ポリ画報通信

「ポリ画報」の活動、関連情報、ノート

「描かれた夢解釈」展

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

描かれた夢解釈 ― 醒めて見るゆめ / 眠って見るうつつ

2016.3.19-6.12  国立西洋美術館版画素描展示室

 

 ポリ画報vol.3は「transdreaming」というタイトルですが、dream(夢)でなくdreaming(夢みること)が問題であるのがポイントだと思っています。夢みることは、一種の思考、何か想っていること、夢(イメージ)に定着されていない、記憶にのこりにくい、不確定性だと思います。その思考は意識されない記憶の運動で、それが睡眠中はイメージとして体験されているのだと思います。ポリ画報vol.3は、描かれたdreamingであろうとするものでした。そのために、メンバー間で、夢の記述の交換や話し合い、つまり夢を語り合うという過程を設け、夢みることを実験化しました。それを描くやり方も、本当はイメージの再現が目的ではなく、不確定性をトレースするようなつもりで、一本の鉛筆を二人で持って描いたりしてみました。夢みることは繰り返されるので、自分がみた夢を思い出すことも他人がみた夢を想像することも記憶のなかに取り入れられて、記憶イメージとしてのリアリティをもつようになります。

 本展は「描かれた夢解釈」というタイトルですが、作品をみていくと、夢解釈という語の使われ方はそれほど厳密ではないようでした。夢解釈は、夢みたということの意味をもとめようとする、夢みた人に言葉をもたらすことだと思います。本展は、いわば、夢というお題で描かれた作品が多いです。そこに、夢についての画家のイメージや考えが反映され、シュルレアリスム以前、フロイト以前といってもいいのでしょうか、の夢解釈のようなものがあるといえるのかもしれません。

 たんに夢を描いた作品の展示とは違います。画家自身がみた夢から描かれた作品はあまりなかったです。例えば、夢みる人とその夢とが同一画面に描かれた、デューラーやブレイク、クリンガーらの作品があります。そこには、みられている夢のイメージと夢みている人との関係が描かれてあると思います。また、魔法陣のように文字が浮かんでいる幻視のような、レンブラントの作品もあり、それをみている人も描かれてありますが、その空間の描き方によって、それはその人だけがみていることになっているものなのか、他の人にもみえるものなのか、分からないという絵になっています。

 寓意的な図像や物語説明的な絵のような、夢を外側からとらえた作品が多いなかで、ルドンの作品は、夢のようなイメージを内在的にとらえられていたように思いました。聖アントニウスの誘惑というキリスト教の主題をもとに、フロ-ベールが『聖アントワーヌの誘惑』という小説を書いていて、ルドンは人に勧められてそれを読み、そこから連作をつくったそうです。それぞれのタイトルが、小説から引用された言葉なのか、詩行のような感じです。その言葉とリトグラフのイメージとが照応しているようです。他の作家の作品は、夢みるということを観察して描く距離感のようなものがありますが、ルドンの作品は、画家が夢みている、ということが描かれてある、というような感じがします。作品のような夢をルドンがみたのでもフローベールがみたのでもないのですが、フローベールの想像を読んでルドンが想像してつくった作品が、ルドン自身のdreamingであるかのように感じられます。これまでルドンの作品はいわゆる幻想的という感じであまり興味なかったのですが、今回はじめて、詩的であることによって作品が直接的な媒体となり、内的リアリティを感じさせる、ということを思いました。

 

(原牧生)

石川卓磨個展「教えと伝わり」 MOTアニュアル2016 キセイノセイキ

 展覧会をみて思ったことなど書きたいと思います。

 

教えと伝わり

2016.4.2-5.1  TALION GALLERY

石川卓磨

 

 教えと伝わりという問題設定、とりわけ伝わりということのひき出し方が興味深く思えました。「伝わり」という名詞形のいい方は、非人称的で、送り手と受け手の主体性や意志・能動性があいまいである場合もありえて、潜在的あるいは無意識的である場合もある感じがします。例えば、意識していない影響のようなものは「伝わり」であるように思えます。この展示は、「伝わり」というそれ自体は目に見えないものを外面的にとらえる実験であるように思えてきます。

