C・2D)

 

 白日会展は以前は親せきが絵を出していたので見に行っていたが、今回は最近の写実絵画に関心を持って見に行った。

 写実という言葉から、写生、写真、写像といった言葉が連想される。写像幾何学的な考え方が光学装置の技術で具体化、応用化されてきたと思う。光学的な像をそのまま写し取る、目(網膜)に像が映ることと同じような原理。写真は写像の技術だが、複製技術(複製芸術)であることによってイメージの私物化を浸透させたと思う。写生は、例えば小学校の図画では、実物や実景を見ながら描くことを写生といっていた。写生は見ることと描くことの関係としてある。写実は写像の技術と並行してきた。写真とか映像・画像の影響は無視できない。本物のように見えるというより写真のように見えると感じられるとしたら、そこには何か(昔とは違う)変化がある。細密描写の技術はそれ自体目をひきつけるけれど、そのように描けることは、目的であるだけでなく手段であっていいと思う。写真を見て描くことと写生とには違いがあり、写実絵画にとっては写生的リアリティが大事なのだろうと思う。写生は描く対象と生きた時間のような関係を保たなくてはならないだろうから。

 そして、空間とか構成とかに、何か分からなさがある方がいいと思う。

 写実絵画は見るという欲望を感じやすいと思うので、それについて考えさせられる。写像的な絵は見たいものが分かっているかのような絵だといえるかもしれない。写実絵画の欲望はそれだけでない可能性があるのではないか。

 

(原牧生)

言葉とパフォーマンス

幽霊、他の、あるいは、あなた ( DANCE BASE YOKOHAMA )

振付・テキスト・出演 西村未奈、山﨑広太   音楽 菅谷昌弘

 

 当日リーフレットには以下のように紹介されている。

”本作品では、自然の複雑で静的な世界の中で、異なる歴史、知覚、細分化された内部の風景を受け入れることができるフラクタルで気象のような身体の在り方を、山﨑が西村と共有し、それぞれが思う、枠からこぼれ落ちた身体、見捨てられた身体、見えていない身体、そして老いる時間における原風景を模索します。生と死、明と暗、時空間のあわいを隔てなく彷徨うことができる日本人的身体の可能性を再考する第一歩です。”

 

 この作品には言葉が使われていて、言葉を使う(話す)ことが使われているともいえる。作品の外の言葉は作品を暫定的に先取りする。作品の中では、詩として言葉を使うように言葉を使っている。

 例えば、散歩先で見かけるおばあさんを語ったりする。語り手は私で、場面を見ていること語ることは私の行為だ。作品の中で話していることは、即興性があるのか分からないが、あらかじめ書かれたテキストをしゃべっているということだろうか。余白が大きいというかテキストがずい分削られて残したところだけ使われているような感じ。

 おばあさんと私が同じタイミングでベンチから立ち上がったりする。私(自分)は語るものでおばあさんは語られるものだったが、このとき、私(自分)も語られるものになっている。と思ったら、おばあさんは下を向いて座って本を読んでいる。

 錯覚だったのだろうか。しかしその錯覚というのは、私とおばあさんのシンクロ、入れ替え可能性の錯覚だった、と思わされたりする。舞台上の語り手西村さんは女性なので、私とおばあさんの関係は投影のような幻覚(幻視)的みたいなゆらぎも含まれてくる。

 それからおばあさんは花だんにいつまでも水やりをしている。それは何というかシュールな感じもするけれど、認知症みたいな老いのリアリズムといえなくもない。

 これらは作品の割と始めの方だった。テキスト上演みたいなものではない。言葉と身振りとそれほど付いてない(付けてない)という感じ。言葉とダンスの関係が抽象的。

 それから作品の中ほどで、音として聞こえるほど強く息をするところもあった。言葉で伝えられる意味とは異なる意味がある。そのように声を使える。

 それから、聴き手に向かって話しかけている話し方があった。客席の観客に向かって。しかし一人で話し続けていると架空の相手へのひとり言のように感じられもする。話の内容は、地衣類だったかの独特な生態。在り方のイメージとして分かりやすかったがちょっと説明的であるような気もした。語りは語りとして相対的に独立しているようにも思える。もしかしたら、およそ話したいことはあったとしても、即興的に話していたのだろうか。

