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ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

POST/UMUM=OCT/OPUS 展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

POST/UMUM = OCT/OPUS 展

おかざき乾じろ

2016.4.24-10.23  風の沢ミュージアム

 

 風の沢ミュージアムは、岩手県北西部の栗原市にあります。7月23日・24日に、おかざき乾じろさんのワークショップ(実際にはレクチャーのようなもの)があり、それに合わせて行ってきました。東京を離れて旅行という感じです。旅行していてその土地や人にふれていくと、別な生き方の可能性があるということに気付かされ、別な生き方を空想したり考えたりします。この展覧会も、そういう可能性を考えさせるものですが、それが、ラディカルというか、もはや、私の(あるいは人間の)生き方とはいえないかもしれないようなものになっています。

 本展は、大まかには、屋外にあるカボチャなどの空中栽培(支柱や枠組を立てて上にからませ、へちま棚などのように実がぶら下がるようにする)と、屋内展示のドローイングから成ります。ドローイングは、哲学者や芸術家の顔、猫や小鳥や松の木などが描かれています。例えば民画のような愛嬌というか(古典の)漫画にあるような感じ、とか、あるいは、文人画のような感じというか文人画の精神といいますか、そういった複雑なものが感じられます。

 おかざきさんのこれまでの灰塚などでの経験がふまえられた、地元の人が付き合える・親しめる、かつ、前衛的というかパイオニア性があるものだと思います。空中栽培は、アートという文脈なしでも実験的園芸みたいな面白さがあり、近くの人たちも協力的なようでした。ドローイングも、芸術ぶらない近付きやすさがあると思います。

 パイオニア性というのは、作家(私)が作った作品というあり方を変え(やめ)、作品を作家(私)のアイデンティティにしない、作家(私)の存在を変える(なくす)、というところにあると思います。

 作家が作ったのは支持体で、それは、空中栽培の支柱・枠組であったり、以前から共同研究・製作されていた、ドローイングの動きを保存・再生できる、いわば動く支持体であったりします。

 支持体の上に、植物(野菜)たちは、それぞれ自分の判断で行動(伸びていくとか)しています。水やりとか普段の世話も作家の手を離れているでしょうし、作家は初期設定だけして、あとは生成させるというようなものです。ただしかし、この、大きな実がいくつもぶら下がっているイメージには、コンセプトがあるようでした。風の沢のカフェに展示されている一連のドローイングは、それと関係あると思いますが、神話的といいたくなるようなイメージが描かれています。その下に英語の言葉(の文字)が描かれてあって、その文字の線も絵のように描かれていますが、その言葉の意味は空中栽培を含めた展示全体に関わることのように思われました。WSでも、図像的な出どころとか、それに関わることが話されました。そう思って見るとカボチャの見方も変わってきます。

 また、ドローイングに関しては、描画行為の個性・作者性を作家(私)の所有でなくする(その人でなくともその人の絵を描ける)ということなのだろうと思います。もしもそうすれば、それを不死にしたといえるのかもしれません。

 WSのお話しについては、主観的に思い出せることだけ書いておこうと思いますが、自分が受けとめた自分なりに片寄ったものです。

 一日目のお話しは、自然と文化を二分化するようなとらえ方を批判・修整しつつ、最後に、そこからつながって、憲法改定案(前文)から可能性というかツボになるところを読み取る、というようなものだったと思います。

 二日目のお話しは、カルダーの針金彫刻(デッサン)や小川芋銭の絵など印象的でしたが、生物/非生物、人間/非人間といった二分法を書き変える、自分が自分に統合されない、ネットワークを形成させる仕掛けに、(まず政治的な)自律領域の確保(ディスコミュニケーションでもある)が賭けられているということなのだろうと思えました。

 風の沢ミュージアムの向かい側には、大きなくず屋さんのようなところがあって、産業廃棄物を扱っているようです。パンフレットの写真がその眺めをとらえています。現代社会のゴミがさらに解体され、環境汚染的なものやリサイクルできるものなど再編され、あらたな回路がつくられている、と思うと、死と再生の現場のようでもあり、この、不思議なタイトルが付いた、別なネットワークをつくろうとする本展の環境としてふさわしいように思えてきます。

 

(原牧生)