 ダンスを教える人と教わる人というお互いを意識しながらのやり取りをセットして、それと対比的に、その様子をひとりで見ている人をセットしています。その人は、学ぶように見てくださいというような意味の説明というか指示を始めに与えられるだけだそうです。「教え」は当事者どうしで成り立ちますが、「伝わり」が成り立つためには、その人が関与はしてないけれど関係がないわけではない何かが必要です。この作品の撮影のセッティングは実験デザインとしてうまくできているように思いました。特にその指示の与え方が。放置演出とでもいいたい気がします。それによって、その人は、素ではないけれど演技としてはゆるい状態で、自分でも同じようにやってみるというほど積極的ではないけれど少しそのように動きかけたりすることもある、等々、その人なりに学ぶように見るという内面的なタスクをひとりでこなしていることになります。その身体が撮影された映像をみていると、その潜在性がみえてくるような気がしてきます。ダンスの伝わりが身体にどうあらわれるか、他の人だったらどうか、複数のケースをみられたらそれもよかったかもしれないと思いました。

 

MOTアニュアル2016 キセイノセイキ

2016.3.5-5.29  東京都現代美術館

遠藤麻衣+増本泰斗、小泉明郎、齋藤はぢめ、アルトゥル・ジミフスキ、高田冬彦、橋本聡、藤井光、古谷誠一、ダン・ペルジョヴスキ

 

 キセイもセイキもいくつか同音異義語があります。規制は妥当に思えますが寄生も意外とあてはまりそうです。セイキはキセイのアナグラムのようですが、世紀と生起は同程度のもっともらしさに思えます。

 ARTISTS’ GUILDとの協働企画ということで、企画の立ち上げから美術館の外部の作家が関わっていた異例の企画ではと思いました。ARTISTS’ GUILDはそれなりにメンバーの人数がありますから、団体として関わるというのは実際にはどうだったのだろうとか、美術館とどういう条件で協働したのだろうとか、興味深い疑問がいろいろうかびます。

 横田さんの出展映像は年齢制限があって、それについて説明した紙が貼ってあります。それを読むと、現実の映像を現実として経験するとはどういうことなのだろうと思えてきます。自分に関係あると感じることなのか、他者の存在を実感することなのか。現実についての想像力を使えることが必要なのだろうと思えます。そして、規制というのはそういう想像力に対してかけられるものでもあるようです。

 近年、人を現実に直面させるために現実を提示する、その手法がアートになっている、という一つの傾向があると思います。取材や調査と不可分のあり方で、たいてい映像が使われます。アートは、想像力の使い方を示し、みる人の想像力を動かすものだろうと思います。本展もやはり映像が多いのですが、私にとっては、映像が主でない作品の方が想像力が動かされるというか印象がつよい体験になりました。例えば藤井さんのいわば空白がメインの展示とか。

 また、想像力を使って詩的論理をうみ出す、それをになう言葉の比重が割と大きいアートもあると思います。規制のような制度的な力に対して、人間は昔からポエティック・ライセンスのような可能性を確保してきたと思いますし、それは重要だと思います。橋本さんの作品は、ソフトなインストラクションによってある種のクリティカルな現実に直面させるだけでなく行動化するあるいは行動化を想像させるものだと思います。本展の作品は、ねらいが比較的通じやすそうに思えました。

 増本さんと二十二会(渡辺美帆子・遠藤麻衣)の「へんなうごきサイファー」をみて、この展覧会の中にこういうパフォーマンスがあるのが面白いと思いました。即興が特長だと思いますが、即興だけでなくルールというかタスクみたいなものを決めています。やっていることに自分で決めた合目的性があるともいえます。といってもそれは、へんなうごきをするためのきっかけのような感じです。そのルールは、他の人の動きに応じて自分が動くことになるような仕掛けになっているので、マイルール・マイタスクで動いていても相互作用的に動いているようにみえます。他の人と応酬しながら動きを解発していく自律的な系であることがサイファーなのかもしれません。また、衣装やメイクが演技的というか大まかにいえばおしゃれです。現代アートの拡散という見方もできるかもしれませんが、間接的な共同性、インディペンデントな表現、即興という遊び、などを考えさせるこのパフォーマンスは、キセイ問題に対して応答しているように思えました。