 即興の言葉で即興で踊ることが成り立ったら、それはパフォーマンスとしての即興詩だと思うが、すごいと思う。

 

(原牧生)

詩の時間

BEAT AND BEYOND

 

 カフェ・ラバンデリアからビート詩をめぐるトークが配信されている。話し手は詩人のヤリタミサコさん。回ごとに詩人を取り上げ、詩の講読、朗読の動画の視聴などがある。

 第一回(10/24)は、ローレンス・ファーリンゲティ。「飛行機の歴史」。この詩は2001年のテロの後に発表された。その時のアメリカの世論・空気のなかで書かれ、朗読会で読まれ、詩にアクチュアリティがあったということが印象的だった。対立や分断の構図に対して、全く別の見方を考えるユーモア。朗読会の雰囲気は古き良きリベラル(?)という感じだった。

 第二回(11/28)は、民衆の詩(うた)という観点から、ボブ・ディランの詩(うた)が取り上げられた。民衆の歴史として日本の民衆歌も紹介された。「激しい雨が降る」を読み、パティ・スミスによる朗読を聴いたりした。民衆的記憶・民衆的想像力のようなものを媒介していることによって、いい詩なのだと思った。

 第三回(12/12)は、アレン・ギンズバーグ。「死とプルトニウムの詩」。プルトニウムという物質そのものだけでなく、プルトニウムという名前(言葉)がギンズバーグの詩的想像力を喚起させている。プルトニウムは、物質としての作用があり、かつ象徴とか比喩としての作用がある。死の神話的イメージ、利権構造の告発、等々が含まれている。ギンズバーグは、プルトニウムに向かって呪力をかけるように詩をうたっている。原子力の力は悪霊の力みたいなもので、言霊の力でそれをおさえる、というような詩。それはこっけいにみえるだろうか。詩が人のこころに情念的に作用していたら、潜在的な政治的力といえるだろう。詩人(の言葉)をまにうけることができれば。

 「ウィチタ竜巻スートラ」はベトナム戦争中の詩だが、この詩で詩人は戦争を終結する宣言をしている。それをいわせているのは大きな詩的自己感とでもいうようなものだ。悲惨、苦しさ、錯乱、性的な欲動、それらを詩によって聖性に転化させようとする詩人。それらを感じるべきだと思う。

 ヤリタさんは2016年に『ギンズバーグが教えてくれたこと 詩で政治を考える』(トランジスタ・プレス)という本を出している。2020年には柴田元幸さん訳『吠える その他の詩』(スイッチ・パブリッシング)が出た。また、雑誌「新潮」2016年6月号に、柴田さんと村上春樹さん訳のギンズバーグの詩五篇が掲載された。村上さんの訳には村上さんの語り口があるように感じた。

 ギンズバーグの詩はギンズバーグの生きざまであり、その強度もしくは純度みたいなもののレベルは、詩のあり方を考えさせる。

 三回それぞれ、割と長い詩だった。息の長い詩が書かれ読まれるということに静かなパワーを感じる。彼らの詩は声や韻律の力を感じる朗読会の時間として少なからぬ人たちに受けとめられている。長い詩の時間のライブが成り立っているとき、みえていること以上のことが起こっているといえるのではないだろうか。

 

(原牧生)

12月(感想「映画の襞をめくれば」)

映画の襞をめくれば 第3集 (Art×Jazz M’s)

 

 この企画は、講師のぱくきょんみさんが選んだ映画と詩を参加者で鑑賞し話し合う、ということをしている。全四回のうち三回が行なわれ、四回目はこれからだが、ここまで通しての個人的な感想などのこしておきたいと思う。

