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ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

石川卓磨個展「教えと伝わり」 MOTアニュアル2016 キセイノセイキ

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

教えと伝わり

2016.4.2-5.1  TALION GALLERY

石川卓磨

 

 教えと伝わりという問題設定、とりわけ伝わりということのひき出し方が興味深く思えました。「伝わり」という名詞形のいい方は、非人称的で、送り手と受け手の主体性や意志・能動性があいまいである場合もありえて、潜在的あるいは無意識的である場合もある感じがします。例えば、意識していない影響のようなものは「伝わり」であるように思えます。この展示は、「伝わり」というそれ自体は目に見えないものを外面的にとらえる実験であるように思えてきます。

 ダンスを教える人と教わる人というお互いを意識しながらのやり取りをセットして、それと対比的に、その様子をひとりで見ている人をセットしています。その人は、学ぶように見てくださいというような意味の説明というか指示を始めに与えられるだけだそうです。「教え」は当事者どうしで成り立ちますが、「伝わり」が成り立つためには、その人が関与はしてないけれど関係がないわけではない何かが必要です。この作品の撮影のセッティングは実験デザインとしてうまくできているように思いました。特にその指示の与え方が。放置演出とでもいいたい気がします。それによって、その人は、素ではないけれど演技としてはゆるい状態で、自分でも同じようにやってみるというほど積極的ではないけれど少しそのように動きかけたりすることもある、等々、その人なりに学ぶように見るという内面的なタスクをひとりでこなしていることになります。その身体が撮影された映像をみていると、その潜在性がみえてくるような気がしてきます。ダンスの伝わりが身体にどうあらわれるか、他の人だったらどうか、複数のケースをみられたらそれもよかったかもしれないと思いました。

 

MOTアニュアル2016 キセイノセイキ

2016.3.5-5.29  東京都現代美術館

遠藤麻衣+増本泰斗、小泉明郎、齋藤はぢめ、アルトゥル・ジミフスキ、高田冬彦、橋本聡、藤井光、古谷誠一、ダン・ペルジョヴスキ

 

 キセイもセイキもいくつか同音異義語があります。規制は妥当に思えますが寄生も意外とあてはまりそうです。セイキはキセイのアナグラムのようですが、世紀と生起は同程度のもっともらしさに思えます。

 ARTISTS’ GUILDとの協働企画ということで、企画の立ち上げから美術館の外部の作家が関わっていた異例の企画ではと思いました。ARTISTS’ GUILDはそれなりにメンバーの人数がありますから、団体として関わるというのは実際にはどうだったのだろうとか、美術館とどういう条件で協働したのだろうとか、興味深い疑問がいろいろうかびます。

 横田さんの出展映像は年齢制限があって、それについて説明した紙が貼ってあります。それを読むと、現実の映像を現実として経験するとはどういうことなのだろうと思えてきます。自分に関係あると感じることなのか、他者の存在を実感することなのか。現実についての想像力を使えることが必要なのだろうと思えます。そして、規制というのはそういう想像力に対してかけられるものでもあるようです。

 近年、人を現実に直面させるために現実を提示する、その手法がアートになっている、という一つの傾向があると思います。取材や調査と不可分のあり方で、たいてい映像が使われます。アートは、想像力の使い方を示し、みる人の想像力を動かすものだろうと思います。本展もやはり映像が多いのですが、私にとっては、映像が主でない作品の方が想像力が動かされるというか印象がつよい体験になりました。例えば藤井さんのいわば空白がメインの展示とか。

 また、想像力を使って詩的論理をうみ出す、それをになう言葉の比重が割と大きいアートもあると思います。規制のような制度的な力に対して、人間は昔からポエティック・ライセンスのような可能性を確保してきたと思いますし、それは重要だと思います。橋本さんの作品は、ソフトなインストラクションによってある種のクリティカルな現実に直面させるだけでなく行動化するあるいは行動化を想像させるものだと思います。本展の作品は、ねらいが比較的通じやすそうに思えました。

 増本さんと二十二会(渡辺美帆子・遠藤麻衣)の「へんなうごきサイファー」をみて、この展覧会の中にこういうパフォーマンスがあるのが面白いと思いました。即興が特長だと思いますが、即興だけでなくルールというかタスクみたいなものを決めています。やっていることに自分で決めた合目的性があるともいえます。といってもそれは、へんなうごきをするためのきっかけのような感じです。そのルールは、他の人の動きに応じて自分が動くことになるような仕掛けになっているので、マイルール・マイタスクで動いていても相互作用的に動いているようにみえます。他の人と応酬しながら動きを解発していく自律的な系であることがサイファーなのかもしれません。また、衣装やメイクが演技的というか大まかにいえばおしゃれです。現代アートの拡散という見方もできるかもしれませんが、間接的な共同性、インディペンデントな表現、即興という遊び、などを考えさせるこのパフォーマンスは、キセイ問題に対して応答しているように思えました。

 

(原牧生)