 

(原牧生)

Post Studium シンポジウム - デウス・エクス・マキナ、あるいは2040年の夢落ち

 シンポジウムをきいて思ったことなど書きたいと思います。

 

Post Studium シンポジウム –デウス・エクス・マキナ、あるいは2040年の夢落ち

2015.3.27 本多公民館(国分寺市

宇川直宏藤幡正樹、岡﨑乾二郎

 

 このシンポジウムは一般観客に開かれた企画でしたが、話の文脈はポストステュディウム芸術理論ゼミから続いています。パネラーの岡﨑さんの考えは、それ以前の四谷アートステュディウムから一貫したものがあると思います。例えば、「美術手帖」2008年8月号の特集、現代アートの基礎演習(岡﨑乾二郎監修)などでみられるような、(メディアというより)メディウムという観点、人間という前提条件をこえる、といったポイントがあると思います。また近年、人工知能、脳、意識、ロボットなどの研究開発が進んで、それが社会にインパクトを与えていますので、そういうことも取り入れられています。予告では、いわゆるシンギュラリティ問題が目立っていましたが、当日は、それは直接にはあまり話されませんでした。パネラー三人とも何かつくっているアーティストなので、互いに話をしやすいように感じられました。

 藤幡さんは、これまでのご自分の仕事、展示資料などをバインダーにまとめた本のようなものを作っておられて、その資料それぞれにARが付いています。ARアプリが入ったものをかざすとAR動画などを見られるようになっています。展示会場を擬似体験できたりするようでした。後日ネットでみると、AR作成ツールの説明などあって、それなりにPCを使える人ならある程度のものはできるみたいで、私はARについてそれほど知らなかったのでちょっと驚きました。紙媒体とARの組み合わせはもっと普及していくのでしょうか。「ポリ画報」という紙媒体にとっても関係あることだと思いました。

 シンポジウムでは、宇川さんがジェネラルディレクター・キューレーターをされた「高松メディアアート祭The Medium of the Spiritメディアアート紀元前」(2015.12.18-27)の紹介がされたりもしました。

 宇川さんは、他の人のサインをその人になりきってそっくりに書く、ということを10年くらいされているそうで、そんなことをされているとは知りませんでしたが、これまで1000枚分くらいの人のサインを書いてきたそうです。職業的霊媒師のようになって書くのでしょうか。ネットを検索すると有名人のサインは画像があるのでそれを手本にしているそうです。自分をメディウムにするアートだと思いますが、そのさいに、自分を消しても消しきれないものがあるというようなことを言われていました。

 高松メディアアート祭では、大本教出口王仁三郎も取り上げられていました。お筆先(を書いたのは出口なおでしたが)は、自分から書き始めるので自発的(おのずから)ですが、意志的(みずから)ではない、ようにみえます。意識しているのに意志はしていないで、書くという能動的な行為を受動的にしているようです。宗教という文化的制度のもとで、自分が自分より高次のものに明け渡されているような状態で、かなり自分を消しているように思えます。

 高松メディアアート祭には岡﨑さんが共同研究されている一種のロボットも出展されていました。ドローイングする筆記具の先の運動(筆圧や速度や方向などの変化)をデータ化して記憶し、それを画板(紙など貼ってある)の運動として再生し、手に筆記具を持ってその先を画板の動きにあてていると、データ化されたドローイングが描かれていきます。このとき、筆記具を持ったまま手を動かさずにいればドローイングの再現度は高くなります。でも、線を見ながら無意識的(?)なフィードバックで手が動いてずれていることもあります。筆記具の先に注意を集中して見ていると、手がつられて動きやすくなるかもしれませんし、実験状況全体に気を配って気持ちの距離をもって見ていれば、意識的に手を止めていられるかもしれないです。しかしもしかしたら、無意識的に手が動いている方が、自分が描いているという主観的な感じがあるかもしれないという気もします。この実験作品は、自分が描いているのではないのに自分が描いているように感じさせる仕掛けです。誰のドローイングでも描けるし、そのドローイングを誰でも描ける、ともいえます。私を渡すメディウムとしてのロボットだと思います。