 詩は、英語圏から女性詩人とその人の詩一篇が選ばれている。詩と映画と直接的な関係があるわけではない。

 映画は、女性の生き方に関わるものといえるが、三回にわたり三本の映画を観てきて、そこに傾向というか絞り方が出ているように思った。欲望とかエロスとかのあり方が扱われ、欲望は社会であり政治であり経済であることが出ている。一人の人の生き方は、個人をこえた欲望の力関係としてある。それで今回は映画の感想を中心にした。

 映画と登場する女性達は以下のようだった。

第一回『チャーリー・セズ / マンソンの女たち』(メアリー・ハロン監督)

マンソン・ファミリー(チャールズ・マンソンのコミューン)に加わり、マンソンの信者のようになった女性たち。

第二回『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ監督)

日本の女子大生。彼氏には隠して、あっせんされた男性の相手をしてお金を得たりもしている。

第三回『愛の嵐』(リリアーナ・カヴァーニ監督)

少女の頃収容所で一人のナチス将校に気に入られ、倒錯的あるいは残酷に扱われていた女性。

 

『チャーリー・セズ / マンソンの女たち』

 彼女達がマンソン・ファミリー(コミューン)と出会ったとき、マンソンは魅力的な人に感じられ、そこは自由な感じがしたのかもしれない。マンソンは人の弱みにつけこむのが上手かったようだ。彼女達は、いわば裸の関係を経験する。傷を隠し合わないとか、自我の防衛が解除されていく。しかしその関係は、マンソンからの一方的なものだった。ファミリー(家族)は、欲望の制度的な場といえるだろう。彼女達は、自由なあたらしいファミリーをもとめたのかもしれなかったが、閉じたマンソン・ファミリーの中で、自ら望んでマンソンに支配されているような状態になっていく。

 自由をもとめた人が隷属をもとめるようになっていく欲望の力関係。

 マンソン・ファミリーは、当初は、同時代のヒッピーのコミューンと似たように、なるべく働かず、セックス・ドラッグ・音楽などをしていた。しかしマンソンは、もともと家族や家庭に恵まれず孤独で犯罪を繰り返して生きてきたような人で、いい意味でのヒッピーらしさと思われるポジティブ性は弱かった。次第に彼はネガティブな妄想を強めパラノイア的になっていく。ファミリーはカルトのようになる。

 信じるということは、良くも悪くも非人間的なことなのかもしれない。

 映画の流れでは、大物プロデューサーに認められて音楽で世に出るという願望が現実に否定されてから、マンソンは敵意を投影する妄想と周りを巻き込む行動に追い込まれていく。ドラッグの影響も示唆されていた。彼女達はマンソンに指示されるまま殺人の実行に加わる。エロスの欲望が生を破壊する欲望に転化する。

 

ライク・サムワン・イン・ラブ

 彼女は彼氏に隠し事をしているが、彼は何かおかしいと勘付いていて猜疑的になっている。あっせんされた男性はちょっと年をとっていて妙に彼女に気をつかう。それは年齢差の不自然という現実のごまかしなのだろうと思う。偶然の出会いから事態はこじれていくが、それはごまかしが破れて現実が明らかになる過程ともいえる。彼氏は彼女と対照的といえるようなキャラクターで、二人はどういう経緯で付き合うようになったのか興味深いほどだ。

 彼は、自分には何がいいのかをはっきりできる人だ。中卒で自動車整備という物に即した実直な仕事を誇りと自信をもって生き生きとやっている。若いのにすでに一人前に自立して自分の仕事場をもっているようだ。価値観はまっとうな人だ。保守的ともいえるが。自分でこうだと思い定めたら、そうしたいし、柔軟になりにくいこだわる傾向もある。多分車が好きだから車の仕事に打ち込めるのだろうし、彼女とは結婚して(家父長的になるかもしれないが)家庭をもちたいと思っている。

 彼女は彼と違って欲望について主体的になれない人のように思える。彼女は、今どきの日本の資本主義社会における欲望のあり方ってこういう感じなのかなと思える人だ。彼女の相手となった男性も、同じような社会層に属している同類の人と思える。

 彼氏の欲望は現実的と思えるが、その現実的ということは、伝統的みたいに欲望が制度化されているということなのだろう。とはいえ彼には力強い荒々しさがあって、何かそれだけでない可能性が感じられた。今どきの日本の資本主義社会は、そういう荒々しさを抑圧あるいは矯正する。彼女達は、その社会に適応している側だ。あるいみ欲望が非現実的だ。

 

『愛の嵐』

 この映画にはオペラの音楽などが出てくるが、ナチスの将校達は芸術を愛好していたようで、審美的態度は彼らのエリート意識の態度でもあったのだと思う。美は人間から距離があるものだ。距離化は疎外にも通じる。ナチスの審美的態度には、疎外されたエロスというのが感じられる。自分は科学のように冷静なポジションで相手をはずかしめるというような、権力と倒錯的エロスの結び付き。

 目を付けられた女性は被害者としか思えない。しかしこの映画は、戦後ナチスの権力はなくなっているはずの時代に二人を再会させ、二人の関係の反復ということを考えさせる。

 元ナチスの将校だった男性は戦後過去を隠して暮らしているが、元ナチスの仲間どうし秘密結社的につながっている。再会した女性は過去を知る人物なので組織的には生かしておけない。しかし彼はそれを受け容れられない。

 収容所では、彼は個人的な欲望のために国家権力を濫用していた。再会したとき、時代も立場も変わっていた。だが彼らにとって、死のプレッシャーは戦中も戦後も変わっていなかったのだろう。彼女は再会した初めは彼を怖れていたが、それは危険という誘惑だった。この危険は死の不安だ。

 死の近さにさらされて、二人は二人の関係に巻き込まれていったように思える。彼らは愛し合っていたといえるのだろうか。私には分からない。彼は裏切り者とみなされ二人とも組織にマークされる。

 監視、包囲(閉じ込め)、銃(暴力)、元ナチスの組織は、ナチス国家のミニチュアのようなところもあった。これも反復だ。この映画には、家族とか家庭とかは登場しない(彼女に夫はあるけれど)。個人どうしのエロスのようにみえる。しかし個人は国家(的なもの)から逃れられない。国家(的なもの)と死の関係をエロスとして体験しているように思える。

 

 欲望とは外部で、欲望は、憑くとでもいうようなあり方なのかもしれない。憑くということは社会的メカニズムだ。そういうものとしての欲望の犠牲に人はなることがあるし、過去から現在まで、欲望の犠牲は女性の方が多いのだろうと思う。

 

(原牧生)

11月(無意識の触覚)

伊藤隆介「Domestic Affairs」 (児玉画廊kodama gallery)

 

 これらの作品は、特撮セットを精巧に作動している模型にしたようなものなのだろうと思う。撮影で得られる動画イメージを見ることと、そのイメージを作っている装置が作動しているのを見ることを、同時に体験させるものだ。模型工作の技術とアイデアが現代美術になっていることや、何というか映像作品にしない映像の使い方みたいなことが、自分としては興味深く思えた。

 展示作品は二つシリーズがあって、一つは、前面から覗き込むようになっている家の模型。奥面が小さなモニタ画面で、それには室内調度と男女二人が映っていて、そして家の中は火事のように火が燃えている。観客からは二人は火の中にいるように見えるが、映像の二人にとっては、炎は存在していないような感じだ。観客にとっては、何か男女の心理的ドラマの無言劇みたいなシーン、それが炎の中という異常なイメージ、になっている。このシリーズは三点あって同じ人物が映っており、ストーリー性があるのかもしれない。内閉したあきらめみたいな雰囲気。だが同時に、火が燃えているように見せる模型の仕掛け、水蒸気を煙のように見せる仕掛け、あるいは、映像の炎と模型の炎がそのまま並んでいるギャップ、いわば現実の継ぎ目があらわにされてもいる。そういう分裂的な感じがよかった。