 メディウムへの転回は、自分は自分のものだという自己所有の原理、(近代的な)人間の条件を変えるものだと思われます。自己所有を前提としない経済や政治など考えられるのか、このシンポジウムは、革命という語も使われていましたが、ラディカルなもののありかにふれていたように思います。

 

(原牧生)

イベントのためのメモ

 一本の鉛筆などを二人で持って(下を持つ人は利き手でない方で、上を持つ人は利き手にする)絵を描くことを、(イベントのために)トランスドローイングと名付けました。「ポリ画報vol.3」表紙の写真は、実際に制作しているときの記録写真です。

 こうして描くのは、例えば、二人で接触を保ちながら即興的にダンスをするような感じに近いものがある気がします。

 今回のイベントでは、「ポリ画報vol.3」のもとになっている夢テクストから、参加者でどれか選び、夢テクストから想像された場面や印象的なイメージを描きたいと思います。その場合、全くの即興とは違います。

 「vol.3」では、夢テクストから想像あるいは喚起される感情を非具象的に描く試みもしたのですが、その場合はより即興に近付きます。

 いかに夢経験の絵を描いてるつもりになれるかというのがポイントです。夢テクストを読んでいただいて追体験的に想像できるといいのですが。夢のイメージの再現が目的ではなく、二人の手がどういう動きになるかを楽しめればいいと思います。

 まず、想像したことや夢のついでに思ったことなどを話し合ったりしたいと思います。それによって、他の人の想像に影響を受けて想像し、自分の想像が他の人の想像が取り込まれた想像になるといいと思います。

 描くときは、何をどう描くか二人で話しながら描くのもよいです。二人で描いていると、相手の方にリードされているように感じたりしますが、その相手の方もそう感じていたりするようです。

 「vol.3」のドローイングは、夢を記述し語り合うプロセスを共有している人どうしでやっていました。今回のイベントは、そうでない方と一緒にどのような絵を描けるかたのしみです。

 

(原牧生)

「ポリ画報 vol.3 transdreaming」紹介動画

3月3日に刊行した「ポリ画報 vol.3 transdreaming」。
中身はこのような感じです。

 

3月18日(金)、19日(土)に新井薬師のスタジオ35分で刊行イベントを行いますのでぜひ実物もご覧ください。

transdreaming in 新井薬師
ポリ画報 vol.3 刊行!販売イベント 詳細↓↓

polygaho.hatenablog.com

ポリ画報 vol.3で実践した共同制作方法である”トランスドローイング”の実演(ご参加いただけます!)などなど予定しています。

ぜひお気軽におこしください。

 

(辻可愛)

ポリ画報 vol.3 transdreaming 刊行イベント

3月18日(金)、19日(土)に「ポリ画報 vol.3 transdreaming」の販売・刊行イベントを新井薬師のスタジオ35分で行います。

この2日間は「ポリ画報 vol.3 transdreaming」を特別価格でご購入いただけます。
また、19日には2人で画材を持って絵を描く”トランスドローイング”を実演。ご参加いただけます。

ぜひこの機会にご覧ください。

 

transdreaming in 新井薬師
ポリ画報 vol.3 刊行!販売イベント

会期:3月18日(金)18-23時
      19日(土)15-23時

場所:スタジオ35分
   東京都中野区上高田 5丁目47−8
   http://35fn.com/

ポリ画報 vol.3」販売 定価2000円→1700円
「ポリ画報 vol.2」(500円)も販売します。完売したvol.1もご覧いただけます。

19日:17時頃からトランスドローイングの実演。参加できます(随時)。ほかアンビエント朗読など。
   1drink オーダーお願いします。隣にバー35分があり、「婦人会」がおいしい料理をつくっています!