 もう一つのシリーズは、カメラの素子みたいなものが組み込まれたセットで、ギャラリーの壁面に映像が映されている。モーター仕掛けで工場のロボットみたいに規則的な動きを繰り返し、セットが自動的に展開して映像が移り変わる、というのが繰り返される。これも何というか自己分裂的な不気味さのようなものが感じられた。このシリーズも三点あり、セットにはそれぞれ何かあらわしている意味があるのだろうが、機械による繰り返しは意味を超えた無意味さを感じさせて、それもよかったと思う。

 

 

ジェイ・レヒシュタイナー Jay Rechsteiner 「Bad Painting」 (KOTARO NUKAGA)

 

 人間の人間に対する残虐さを描いている作品だ。一つ一つは比較的小さい(22.7×30.5cm)アクリル画のシリーズで、それぞれに様々な残虐な場面、エピソードが描いてある。プリミティブというかちょっとグロテスクにデフォルメされたようなペインティングで、その上に手書き文字の短文(英語)でその絵の残虐な話が書き(描き)込まれている。二作品(二シリーズ)の一つは七点横並びで、女性への暴行虐待がモチーフ。登場人物は日本人のようだ。もう一つは、七十点以上が大きな三角形になるように並べられている。そのことに特に意味があるのかは分からなかった。日本人から見れば海外の、残虐な出来事が次々並んでいる。背景に戦争状態や暴動状態があるものも多いようだった。

 これらの作品は、UNLEASHED SPEED UNLEASHED SPEECH (MISFITS) という展覧会の出展作品でもあった。その文脈を意識して見ると、見え方が変わってくるかもしれない。この展覧会は、ステファン・ブルッゲマン(1975年、メキシコ、メキシコシティ出身)がキューレーションして、オリオール・ヴィラノヴァ(1983年、スペイン、マンレサ出身)、ジェイ・レヒシュタイナー(1971年、スイス、バーゼル出身)、ガーダー・アイダ・アイナーソン(1976年、ノルウェーオスロ出身)が参加している。現代資本主義・政治システムへの問題意識を感じさせる展覧会だった。

 よく見ると、描かれているのは、集団的になった人間の残虐行為、また、組織になった人間の残虐行為、などであるようだ。個人の暗い欲望としての残虐性みたいな捉え方とは違う。これら全てがノンフィクションに基いているかは分からないが、ドキュメント集という感じはする。手描きの絵と言葉は、映像にありがちな真実性の装いとそのあやしさを、いわば回避している。何というか現代の民話(言い伝え)みたいな残虐物語集。物語のようで、これらはみな本当にあったことだと思われる(思える)語り方だ。

 人間の残虐性は様々に描かれてきた。美術史的にはゴヤなど思い付く。社会問題の残虐性をシュルドキュメンタリー(シュルルポルタージュ)の手法で描いた山下菊二の絵画などもあった。レヒシュタイナーの作品にも現代美術のパワーを感じた。

 

 

岡﨑乾二郎 「TOPICA PICTUS きょうばし」 (南天子画廊)

岡﨑乾二郎 「TOPICA PICTUS てんのうず」 (Takuro Someya Contemporary Art)

 

 このサイズの絵画作品が複数の場所で展示されているということで、そのうちの二ヶ所だけ見に行った。絵の外縁に額のようなものが付いているが、四辺囲んで閉じているのでなく、空き(開き)がある。それによって、絵はそれぞれ独立していても、それだけでないように見える。絵画の空間が限定されない。そして、もっと実体的な、作品の場所も、ここだけではない。空間や場所についての感覚・考えは、著作の仕事でも扱われているが、かなり以前からあったのだと思う。例えば、岡﨑さんがキューレーションに共同で関わった「アトピック・サイト展」(96年)でも、場所は会場だけではないということを行なっていた。ユートピー(どこにもない場所)に対するアトピー(どこであるかを問わない場所)とは、離散的な出現というようなことだったのではないかと思う。