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(辻可愛)

「ポリ画報 vol.3 transdreaming」完成しました。

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ポリ画報 vol.3
transdreaming

絵、テクスト/原牧生、辻可愛、外島貴幸、佐々木つばさ

絵/辻可愛
漫画/外島貴幸
詩・言葉あそび/原牧生
編集デザイン/佐々木つばさ

B5サイズ 60ページ 2015-2016年制作 価格2000円

 

transdreaming について (原牧生)

瞑想、観想、空想、あるいは、幻想、幻覚、妄想、これらは、虹の色が並んでいるように、夢や夢想ととなりあっている。
眠っていないとき、夢は意識されない。しかしそのとき夢がないとはいいきれない。
浅い記憶から深い記憶まで、その人の日々の生の条件に応じて、再活性化している記憶がある、という生理状態は、意識されないあるいは表象されない夢であろう。
情動的な記憶が、もとの経験から別の場面や行動のイメージに投影され、新しい記憶に古い記憶が重なり合ったりする、夢は、一種の思考だ。

ポリ画報vol.3は、メンバーの四人で夢を語り合うという実験をした。はじめの仮定は、夢を語り合うプロセスを続けているうちに、他人の夢の影響を受けた夢をみるのではないか、ということだった。

夢を思い出せるというのは不思議だ。意識がなかったときのことを意識できるのだから。しかし、夢に関心をもつようになってくると、夢を意識しやすくなってくる。睡眠と覚醒の中間的な状態のときに、夢は夢うつつな記憶になるのだろうか。
夢を思い出すことは、夢を語ることになる(ならざるをえない)。イメージのままではすぐに忘れられるから、みたものを言葉にしていけるか(しておけるか)にかかっている。
夢を記述する(書く)とき、夢を思い出して保持している。部分的にすぎないけれど、思い出すことに集中していけば、その夢をまたみているようなものだ。

夢を語り合うとは、集まって話し合うことだが、他の人の夢の記述(夢テクスト・夢語り)を読み合うことでもあった。そうすると、夢の場面、そこにみえているものなどが、思い浮かぶところもある。他人の夢経験そのものは不可知だ。しかしそれでも人間は言葉をつかっている。言葉に介された夢が夢なのだ。

言葉から想像する、というのは、その言葉から何か思い出される、連想もともなってみえてくる、ということであろう。夢をみた当人が想起する夢と、その人の語りの言葉から想像されるものと、どれくらい違っているかは分からない。

いくつもの夢の記憶としての夢テクストの集まりをつくる、そこから特徴のようなものを見出す、いくつかの夢テクストから夢テクストの再構成をする、夢の話をしながらそういうことをしていると、夢テクストの記憶が自分の記憶に取り込まれる。
自分の夢の記憶と、他人の夢テクストからの想像(の記憶)と、経験としての違いは何だろうか。一方が現実の記憶、他方が架空の記憶、とはいえない。

そのうえで、何か絵を描いたり表現する。
分かりにくいたとえだが、何かある曲を即興音楽として演奏するみたいなものかもしれない。モチーフの再現や変奏よりも、曲想のようなものに動かされる、とらえられない記憶のドライブ。
それは共同の記憶だが、共同の記憶に同一性はない。その同一化は歴史の捏造のようなものだろう。同一性がないままに表現をあたえてみる。

夢告や予知夢や占いなど、夢は人間関係的社会的なものだった。言葉を介し、語り合われることによって、記憶は記憶につく。
民話や神話は共同体の記憶で、共同の記憶が共同体の記憶に転化するプロセスがあったに違いない。

今回の企画を考えるにあたり、いろいろな本や作品から影響をうけている。
ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』(角川文庫)は、雑誌読者にお題を出して、記憶だけを頼りにそれを描いてもらい、投稿された絵を集めコメントを付けたもの。記憶と想起とそれを描くということの面白さをしらされた。
また、ハーモニーというNPOでは、日々のミーティングで精神障害のあるメンバーどうし自分の経験を語り合い共有し、「幻聴妄想かるた」というものをつくっている。そういう実践もリスペクトしている。

この試みは、夢のイメージの表現ではなく、(この冊子をみる人において)夢をみさせるものへの旅のようなものにならなければならない。