 

(原牧生)

10月(芸術と個人主義)

Hideto AIZAWA –Relief and Sculpture- 相澤秀人展     ( kaneko art gallery )

 

 わりとシンプルな形・色が組み合わさったレリーフ又は彫刻の作品群。木製でサイズは小さめで、角のとれた親しみやすい感じで、クラフト的な仕上がり感といってもいいかもしれない。もっといえば、抽象的な木のおもちゃ、教育玩具的な感じも連想される。

 ギャラリーは、いわゆるホワイトキューブとはちょっと違う。壁面は白いけど純白ではなく、照明もそうで、そのため住宅の中みたいに感じることもできる。ギャラリーのオーナーは作品のこともギャラリーのことも気さくに話してくれる。ギャラリーとしては、普通の家の中にアート作品があるようにしたいので、家の中の壁面に作品がかかっている感じに見える展示の仕方ということも考えているようだった。普通の人に買えそうな価格が付いていたと思う。そう考えると、これらの作品はそういう狙いと相性がいいと思う。

 このギャラリーは、以前は京橋にあって若手向けの貸画廊もやっていた。私が学生の頃そこで友達と展示をしたこともあった。現在は横浜市鶴見にあって、オーナーは以前のオーナーの息子さんということだ。ちょっと感慨深い。以前とは変わっている今の時代に、現代美術のあり方(作品のあり方や社会的受容のあり方)はどのようにありうるのか、どのようにしたいのかを、このように探られているのだなと思った。

 

鶴崎正良新作展 (路地と人)

 

 新作である絵画の展示(・販売)が主だが、鶴崎氏は詩や小説も書いていて、それぞれ小さな本にして展示・販売されている。今回「書簡集」というのも加わっている。絵は風景(阿蘇山など)や家屋(古い倉庫など)を描いた写生的具象画。堅実な構成(構図)で色彩は何となくグレーがかった抑制的な印象だった。高校の美術の教師をされていたそうだ。絵の方は、表立って人に見せ(られ)る仕事、社会的立場のある表現だと思う。詩や小説は私的領域にずい分入り込んだ表現になってくるが、文学形式という枠組みで守られている。しかし書簡集は、手書き文字がそのまま印刷され、気持ちにまかせてそのまま書いたような言葉で、こんな恥ずかしいことを人前に出して大丈夫かと思うようなところもあり、これらを本にしたこと自体何かすごいなと思った。展示の企画や本作りは「路地と人」メンバーである鶴崎さんがしていて、二人は親子だ。今回プライベートな手紙まで目を通して、展示されたもの全体に一人の生きざまがあらわれているのを感じた。こんな生き方もありなんだと思えて、人生観が少し拡がった気がする。

 

豊嶋康子個展「前提としている領域とその領域外について」( Maki Fine Arts )

 

 円形のパーツに扇形のパーツが貼り付けられていて、それが重ねられ(作品によって5~9層になる)、円形パーツの中心にボルトが通って回転軸になっている。彫刻とかレリーフとかいうより、壁面に作品が並んでいるさまは、回転する機械の系列とでもいうような、独特な空間の作動状態を感じさせる。作品一つ一つは自律性がある。作品それぞれのタイトルが、作品に名前が付いてるという感じだ。そして展示全体として、全体化されない大きな機械(機械たち)のようでもある。

 作品タイトル(「地動説2020」シリーズ)からすれば、天体モデル、それぞれの惑星軌道をもった星々の銀河にもみえる。

 そして可変領域。アナログメーターのように可動な円グラフとかの組み合わせ、その組み合わせは無限だ。領域は色分けされていて、自然塗料が使われている。色彩の美しさが作品をいっそう魅力的にしているといえると思う。

 回転機械、宇宙、無限の変化。

 

(原牧生)